第13話

 HRを終え、夏休み明け初日のプログラムが全て終わった後、七海は帰宅する群衆の隙間を縫って三年四組を来訪していた。散り散りに生徒が吐き出されていく引き戸の前に立った七海は、覚悟を決めるように深呼吸をして、夏服のネクタイを正す。


 頭の中に、最後に見た恵奈の顔が過る。


 夏休みを迎える直前、七海の叫びを聞いて裏切られたような顔をした恵奈。あれが、七海の記憶の中にある、最も新しい彼女の表情だ。そして、それ以降は電話もしなかった。つまり、その時の涙を堪えるような声が、最後に聞いた声だ。


 それを上書きする。


 ピシャリと力強く己の片頬を弾き、周囲を行く生徒が遠巻きに奇異の目を向ける中、それを無視し――七海は意を決して教室の引き戸を開けた。


 ちょうど、周藤恵奈が帰宅をしようとしていたところだった。鞄を担いで扉に向かっていた彼女は、急に現れた七海を見て仰天する。思わずといった様子で後退りをした。


「やっ、薮崎さん?」

「よう、久しぶり」


 何事も無かったように軽く手を上げる七海を見て、恵奈の顔に困惑と驚愕が入り混じる。


 だが、恵奈が固唾を飲んだ一瞬だけ、その顔に警戒や不安の色が宿った。だが、それは瞬きをした次の瞬間には、優等生然とした穏やかな表情へと変貌していた。


 確信する。彼女の中には間違いなくあの一件が残っており、少なくとも七海は歓迎されてなどいない。無論、電話に一切応じなかったことから、そんなことは分かっていたのだが。


 さて、夏休み前に七海と恵奈との間で交わされたひと悶着は有名なのだろう。行き交う生徒たちは遠巻きに聞き耳を立てていた。それを見た恵奈は、上手に優等生の演技をした。


「どうしたの? 久しぶりだね、元気してた?」


 だが、七海は挨拶に応えるよりも先にやるべきことがあると、佇まいを直す。


 恵奈に向き直ると、周囲の目など気にせずに深く頭を下げた。


「その前に――ごめん」


 喧騒が深くなる。恵奈が息を呑む音がした。


 七海は視界一面に広がる床を眺めながら、謝辞を言葉に紡いだ。


「私は周藤に酷いことを言った。まずは、それを謝りたかった」


 人前で頭を下げるのは少々狡いような気もしたが、こうでもしなければ彼女はのらりくらりと逃げてしまう。それが彼女の本意なのだから仕方がないという考え方もできるが、七海はそう割り切れるほど潔くもなかった。


 頭に彼女の視線が突き刺さるのを感じる。


 沈黙は数秒だった。彼女は楽天的な声を作って朗らかに笑い、七海の肩を小突く。


「もう、やだなあ。私はそんなの気にしてないって」


 声に顔を上げると、恵奈はどこか呆れたような、しかし怒りなど僅かも感じさせない笑みを浮かべていた。どうやら本当に気に留めていないのではないか、などと思ってしまいそうだった。だが、少なくともあの現場で、あの顔を真正面に見た七海には、それが嘘だと分かる。


 彼女は演技を通した。まだ、カットは入らないらしい。


 ならば付き合うべきだろう。七海は素直に受け答えをする。


「もしかして薮崎さん、夏休みの間ずっと気にしてたの?」

「……まあ、うん。少し」

「律義だなあ。あんなの、当たり前の話でしょ? 別に今更傷付いたりしてないし、そもそも、君は私に言ったんじゃなくて、お友達と話してるのを私が勝手に聞いたんじゃん。謝るようなことじゃないよ。むしろ、わざわざ気にしてくれてありがとうね」


 綺麗な仮面を被った女だ。七海は胸中で彼女の演技を評価する。


「そっか、気にしてなかったんだ」

「もちろん。わざわざ足を運ばせてごめんね」

「いや、気にしないでよ。それより、もう一つの用件があるんだけど」


 恵奈は困ったような顔を浮かべ、それを笑顔で覆って小首を傾げる。「用件?」と不思議そうにする彼女に、七海は軽く頷き、唇を湿らせてからそれを伝えた。




「もう一回、周藤のオーディション動画を撮らせてほしい」




 恵奈の双眸が大きく見開かれる。その宝石の眼差しに映る七海の顔は固い決意を宿していた。聞き耳を立てていた数名はそれを退屈そうに聞き流して、やがて散り散りに去って行く。だが、恵奈だけは演技も忘れて硬直したまま、真意を探るように七海を見ていた。


