ACT1  Vol.2

 A・M 1:00。熱帯夜。


 夏の夜には珍しく、先ほどまで雨が降っていた。


 非情な空にすでに雨の記憶はない。けれど太陽にじっくりと焼かれ、自動車と人に踏まれ続けたアスファルトの火照りと高ぶりは、雨により収まり始めている。


 雨は生暖かい水蒸気と化しアスファルトを愛撫していた。


「ふぅ……ん」


 レディは腹から胸へと這い上がってきた水蒸気を深く吸い込んだ。


 身体の中に染み込んだ瞬間、閉じた瞼の裏に、草原を走り回る彼女自身が映像化された。


 だが瞬時にその映像を否定し、アスファルトと巨大なビルディングを睨むと、彼女の心は小さな声で泣いた。


 しかしその感情に対して、レディは慎重に、レベルⅡにならないように気をつけ、心に冷静さを保つようにコントロールした。


(ここは造りものの世界よ!)


 レディは都市にいて、草原をイメージするとは情けないと思った。


 生物の太古からの記憶なのかもしれないが、レディはそれを認めない。覚えているとしたら、それは彼女の下半身だからだ。


「生暖かい夜だわ。でも肌を伝って鼻腔をくすぐる水蒸気の感触とむせるような匂いは好きよ」


 レディは温かい水蒸気が、腹から二つの乳房の間をやさしく這いあがる感触を楽しんだ。


 彼女の上半身は、シースルーの丈が長めのカーディガンを一枚羽織っているだけだった。透けた布の中にぴんと張った小ぶりの乳房が息づき、ほぼヌードといってもよいくらいだった。


 そんな姿さえも、レディには羞恥する感情は許されていなかった。この嗜好も狂人科学者のものだろう。


 レディはこの時間が好きだった。


 道路はようやく昨日を忘れ、大きなあくびをして遅い眠りの中へ堕ち始めている。


 言葉や音に飽きた都市は眠る時間だ。その中で、ひずめの音とレディの喋る声だけが響いていた。


「雨は嫌い。でも雨上がりは好きだわ。常夜灯の光が心もとなく濡れた道路に映っていて、大宇宙に浮かぶ小宇宙みたい。あたしは大宇宙を歩き回っているのよ。うふふ。『カポッ! カポッ!』って響くあたしの足音がひょうきんすぎるわ」


 レディは言葉とは裏腹に、忌々しそうに亜麻色の長く垂れて顔を隠していた前髪をかきあげると、再び歩き出した。


「それでもあたしは歩くわ。『カポッ! カポッ!』ってね。ふんっ! 面白いじゃない。たかが濡れたアスファルトに映る常夜灯の光が、大宇宙に浮かぶ小宇宙にだって見えるのよ。


 慣れてしまえばアスファルトに鳴り響くあたしの足音だって、誰も気に留めたり笑ったりしなくなるわよ。


 だってそうじゃない? 


 この何百階もあるビルディングだって、今でこそ当たり前の顔をして建っているけれど、完成当時はあまりの高さに見学者が行列を作っていたわ。


 珍しいものは一瞬話題になるけれど、すぐに慣れてしまう。人間なんてそんなものよ」


 レディは小宇宙を踏みながら歩きだした。


「あっはっは! 間の抜けた音! アスファルトにはハイヒールの音が似合うわ。あたしにはもう二度と縁がないものだけれどね」


 レディはわざと四肢を動かして音を立てた。


「ひょうきん。ひょうきん。でもね、これこそが自然が草地を走るために創り出した蹄の音なのよ。人間が造ったアスファルトの道路に似合うわけがない」


 レディは再び並足で歩き出した。交差点で立ち止まると、蹄の音がやけに鋭く『カツーン』と遠くまで轟いた。


「全く似合わない」


 そう呟いても、土の上を歩きたいと思わないのは、レディが産まれながらの人間だったからだ。


「慣れてしまえ!」


 馬の下半身。華奢な女性の上半身。


 レディは誰にも届かない言葉を繰り返し呟いていた。


「慣れてしまえ!」


 レディを取り囲むビルディングもアスファルトの道路も、人間が造り出した人工物だ。感情なんかない。



 だからレディを慰めてくれない。


 笑い飛ばしてもくれない。


 当然受け入れる気は全くない。



 レディの足音は彼女の心を無視して、上半身に不釣り合いな音を響かせていた。



***********


お読みいただきありがとうございました。


お時間がありましたら、同時掲載の「異世界ファンタジー」の方にも、お立ち寄りいただけると嬉しいです。


よろしくお願いします。



https://kakuyomu.jp/works/16818093074747194806


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