第12話
「うわ、全然焼けてない!」
夏休みを終えて初日、始業式と大掃除を終えてHRを始めようとする教室で、改めて七海を見た田中が大袈裟に声を上げた。ざわざわと、数名が七海を見始めて声を上げだす。
「おー、これ絶対家出てないじゃん」
「受験勉強? 真面目だなあ」
「引きこもりだ。引きこもり」
好き勝手に言い始めるクラスメイトをよそに、七海は席に座したまま、夏服の袖から出る自分の腕を眺める。確かに田中達の言う通り、腕に日焼けの跡はまるで無い。クラス内でも、比較的成績の優秀な者達は勉強していたのだろうことが分かるくらい焼けておらず。対して、運動部の面々や頻繁に外遊びをしていただろう面々は分かりやすく小麦色だった。
「性根が引きこもりでね」
と、苦笑をして、場を適当に流すことにした。面々が『そうだよなあ』と口々に言い始める中、田中の背中から斎藤がにゅっと顔を覗かせた。
最後の夏を終えた野球部のエースも、よく焼けている。
「カントク、なんか雰囲気変わったか?」
斎藤が意外なことを言うと、田中もそれに賛同した。
「それ、私も思った。表情が柔らかいよね」
言われた七海は、そんな分かりやすく変化しているだろうかと、スマートフォンの背面を鏡代わりに顔を見る。「そうかな?」と己の顔をペタペタ触るが変化は分からない。――すると、前の席の真白が半身だけ振り返り、「……いや、変わったよ。ほんとに」と、見透かしたように笑うから、少し居心地が悪かった。変えさせた張本人が白々しいことを言うものだ。
七海は奇異の目を疎ましく感じて、逃げるように教室を後にする。
HRまではまだ時間があった。それを確かめ、一階の自販機にでも向かおうかとそちらへ足を伸ばすと、階段を登る見知った女子生徒を見た。
遠藤だ。先ほど教室に居なかったかと思えば、どうやら教師に頼みごとでもされていたらしい。山ほどの夏休みの宿題を腕に抱えて、苦しそうな顔で階段を一段ずつ踏んでいた。
彼女を無視して階下に降り、自販機へ向かうか、彼女に手を貸すか。
一瞬だけ悩んだ七海は、溜息を吐いて頭を掻く。今までの七海であれば互いの距離感を考慮し、彼女の為にも手伝わない方を選んでいたのかもしれない。だが、確かに心境は変わったのだろう。七海は己を奇妙に思いながら、遠藤に歩み寄った。
「半分貸して」
言って、七海は有無を言わせず彼女の抱える宿題を八割ほど奪う。撮影機材を扱うことがあるせいか、筋力は同年代女子よりはあると自負している。
「あっ」と声を上げて奪われた宿題を見た遠藤は、それから驚きの眼差しを七海へとスライド。視線を交えると、夏休み前の軽い諍いをお互いが思い出して少々気まずい雰囲気が漂うも、遠藤はやや固い笑みを浮かべて挨拶をした。
「薮崎さん」
「ちゃんと話すのは久しぶりだね。手伝うよ、どこまで?」
「あ、えっと、数学準備室」
そうして訪れた四階の数学準備室には雑多に書類が積み重ねられていた。席に座って最低限の事務処理をする以外の役割を遂行できそうにない狭い部屋をどうにか往来し、宿題を運び終えた二人は、ようやく一息を吐く。
夏休み前、彼女に八つ当たりにも近い責め立て方をした七海には負い目がある。それに対する贖罪の意思もあったからこそ、恩着せがましくしないよう速やかに去ろうとする。
「あの、ありがとう。薮崎さん。凄く助かった」
遠藤はそんな七海にしっかりと礼を告げた。逃げの手を封じられ、七海は苦笑する。「いや、別に……たまたま通りかかっただけだよ」と、肩を竦めた。
