喪失

 いた。

 一人で。

 執務室に。

 暗い。

 いつの間にか。

 気がつくと。

 ふと。

 あの後。


 どうやってここに帰ってきたのかわからない。

 あれからどれだけの時間が経ったのかもわからない。

 ロンドンがどうなったのかもわからない。

 アイラの身体を見つけられたのかもわからない。

 これから何をすればいいのかもわからない。

 そもそも何がしたかったのかもわからない。

 どうしてこんなことになったのかもわからない。

 あと幾つわからないのかわからない。 


 もう、無理だ。

 もう、立ち上がれない。

 もう、力が入らない。

 もう、何も考えたくない。

 もう、何も見えない。

 もう、何も聞こえない。

 もう、耐えられない。


 辛い。苦しい。

 哀しい。切ない。

 暗い。重たい。

 寒い。痛い。

 信じられない。息ができない。

 許せない、何もかも。


 絶望ばかり繰り返すこの世界も。

 約束を守らず先に死んでいく仲間も。

 我が物顔で大切なものを奪っていく敵も。

 誰も守ることができない自分も。

 守られてばかりの私も。

 

 後どれだけこんな想いをすればいい?

 後どれだけ経てば解放される?

 後どれだけ空を見上げればいい?

 後どれだけ飛べば自由になれる?


 答えはどこにもない。

 誰も知らない。

 教えてくれない。


 わからない。

 私には何も。


 光は、途絶えた。




 苦しい苦しい苦しい苦しい。駄目だ。おかしい。どうしてこんな。私のせいだ。私が何もかもいけない。何もかも。ずっとそうだ。始めから終わりまで。徹頭徹尾。全部全部全部全部。私なんだ。私が死なせた。私が殺した。私が。巻き込んだ。私が私が。曲げた。捻じ曲げた。嫌だ。もう会えない。嫌なのに。会いたい逢いたいあいたい。顔を見せて。笑った顔を。思い出ではなく。私に触れて。期待させて。どこへでも行けるって。裏切らないで。見捨てないで。置いていかないで。慰めて。すごいって褒めて。そっと私の存在を認めて。優しく放っておいて。微笑みかけて。安心させて。傍にいるって。でも。いない。誰もいない。いないいないいないいない。どこにいったの。どうしてどうしていなくなったの。みんな。嘘だ。わからない。誰か。こんなの。無理だ。耐えられない。保たない。潰れる。温もりが恋しい。感触が寂しい。冷たい。一人。一人だ。一人は寒い。凍える。怖い。震える。暗い。何もない。無機質。世界が黒い。音もしない。どこにもない。あなたの香り。声を聞きたい。もう一度でいい。よくない。足りない。到底。諦められない。一緒にいたい。明日も。明後日も。昨日までのように。だけど。もう戻らない。私のせいで。私が不甲斐なかったから。私がいたから。自業自得。救いなどない。助けてくれない。誰も。私は一人。落ちていく。崩れていく。ぐらぐらする。まわる。うつろう。ふらふら。心臓がうるさい。息ができない。痛い。頭が痛い。痛い痛い。胸が痛い。痛い痛い痛い。全部痛い。歪む。世界が。変わっていく。気持ち悪い。生きていることが。吐き出したい。全てを。なくしてしまいたい。自分なんて。意味がない。世界なんて。要らない。なくていい。壊れてしまえ。私ごと。ひび割れて。砕け散って。粉々になって。すり潰されて。跡形もなくなって。踏みにじられて。片隅で。消えていけ。こんな思いをしてまで生きたいわけじゃない。生きていてもいいことがない。悲しいことばかりだ。辛いことだらけだ。あらゆる物事も過去になんかならない。全部今だ。今が苦しい。今が終わっている。間違ってた。知ったような口は利けない。もう。残酷だ。余りにも。疲れた。しんどい。動けない。何も考えたくない。なくなりたい。もう死にたい。終わりにしたい。しにたいしにたい。おわりたい。