 その表情にあるのは疑念だ。それも道理か、恵奈にあんな言葉を聞かせたのだから。本気で取り組む意思などないと嘯いた人間がこう接触してくれば、疑いが先に来るはずだ。


 七海は彼女の目を捕まえるように睨み、言葉を重ねた。


「まだ、諦めてないんでしょ? もう一度だけ、やらせてほしい。今度は――」


 今度は、全力でお前を送り出す。そう言い切る前に、恵奈は手を伸ばして七海の口を塞いだ。物理的にではなく、前に翳すようにして、黙れというジェスチャーをしたのだ。


「……ごめんね」


 謝罪するために作った苦しそうな顔は、とても偽物とは思えなかった。


 本心から七海に申し訳ないと思っているのかもしれない。


 だとすると、彼女は何に罪悪感を抱いているのか。


「実は、女優。諦めたの」


 罪悪感の正体は夢を捨て、七海の信頼を裏切ってしまったことだろうか。それとも、事を荒立てないための枕詞のようなものなのか。或いは、もう七海を信じられないことに対してか。


 真実は分からないフリをして、七海は主演女優賞でも貰えるのではないかと錯覚出来るような、真に迫る苦渋の顔を浮かべると、寂しそうに瞳を伏せて呟いた。


「……そっか。残念だよ」




「――なんて言うと思ったか。お前の諦めが悪いことくらい知ってんだよ」


 時刻は二十二時。繁華街に置かれた『青木俳優養成所』の入り口前で、七海は吐き捨てる。


 ちょうど建物から出てきた恵奈は、心底から度し難いものを見るような目で七海を見詰めること数秒、唇をパクパクと動かして糾弾の言葉を探した後、溜息を吐いて額を押さえた。


「……ストーカー?」

「前にこの辺で遊んだ時に偶然、ね。待ち伏せしたのは悪いとは思ってるよ」

「本当だよ。一歩間違えたら犯罪だよ。迷惑防止条例って知ってる?」

「お前がここで首を縦に振れば迷惑にならない」


 恵奈は大袈裟に驚嘆して天を仰ぎ、「マジか」と呆れた。


 それからチラリと養成所を一瞥した恵奈は、駅の方を指す。


「ここだと出入りの邪魔になるし、私も話は聞かれたくない。取り敢えず移動しよう」


 七海は素直に頷くと、恵奈と並んで駅の方へと歩いていく。


 二十二時の繁華街には柄の悪い老若男女が百鬼夜行の如く行き交っていた。酒と煙草の香りと、品の無い笑い声。怒声や横いっぱいに広がる人々。そんな風物詩だ。


 アルコールとニコチンを含む夜の空気に酔いながら歩き、七海は隣を見る。恵奈は悩ましそうな表情で俯き、言葉を探している。「嘘吐いたのは、ごめん」と不意に詫びてくるから、一方的に謝る立場だと自覚していた七海は「いや、別に」しか言えなかった。


「なあ、周藤」


 歩きながら切り出すと、歩きながら彼女も応じた。


「うん」

「もう一度だけ、お前を撮らせてほしい」


 言葉で飾ることはせず、単刀直入に、改めてそう頼み込んだ。


 恵奈は少し泣きそうに顔を歪めた後、唇を甘噛みし、息を吐く。


「……なら、あの日の言葉は、どういう意味だったの?」


 お互いに、あの一件を掘り下げて明確にしなければいけないことは理解していた。だが、いざ率直に訊かれると言葉に詰まる。息を詰まらせた後、七海は深呼吸を挟む。


「……そのままの意味だった。私は、周藤を馬鹿にしていた」


 言い訳はしない。今はどうあれ、あの時のあの言葉は、そういうものだった。


 恵奈は馬鹿正直な七海に少しだけ笑うと、徐に片手で顔を覆う。


「そっか」

「ごめん」


 返答はない。恵奈は心底悲しそうに顔を歪めた後、手を剥がして笑みを作る。


「君がどういう意図を持っていたとしても、私のオーディション用の動画に貢献してくれたのは間違いないし、行動は確かに実益に繋がってた。だから、謝る必要は無いよ。むしろ、本当に、これは嘘じゃなくて……助かったと思ってる」