それから、狭い部屋で何をすることもなく、ただ黙って視線を合わせた。気まずい時間が続く。夏休み前、謝罪を契機に少しずつ会話ができるように復縁しつつあったのだが、時間が空き、そしてお互いが意識をし始めるとぎこちない空気になってしまう。
「あ、えっと。そろそろHR始まると思うから、帰ろうか」
空気を読んだ遠藤が微かに硬い笑みでそう提案し、準備室の鍵を持って出ていこうとする。
だが、七海は頷こうとした首を寸前で止め、そのまま彼女の肩を掴んで止めた。
遠藤が驚きを隠さずに振り向いてこちらを窺い、「薮崎さん?」とやや不安そうに呟いた。
七海は髪をぐしゃぐしゃと掻いた後、悩み事を一度全て呑み込む。そして、自分の善悪の基準に従って、自分が真っ当だと思うことをすることにした。
「あのさ……改めて、この前はごめん。八つ当たりして」
唐突な謝罪を食らった遠藤は吃驚した様子で口を開けた。
数秒の沈黙が漂ったかと思うと、それから彼女は即座に我に返り、「あ、いや!」と訂正から入る。そして、慌てて手を胸元で振って首も横に振る。
「いや、それは――! あの、別に、薮崎さんが悪い訳じゃないと思うの。あれは、私が無神経だったよ。薮崎さんのことを何も考えないで、ただ自分の感情ばかり見てた」
普段の彼女を知っていると意外なほどの声量で饒舌に、少し必死に七海の謝罪を否定する遠藤。驚く七海の顔を見て自分の声の大きさに気付いた彼女は、微かに頬を染めて「あ」と口を押さえた後、「こほん」と咳払いをした後、固唾を飲んで仕切り直す。
「私こそ、ごめんなさい。薮崎さんに酷いことを言った」
そうだろうか。確かに、七海はあの時こそ感情的にもなったが、改めて考えると遠藤の主張は真っ当なように思える。――七海は、首を傾げながら彼女の言葉に耳を傾ける。
「周藤さんは凄い努力家で、そういう人が頑張っているのに、そうじゃない人が彼女の足を引っ張るのが、私はどうしても我慢できなかった。だから口を挟んだし、引き受けても適当に片付けるって姿勢だった七海さんにも、何か言わないと、って思った」
「それは、別に間違ってないだろ。遠藤は正しいよ」
「ううん。私は薮崎さんがお父さんの仕事の件で笑われてる時、貴女がそれを受け入れていると思い込んで、何も言わなかった。その時点で私から貴女に言えることは何も無かったはずなのに――あろうことか、貴女がどういう思いで周藤さんに協力しているかも考えず、口を挟んだ。だから、私こそ、ごめんなさい」
そう言って、遠藤は有無を言わさない様子で頭を下げた。
参った。と七海は髪を掻く。彼女に謝らせたかった訳ではないが、どうも折れてくれる気配はない。しかし、七海とて『それなら自分が正しかった』とは口が裂けても言えない。
「いや、だとしても、私が感情的に遠藤を詰めたのは度が過ぎていた。肩も掴んだ。こっちこそごめん。酷いことをしたし、怖い思いをさせてしまった」
「いやいや、私こそ……」
と、お互いが譲り合わなくなってしまいそうだったから、「だから」と七海は会話を遮る。
「――お互いが悪かったってことで、お互いに今後は気を付けてやっていきたい。それだと少し、私に都合が良すぎるかな?」
遠藤は面食らったように口を噤んだ。そして、考え込むように少しだけ瞳を泳がせた後、微かに相好を崩す。軽く首を横に振ると、噛み締めるように笑みを濃くした。
「ううん、そんなことない。そうしたい……そうしよう」
和解は成立したようだ。遠藤は少々硬いながらも確かに穏やかな笑みを浮かべ、七海は露骨に安堵の吐息を漏らした。すると、それを見た遠藤は嬉しそうにニコニコと笑う。
愚かな過去の己によって蓄積された負債が、少しずつ剥げ落ちていくのを感じた。
