ACT 3

 泣きたかったわけではないのに、涙が勝手に溢れてきて視界がゆるゆると揺らいだ。


「慣れてしまえ」


 レディはアスファルトに視線を落としたまま呟いた。


「人間が造った、この都市のすべてのものが当たり前の風景であるように、人間に創られたあたしも、当たり前の生き物に見えるように、あたしに慣れてしまえ!」


 レディは眼の縁に溜まっていた涙を右指で拭うと、すでに眠りについた都市を見上げながら歩きだした。


「慣れてしまうわ。いつかきっと、あたしに慣れる日が来るわ」


 カポッ! カポッ! という間抜けた足音が響いていた。


「人間は巨大なビルディングの群れを、何の疑問も持たずに造った。土の無い地面が当たり前になった。自然が創ったものには満足せず、自らが造ったものの中で安息している。だから、彼らが創ったあたしも、やがて当たり前の存在になるわ」


 レディは人工物だけの都市を見渡した。


「人間って、突拍子もないものを創っては、優越感を得ているのよ」


 彼女は忌々しく唸った。


 精神状態がまだレベルⅠだと確認は怠らなかった。


「でも、驚くのは一瞬だけ。すぐに当たり前になって次の刺激を求めて、また変なものを創るの。刺激を求めるくせに、刺激に鈍感なの。どんどんどんどん、強い刺激を求め続けて、底が無くなっていくのよ。そのうち、痛覚が快感になっていくようにね……」


 レディは眉をひそめながら、再び歩き出した。


「人工授精? ふんっ! 何人の胎児が着床しても、人間だからいいわよ。『レオポン?』かわいいものよ。異種族の卵子と精子の遺伝子を操作して造られるものなんか、もうあったりまえじゃない。ついには、異種動物を合体させた。拒絶反応のひとつもなかったわ。きっと夢袋は、そんなこと話しても信じないわね。それは神の領域だったはずだもの」


 レディは建て替え中のビルディングを見上げた。


「こちら側は古くなった」


 レディは半分壊れたビルの境を凝視しながら呟き始めた。


「この部分から壊して新しく造り直そう。パイプを繋げて接合して」


 そこまで喋ると、自分の下半身とのつなぎ目を見つめた。


 逆Ⅴ字の傷跡が残っていた。白く柔らかい女性の肌が、そこを境に強靭な野生の馬の皮に変わっていた。彼女は嫌悪で思わず目をそらした。


「ああ。出来るものなら夢であって。これが現実だとは認められない」


 レディは両手で顔を覆い、激しく首を左右に振った。


「きちんと死ねればよかった。死んでいたら、こんな実験体になんかされなかったのに。あたしは死にそこないの自殺者だから……」


 レディは激しく首を振り続けた。


 感情はまだレベルⅡまでは行っていなかったし、行かないように心を制御した。


 グッと耐えて、心の安定を図ろうとしながらも、肩から掛けたポシェットから安定剤を取り出し飲み込んだ。


 鉄柱に寄りかかり、その興奮が収まるのを静かに待った。


 レディの脳裏には、人間だった時の彼女が、最期に見たシーンが再生され始めた。


 確実な死を願い、レディはフェンスに座っていた。


 眼下で彼女を受け止めようと、コンクリートの大地が両手を広げていた。


 レディはふっと微笑むと勢いをつけて両手を広げてダイブした。


 次にレディが自分を取り戻した時には、すでに下半身は彼女が持って産まれたものではなかった。


 だが、その事実を知るのと死ねなかったという事実はイコールだった。


 死にそこないの自殺者がどんな扱いを受けるかを、十分に知った上で行った自殺だったから、レディは確実に死ねるように空を飛んだ。


 けれど自分の下半身を見た瞬間、失敗したのだと悟った。


「君の下半身は完全に潰れていたよ。我々が駆け付けた時、君はまだ生きていたからねぇ。我々は君のために雌のサラブレッドを解体し、君を助けてあげたんだよ」


 白衣の男は「感謝してほしい」と言いたそうな顔で微笑んだ。


「美しい『ケンタウロス』だ。我々は、神話を現実のものとしたのだ」


 ボサボサ頭に牛乳瓶の底眼鏡。狂気博士男が、高揚した声でレディを見て叫んだ。


「あなたの脳には、小さな『人工脳』が埋め込まれています。馬の下半身に絶望した瞬間、『セキュリティ・システム』によりその感情はシャットダウンされ、リセットされた状態で再起動するようにプログラムされています。理由は、『せっかく創ったものだから、死なれては困る』からです」


「高慢」が白衣を着たような女科学者が、同じ女であるはずのレディに対してその感情すら持たずに説明した。


 それ以降のことをレディは絶対に思い出さない。


 どうやって馬になった下半身を受け入れたのかもすべて忘れた。


 いや、忘れさせられた。


 何度も何度も「セキュリティ・システム」によってリセットされ、再起動後には無垢な幼女に戻っていた。


 しかし、レディはだんだんと、自分の心をコントロールする手段を身に着け始めていた。


 悲しみを悲しみのまま持ち続けていても、そこに直接アクセスしなければ人工脳を騙すことができたのだ。


 いや、本来だったらこれはあり得ないエラーだ。


 ちょっとでも悲観する感情が浮かんだら、即座にリセットが行われるはずだった。


 レディが「バグ」という言葉を知っていたら、この状態が、「システム」内の「バグ」であることに気がついただろう。


 いや、それもあり得ない。


 当事者が気がつかないから「バグ」という。


 誰一人、彼女の中の「バグ」には気がつかずにいた。


「彼らはプラモデルでも創るかのように、楽しそうにあたしを創った。あたしは人間に創られた人工生命体よ! それ以外の何ものでもないわ!」


 バグにより、レディの感情はリセットされずに高ぶり始めていた。


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