 そして。


 あなたのところへ。


 ◆◆◆ 


 開け放たれた執務室の窓。

 暗い夜空には何の灯火も無く。

 冷たい風が吹き荒ぶ。


 ぼんやりとした佇まいで窓際に立ち、夜を一身に受けるルシル。

 その虚ろな瞳には、もうこの世界を映す力が無かった。


「おかあさま……。あいら……」


 今ここから飛び降りれば、二人に会えるのだろうか。

 会って、話ができるのだろうか。


 可能性が僅かでもあるのなら、躊躇う理由は無い。

 もう、この世に未練など残していない。


 ふらふらと、窓枠から身を乗り出す。

 そんな彼女の動きを止めたのは、皮肉にも、不意に大音量で聞こえてきた、黒の黎明主宰の声であった。


『――親愛なる紳士淑女、アルベルニア連合王国民の皆様、はじめまして。僕は黒の黎明主宰、グラントリー・パトモスという者です。夜分遅くに大変恐縮でありますが、ロンドンの街は僕達、黒の黎明が掌握したことを、ここにご報告いたします』


 イーストエンドで遭遇したあの不愉快な男の声が、前触れ無く辺りに響いた。


 アルベルニアには、ネフィリムの上陸など国家存亡に関わる有事の際に、国民に向け効率的に指示を出す為の通信網が存在する。

 国防有線通信。

 ロンドンのバッキンガム宮殿やウェストミンスター宮殿、ダウニング街十番地から送られたメッセージを連合王国全土へ届けスピーカーで伝える通信インフラ。


 それを通じてパトモスの声が聞こえてきたということは、ロンドンが黒の黎明の手に落ちたというのは真実のようだと、ルシルはぼんやり認識する。


『突然のことに驚かれた方も多いでしょう。ですが僕達が行動を起こし、こうして皆様に声を届けているのには理由があります。それは、長年この国で、世界で、隠されてきた非道で醜悪な真実を、皆様にお伝えする必要があったからです』


 次第に熱を帯びてくるパトモスの声。

 対してルシルはどこまでも無気力であったが、ただ何となく、その声に耳を傾けていた。

 これだけ国を目茶苦茶にした奴らが、大事なものを尽く奪っていった奴らが、果たして一体何を語るのか。


 興味は無くとも、聞かねばならないという思いがあった。


『皆様もご存知、異形ネフィリム。このアルベルニアだけでなく世界各地に脅威を振り撒き、人類を滅亡寸前にまで追いやった怪物です。この星の理から外れた異様な存在である彼らですが……。そもそも何故ネフィリムが人を襲うかというその理由を、ご存知でしょうか』


 人々の意識を、注目を惹き付けるよう精密に調整された語り口。

 黒の黎明主宰の肩書きが伊達ではないことが、そこからわかる。


『命は他の命を喰らって生き永らえる……。その摂理にネフィリムも従っている。それは間違いではありません。……但し、重要な真実が抜け落ちています。そしてそれこそが、国家が国民に隠蔽し、ひた隠しにしてきた醜悪な真実。――黒の黎明が今回のような暴挙に臨んででも暴かなければならなかった、事実なのです』


 いつの間にか、ルシルはその放送に引き込まれていた。

 全てを失い空っぽになった意識が、パトモスの声へ釘付けにされる。


 ネフィリムに関する、隠された醜悪な真実。

 その言葉は、無視できない程に、余りにも引力が強い。


 恐らく連合王国中の注目をたった一身に引き付けて、パトモスは、その真実を暴露する。


『彼らは自らのエネルギー源として人間を捕食します。しかし彼らの求めるエネルギーとは、僕達が魔力と呼んでいるものと同一のもの。――即ち、魔女にのみ宿る異能の力なのです』