「うん」

「でも、ごめんなさい」


 謝罪は、明確に拒絶の意思を含んでいた。


 七海は負い目がある手前、無理強いをすることはできずに言葉を呑み込んだ。天を仰ぐ七海の横顔を一瞥し、恵奈は微かに相好を崩す。


「私さ、中学時代から女優目指してるんだよね」


 世間話だろうか。


「そんなに早かったんだ」

「でもさ、やっぱり学年数百人とかの中にそういう仕事を目指してる人って本当に少なくて、今まで業界的な話をできることがなかったの。だから、短い間でも君と一緒に仕事ができて、本当に嬉しかった。心の底から嬉しくて――だから、辛かった」


 彼女の伏せられた瞳の向こう側に深い心の傷が見え、七海は言葉を失う。


「後はまあ、やっぱり自分で頑張らないと、って思い直した部分もあるよ」


 恵奈は己の胸元に手を置くと、空元気を思わせる笑みを見せる。


 どうにも決意は固いように見えた。七海は困り果てて目を瞑る。


 しばらく考えた後、それでも折れることが出来なかったから、「……本当に、どうしようもなく私に嫌悪感を抱いていたら、すぐに言ってほしいんだけど」と前置きして粘ることにした。「いや、そこまでじゃないけど?」と、やや肩透かしを覚えるほど軽く恵奈が言うから、七海はポケットに親指を引っ掛けてお言葉に甘えた。


「なら言い訳をしても?」

「ど、どうぞ」


 やや困惑を含んだ恵奈の承諾。


「本当はさ、周藤が妬ましかったんだよね。正直……嫌いですらあった」


 アクセル全開で本心を吐露すると、恵奈は顎でも外れたのではないかとあんぐり口を開けた後、恥ずかしそうに閉じ、ジトッと湿気た半眼を突き刺してくる。「急に刺してくるね?」と戸惑いを隠せない声に、「過去の話だよ。過去の」と注釈を入れた。


「私。父さんがアダルトビデオの撮影監督をやってるんだ」

「ああ、うん。聞いたよ。その――どう反応すればいいか分からないけども」

「笑っても同情しても、何も思わないでも、別に好きに反応すればいいよ。今更、特に何かを思うようなこともない。父さんに直接言うなら話は別だけど」


 頷く恵奈に、七海は話を続行する。


「でも、以前までの私はそうじゃなかった。人からの反応が怖くて――自分の映画監督の夢と父さんの仕事を結び付けられて、馬鹿にされるのが嫌だったんだよね」

「……映画監督?」

「あれ、言ってなかったっけ。私、映画監督に憧れてたんだ」


 よほど意外だったのか、恵奈は目を丸くした。


「で、周りの目とか声とかが気になって、色々と嫌になって――そうしている時に周藤に会った。そしたらお前は、人の目とか気にせず死ぬ気で夢を追い駆けていて。困ったらすぐに人に頼れる柔軟さと、自分の弱点を受け入れる器量を持っていた。ほんと、腹が立った。……私は周藤みたいに全力で夢に向き合えなかったから、あんなことを言ったんだ」


 恵奈は腕を組んで難しそうな表情を浮かべつつ、紙一重で同意した。


「……まあ、それは確かに私が同じ立場でも、私みたいな人を苦手になるかも」

「だろ? なったんだよ。お前のこと、苦手だった」

「でもそれ、面と向かって言われると傷付くんだけど」

「過去の話だよ。過去の」


 そう誤魔化すと、恵奈は七海の目を覗き込んだ。


「……なに。じゃあ、今は違うの?」


 疑念を含んだ眼差しを受け、七海は素直に答える。


「いや、今もギリギリ苦手だけど。結局、心を折れなかったし」

「なんだよ」

「でも、未来では好きになる」


 予定の話を聞いた恵奈は、呆気に取られたように口を閉じて七海を見る。驚きを含んだ目が呆れへとグラデーションを描いていく様を真正面に眺める。「……はい?」と猜疑を紡いだ呟きをするから、七海は良い頃合いだと判断して話を軌道修正した。