そうして二人は準備室を後にして、HRが始まる前に教室に戻ることにする。行きと違って手が空いた遠藤は、その小さな手に準備室の鍵を握っていた。七海はそっと手を伸ばすと、キーホルダーごと彼女の手から鍵を取る。
「あ」と再び声を上げる彼女の前でキーリングに指を通してクルリと回す。
「私が返しとくから、遠藤は先に戻ってなよ」
「そ、それは悪いよ。私が頼まれたものだし」
「ついでに職員室に用があってさ。それより――また重い荷物を任されたら、気兼ねなく私に言いなよ。手伝うから」
遠藤はクラスの中でも比較的善良な気質の女子生徒だ。それ故に、元々七海の中でも好感度の高い人物ではあったが、今回の一件で、彼女が七海のことも熟慮してくれていたと知った。
どうにか彼女に、その恩を返したいという気持ちがあったのだ。加えて言うと、背の順でほぼ最前列に居るような小柄な彼女が肉体労働をしている様は傍観できない。
遠藤は申し訳なく思い、慎ましく辞退をしようと口を割ったが――七海の顔をしばらく見ると、観念した様子で微かに唇を緩める。
「うん、分かった。その時はお願いするね」
そう言って階段を下りていくと、横に並んだ遠藤が七海の顔を覗き込んだ。
「薮崎さん。なんか、雰囲気変わったね」
七海はむっと押し黙って微妙な顔をした。
「……みんなそれ言うね。そんな分かりやすい?」
「分かりやすいよ。前まではこう――『切り捨て御免!』って感じだった」
「どういう感じだよ」
苦笑すると、遠藤はそれが不本意だったのか、「いや、なんかこう――」と、言葉とジェスチャーを尽くして説明してきた。七海はそれを聞き流す。
「まあ、ずっと意地張ってたんだよね。それが要らないって気付いたんだ」
そう言語化すると、確かに自分の纏う雰囲気が客観的には変わったのだろうことを実感する。表情と、それから言動。今までは他人が己の心に踏み入るのを強く拒んでいた自覚はあるが、今は、土足で踏み入られても絶えないような強い炎が内に宿っているから、受け入れる。
だからだろう。足取りが軽い気がした。それが少しだけ心地よくて微笑を浮かべていると、七海のその横顔を遠藤が不思議そうに眺める。数秒眺めると、遠藤の顔に微かな熱が宿り、段々と七海を見る目が熱っぽい眼差しへと変わっていく。固唾を飲む音が静かな踊り場に鳴る。
「あー、あの、薮崎さん」
遠藤は微かな勇気を捻出し、不安そうに胸元で手を合わせながら顔を見てくる。
「今日、この後って暇かな」
少しの緊張を孕んだ遠藤の問い。遊びの誘いだろうか?
遠藤とそういった話をしたことがなかった七海は、意外な質問に驚きつつも、しかし親交を深める良い機会だと考える。だが、「ひ――」と、暇である旨を伝えようとした矢先、予定を思い出した。頭を抱えるようにガシガシと髪を掻く。面目が無い。
「――まじゃないんだ。ごめん、やることがある」
遠藤は少し肩を落としつつ、詫びる七海に努めて明るい表情で手を振った。
「あ、ううん、全然大丈夫。大丈夫だけど……嫌な用事なの? なんか、陰鬱としてるね」
「ちょっとね。軽い喧嘩をした相手と話をしようかと」
お互いの脳内に一人の人物が思い浮かんだはずだ。遠藤は苦笑する。
「あー………………」
そして、薮崎七海の心の中を占めるものが、遠藤や田中達のような『仲の良いクラスメイト』ではない何かであるということに勘付くと、遠藤はひっそりと肩を落として諦観を含む笑みをこぼす。それを明るい笑みで覆い隠した遠藤は、七海の背中を両手で押して笑う。
「そっか。頑張ってね!」
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