ACT  2 

 顔をしかめたレディの視界の隅に、ベンチに載った黒いごみ袋のようなもの映った。通り過ぎようとしたら、その黒いごみ袋と視線が合った。


 小さな黒豆のような2つの目。


 追い詰められたネズミのようだと思った。


 それは老人の怯えた眼差しだった。


 レディは思わず立ち止まってしまった。


(関わるな!)


 レディの脳が瞬間的に彼女に命令した。


 当然だ。人工生命体は人間ではない。人間が創った実験体だ。


 けれど、どんなにズタボロのごみ袋の風体であっても、彼は人間だ。レディとは比べられないほど自然な生き物だ。


 彼から視線を外し、再び歩き出そうとした瞬間、しわがれた声がごみ袋から発せられた。


「ケンタウロス……」


 この言葉がレディは大嫌いだった。必ず、物珍しいものを見たという感情が含まれて、レディに投げられるからだ。


 けれど彼の声には、率直な驚きの感情だけが挟まっていた。レディは苦笑いを浮かべて、小さな老人に近づいた。


「今夜はよく眠れるわね」


 レディは、何か一声をかければ、立ち去れる気がしたのだった。


「ケンタウロスだ」


 黒豆のような目がキラキラ光っていた。


「おじいさん。『ケンタウロス』なんて言わないでよ」


 レディは顔をしかめた。


「わしは何もしないから……、殺さないでくれ」


 老人は、突然小さな身体をさらに縮ませて、震えた声を発した。


「え?」


 レディは意味がわからなかった。


「蹴らないでくれ。ケンタウロス族の気性が荒いことは十分わかってる。なぁ、あんたの好きな酒をやるから、見逃してくれ」


 老人はしっかりと抱きしめていた酒瓶を差し出した。


「お酒なんかいらないわよ」


 レディは困ったように笑って答えた。


「受け取らないんか? 大丈夫だ。ここならヘラクレスは来ない。矢を射られはしないよ」


 老人は真剣な表情で喋っている。


「おじいさん。ここは神話の世界じゃないわよ」


 レディは言いながら老人に近づいた。彼は安心したように酒瓶を差し出した。レディは首を横に振った。


「いらないんか?」


 かわいらしい黒い目が、不思議そうにレディを見上げた。頷いた彼女を見ると、安心したように瓶を懐に戻した。


「あんた、なぜこんなところにいるんだい? 山へ帰る途中なんか?」


 老人は嬉しそうにしゃべりだした。


「わしは幼いころ、ずっと信じてたんだよ。あんたたちのことをね」


 老人はほんの少し言葉を切って目を伏せた。


「いつの間にか忘れた……」


 呟いてレディを見上げると、寂しそうに笑った。


「あんたたちはニンフを使って酒を造り、ケイローンの話に耳を傾け、毎夜、宴を繰り広げてるんだろう? わしもそこに住みたい」


 小さな澄んだ黒い目が、うらやましそうにレディを見上げていた。


「わしはあんたたちを忘れてた。でもあんたたちは、本当にいるんだね。最近よく見るよ。


この間は『ハーピー』を見た。ハゲワシの身体をした醜い女だった。奴はハーピーだからな」


 老人はクックと肩で笑った。


「彼女も実験体よ。人工生命体として創られた……」


 レディは、老人から視線をそらせて呟いた。


「でも、あんたは美しいケンタウロスだ。なんて名前なんだい?」


 レディは老人を見つめると口を開いた。


「レディ……」


 老人は聞き取るしぐさをしたが、すぐに肩をすぼめた。


「あんたの言葉は、わしには聞こえないらしい。ははっ。わしは人間だからな……」


 老人は悲しそうに丸くなった。


「でもあんたに会えて嬉しいよ。今夜はあんたたちの夢を見られそうだ。


バッカスの酒盛り。ゼウス。アポロン。アルテミス。ヘラはいけない。彼女は嫉妬深いからな。


あんた、きれいだから、ヘラやアルテミスには気をつけな。トロヤの二の舞になる」


 老人はにこにこ笑いながら、深い眠りの中に入っていった。


 レディは小さな黒いごみ袋に戻った彼を見下ろした。


「ふふ。この世界が、あんたみたいな人たちだけだったらよかったのに。でもあんたみたいな人間だけなら、あたしなんかいないわ。


けっして現実に創ろうなんて考えない。あたしがいるってことは、神話は『実用書』になっちゃったのよ」


 レディはすでに眠っている老人に向かってしゃべり続けた。


「ねぇ、耳の遠いおじいさん。あたしの名前は『レディ』。だってあたしはまだ二〇歳はたちだもん。そしてあたしの下半身はサラブレッドの雌馬なのよ。


あたしにぴったりの名前だと思わない?」


 再びレディは、愛おしそうな眼差しで彼を見つめた。


「夢袋ね、あなたは。まだ信じてんのね。あたしがギリシャ神話で語り継がれてきた『ケンタウロス』だと、全く疑っていないのね。


それならそれで、あたしは嬉しいわ。


『ケンタウロス』という固有名詞で呼ばれるのは悪くないわ。


でもね、夢袋さん。


あなたの袋を針で突いて割りたくはないけど、あたしは『ケンタウロス』じゃないのよ。


『人間』と『馬』を、人間がくっつけた人工生命体なの。


山へ行っても仲間はいないわ。あたしはこの『都市』で創られたの」


 レディは老人から離れ、ゆっくりと歩きだした。


「ばいばい。素敵な夢袋さん」



**********


お読みいただきありがとうございました。


お時間がありましたら、同時掲載の「異世界ファンタジー」の方にも、お立ち寄りいただけると嬉しいです。


よろしくお願いします。



https://kakuyomu.jp/works/16818093074747194806



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