「もしもお前を芸能界に送り出せたら、たぶんそれは、私の自信に繋がる。そうなった時、周藤恵奈という人間が私の監督としての誇りになるんだと思う」


 一つのフィルムが一人の人間の未来を作った。監督としてこれほど嬉しい話があるか。


「だからこれは、周藤の為とかそういう話じゃないんだ」


 根底に彼女への負い目やその償いの意図が含まれているのは認める。


 だが、七海の行動原理の大部分を占めているのは、間違いなく――


「捨てた夢を拾い直すために、周藤を利用したい。代わりに、絶対に合格させる」


 ――そんな、私利私欲だ。


 半端にお為ごかしを弄するよりも、素直な部分を吐露した方が良いケースもある。少なくとも恵奈との対話においてはお世辞の類は使わない方がいいと認識する。理由は簡単だ。彼女の方が優れた演者だからである。主演女優は彼女に譲る。嘘は通じない。


 恵奈は面食らった様子で七海を見詰め、少し悩ましそうに視線を逸らす。そこには先ほどまで含まれていた意固地な警戒心の類は無く、葛藤が宿っているように見えた。


「周藤は顔もスタイルも良い。努力ができるし演技の技術もあるんだと思う」


 面と向かって褒められた恵奈は満更でもなさそうに頬を綻ばせる。


「それでも、エクレールプロモーションはお前を採用しなかった。それはなぜか? それでも尚、要求基準に満たなかったからだ。世の中、上には上が居るってことになる」


 急に反転して貶してくるものだから、「おい」と恵奈は絶妙な顔で文句を垂れる。


 不意に、七海はそこで足を止めた。釣られるようにして恵奈も不思議そうに足を止めた。


 繁華街の歩道の片隅で、二人は真正面に見詰め合う。まるでプロポーズの様相だ。


「だから――私が周藤を世界一にするよ」


 一瞬、雑踏の音が世界から消え失せたような錯覚に陥った。薄暗い繁華街の路地には大勢の人々が居たが、一名除いて七海を含む全員がエキストラ。誰も彼もが誰かの物語の主人公だが、今、この場で薮崎七海の構想する物語の中においては、彼女だけが主役だ。


 恵奈は微かに目を見張ったまま、葛藤を揺れる瞳で表した。それが演技だとすれば、彼女は今すぐにでも主演女優賞を受け取るべきだろう。




「私の向けるカメラに映っている間、周藤を世界で一番輝かせると約束する」




 揺れていた彼女の眼差しが、七海の瞳を中心に捉えて止まる。


 恵奈は強く悩むようにぎゅっと目を瞑り、微かに開いて溜息を吐く。その表情はやや物憂げに見えた。何に対して憂いを抱いているのかは分からなかったが、やがて彼女が浮かべた、どこか心臓を刺激するような、自分自身への呆れを含む微笑が全てを物語っていた。


「……世界一は無理でしょ。流石に」


 開幕の一声は、プロポーズの返事としては風情に欠くか。


「それくらいの意気込みでやるってことだよ。少なくとも、もう、あんなことは言わない」

「はいはい。それで、約束を破ったら?」


 七海は思わず口を噤み、恵奈の顔をマジマジと見詰める。約束を反故にした場合のことなど考えていなかった故の沈黙ではあるが、それ以上に、彼女の返答はつまるところ承諾を意味しているように感じられたのだ。七海は逡巡した後、先ずは返事をすることにした。


「二度とカメラが持てないように、腕を折っていい」


 監督は別にカメラを持たなくてもできるから――と、胸中で舌を出しながら己の二の腕を叩くと、恵奈は呆れを隠せない様子で首を左右に揺らす。情けないものからどうにか目を逸らしたいとばかりに両手で顔を覆って俯き、深く溜息を吐いた。