 身体中から、全ての力が抜ける。

 言葉だけで、無力化される。

 パトモスの演説で公表された醜悪な真実。

 それを耳にしたルシルは、その場に崩れ落ちた。


『彼らは全ての人類に対して腹が減っているわけではありません。むしろその逆、極々少数の異端を求めて襲ってくる怪物に、大衆が巻き込まれているだけなのです! つまるところ彼らは、アルベルニアに存在する魔女を捕食しようと、その存在に惹かれて、何年も執拗にこの国を襲っているに過ぎないのですッ! 無辜の民を巻き込みながらッ!!』


 怪物が人類を襲うのは魔女という存在がいるから。

 多くの人々が死んでいくのは自分達がいるから。

 では、そうであるなら。

 この地獄を解決する為の冴えたやり方があるではないか。


『――アルベルニアから魔女を根絶さえすれば、全ての脅威は取り除かれるのですッ!!』


 丁度ルシルが至った結論を、スピーカーの向こうでパトモスが叫ぶ。

 それはまるで、滅びへ向かう国を憂える救世主のようで。

 絶対的な正義を掲げて、声を上げた。


『これこそが、隠蔽されてきた醜悪な真実! 皆様はこれまで、騙されてきました! 誤った正義、操作された情報で! ネフィリムという強大な脅威に立ち向かう役目を、魔女や騎士という少数の女性に背負わせているという負い目を感じさせられ! 奴らが襲ってくる原因である、その彼女ら自身に対して! 国を守ってくれる英雄だとか、希望の光だとか、そんな吐き気のする言葉で讃えることを強要されて! 全ての人類が! 魔女の引き起こす災禍に巻き込まれてきたのです!』


 真夜中の静謐を破る声は王国全土に伝播し揺るがす。

 揺さぶり、向きを整え、解き放つ。


『しかし真実は暴かれました! もう皆様は、良いように騙される愚者ではありません! 何の為に何をすべきか、もうご自分で正しく判断できるはずです! ――そうッ! 排斥するのですッ! 魔女を、騎士を、人類を騙す悪魔の化身を! 全ての人類を、救うために!!』


 それは、世界を変える一撃。


 気がつくと、パトモスの放送は終わっていた。

 国防有線通信のスピーカーは何も音を発していない。

 まるでもうその役目は終えたと言わんばかりに。

 国の脅威も、国民への指示も、既に伝え終えたのだと。


 誰もいない執務室で一人、ルシルは。


「――あは、あはは……。あははははは!」


 真っ暗な天井を見上げ、ただただ笑った。


 おかしくて仕方がない。


 一体自分という存在は、ルシル・シルバという人間は何なのだ?


 家族に捨てられ、親に見限られ。

 それでも存在価値を示そうと、血に塗れながら怪物共と戦ってきた。

 動機は歪んでいても、行い自体は誰かの役に立っていると思った。

 国を守る英雄として、求められる役割を演じてきた。


 だがしかしそれが何だ?


 全ての元凶は自分だった。究極のマッチポンプ。


 これぞまさしく醜悪、糾弾されるべき邪悪だ。


「あはははははははははははははははははははははっ!!」


「あはははははははははははははははははははははっ!!」


「あはははははははははははははははははははははっ!!」


 こんなもの、笑う以外にどうしようもない。

 他にどうしろという。

 こんな世界で。

 これ以上、することなんてない。


「……いや。あと一つだけあるか」


 ふと、笑いを止めて呟く。

 ぴたりと静寂の戻った室内で、彼女はふらりと立ち上がる。

 そしてもう一度、開かれた窓に向き直り――


「団長っ! ドーバー防衛隊の方々がお越しです! ……至急、お目にかかりたいと」


 突然かかった、マルファからの呼び声。


 まったく、先程から邪魔されてばかりだなとルシルは小さく息を吐く。


 それにしても、ドーバー防衛隊も行動が早い。

 ここまで息を切らせて引導を渡しにこなくても。

 そちらの手なんて汚させずとも、勝手に死んでやるというのに。

 まあそれが向こうの希望なら、応じよう。

 どれだけ残虐な死に方でも、受け入れるべき義務がある。


 心から思う。

 最低な人生だったと。

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