「はー………………馬鹿だ。馬鹿が居る」


 ――失礼な奴め。


「変な人に頼っちゃったんだなあ、私」

「失礼な奴だな」


 ついには口を出して文句を言うと、恵奈はクスクスと可笑しそうに笑う。


 それは冷笑の類ではなく、どこか温かみのあるものだった。


「でも……うん。そう思うと少し、あの言葉も気にならなくなってくるな」


 そう言って自分に呆れるような嘆息をこぼした後、恵奈は笑みを含んで七海を見る。


「腕は折らなくていいよ」


 だとすると、少々負い目が拭えない。そう言おうとした矢先の言葉だった。


「代わりに一発だけ。一発だけでいいから、ビンタしたい。今」


 つまるところ、その一発を受け止めればもう一度だけ機会を貰えるという訳だ。


 告げる恵奈の顔には微かな笑みと、それから、やり返してやりたいという強い意気込みが見られた。公衆の面前で、恐らく痛いだろうことも想定される。七海は歯の隙間から酸素を吸引し、覚悟を決めるように、鋭く息を吐き出して肺を空にした。


「ど、どんとこい。グーでもいいぞ」

「いや、普通にパーでいくけど」


 七海は気持ち程度に更に歩道の端へ寄り、恵奈もそれに合わせて立ち位置を調整する。


 やけに重い足取りで仁王立ちをし、抵抗をしないように手を後ろで組む。ゆっくりと、それから更に時間を掛けて心の準備をさせてくるとばかり思っていたのだが、恵奈はほぼ間髪を挟まずに「いくよ」と宣告をしたかと思うと、ステップを踏むように踏み込んできた。


 大きく振りかぶることも、全力で殴打することもない。


 ただ、少し力を入れた少女の平手打ちが、ペシャ、と七海の頬を弾いた。


 七海は大きく仰け反るも、通行人に迷惑にならないようにその場で踏み留まった。「……ってぇ」、と呻く。肉体的にはやや痛い程度だが、精神的にはだいぶ効いた。この一撃はつまるところ夏休み前の一言の報復であり、七海はこの痛みの向こう側に恵奈の心の傷を見た。


 脇を往来していく群衆が奇異の目でこちらを見る。


「これが、あの時の私の痛みってことで」


 恵奈は平手打ちの感触を気分が悪そうに確かめながら、そう言った。――気持ちがよく分かった。傷付けた方も傷付けられた方も、双方が不快だったことを共有し合ったのだ。


「今度裏切ったら、許さないから」


 そう言って、恵奈は目尻を指先で拭く。その一言で、蟠りが全て消えたことを察する。


「裏切らないよ。死ぬ気でお前を送り出す。だから絶対デビューして。在学中に」


 熱を帯びた頬を一撫でし、そう約束する。恵奈は確約できない話に頷くのを躊躇っている様子だが、先ほどの七海の言葉が既に妄言にも等しい約束だったことを思い出す。


 恵奈は「無茶言うなあ」と微笑を苦笑に変えた。


「それができないから君を頼ったのに。それとも、君が送り出してくれるの?」

「もちろん、死ぬ気でやるよ。それだけは意気込みとかの話じゃなくて――本当の話。もう後悔なんてさせないし、次に見る涙は嬉し泣きだよ」


 言うと、恵奈は先ほどの涙を見られたのだと気付き、恥ずかしそうに口を尖らせ顔を背けた。彼女は、七海が今まで思っていたよりも繊細で、感受性が豊かだった。七海は腰に手を置いて笑うと、叩かれてやや赤く熱を帯びた頬に笑みを浮かべる。


「そういうことで。改めて、よろしく」


 恵奈は差し出された手を丸い瞳で眺めた後、ふっと相好を崩す。


 養成所を出た時とは比較もできないほど柔らかい表情で、手を握り返した。


「こちらこそ。次は無いからね?」


 なんて冗談めかした言葉に、七海は「肝に銘じるよ」と殊勝に応じた。


 その後、七海は恵奈を家まで送り返すことにした。その日の帰り道は、背負っていた全ての荷が下りたような気がして、少し足取りが軽かった。


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