第11話
夏休みが数日しかない会社員達の渦に飲み込まれる前に、二人は始発の電車で帰ることにした。睡眠時間は実に五時間。朝焼けに染まる空席だらけの電車で、二人の欠伸が重なった。
当該号車に乗客は他一名だけで、席も随分と離れている。気温、湿度共に心地よい朝の空気に身を委ねて居眠りしたくなるため、七海と真白は声を潜めて会話し、それを誤魔化した。
今度は、一席空けて隣同士だ。
「久しぶりに夜通しで遊んだ気がするよ」
真白が目頭を摘まんで顔を上げ、そう呟いた。
「普通に熟睡したけど、夜通しって言うの?」
「言わんのか?」
「……まあ、定義はどうでもいいや。楽しかったよ」
素直に言えば、真白も「私もだ」と笑った。こうして、幼馴染と何も考えずに馬鹿みたいな遊びをしていると、小学生時代を思い出すようだった。勝手に塞ぎ込んで、勝手に思い詰めていた自分が今更馬鹿らしくなって――朝焼けの偉大さに自分の矮小さを痛感する。
「朝日、綺麗だ」
呟くと、橙色を帯びた真白の目が七海を見た。
「急にどうした。脚本家に転向するのか?」
「ただの感想と対比だよ。昨日は夕日を見なかったんだ」
「家から出なけりゃそうなるだろうな」
「だから、連れ出してくれて感謝するよ。良いものを見た」
八月も半ばを迎えたとはいえ、早朝は半袖だと肌寒いような気がした。
だから、遠赤外線の温もりが肌に沁みた。きっと紫外線も入っているだろうが。
気付けば電車も地元まで戻っていた。この時間なら家族全員起きているだろうか。そんなことを考えていると、真白が欠伸混じりに「おあえ」と呟く。「日本語で」と依頼すると、真白は鼻を鳴らして笑った。
「お前、残りの夏休みどうすんの? 宿題はやったのか?」
「早めに片付けたよ。受験勉強もする気にならないし――どうしようか」
「暇なら付き合ってやろうか? 私も部活から解放されたんでな」
彼女からこうして積極的に誘ってくるのは珍しいが、存外、彼女も昨夜を楽しんでくれたのだろうか。七海は少し嬉しく思いつつ、自分の中にある楽しかったという感情も素直に認め、「いいね」と頬を歪めて笑う。
その時――高速で駆け抜けていく車窓の町並みに、誰かの影を見た。
少女だ。背格好は七海たちと同い年くらいに見える。ランニングウェアを着て、七海が綺麗だと語った朝日を遮るための帽子を被っている。
その横顔が、一瞬、周藤恵奈のものに見えた。
七海は目を見開いて腰を浮かし、窓に貼り付くようにして走っていた人物の顔を見ようとする。しかし、高速で駆け抜ける電車のせいで瞬く間に少女は死角に入り、既に影も形もない。「どうした?」と真白が寝ぼけ眼を向けてくるから、「いや……」と己の見間違いを疑う。
時刻は早朝の五時半。早起きなら起床してランニングしていてもおかしくない。
座席に座り直した七海は、次いでドア上の液晶パネルを見る。電車は今、ある駅の付近を通過したばかりだ。そして、その駅は先日、養成所から出てくる恵奈と遭遇した日に利用した場所。この辺りに住んでいるとするなら、見間違いではないかもしれない。
無論、見間違いの可能性だってある。だが、事実はどうでもよかった。
七海の手を借りた上でオーディションに落選したのだから、流石の周藤恵奈も挫折を味わったのではないかと、七海はそう思っていた。それがどうした、自分が憎いくらいに見惚れたあの女は、そんな弱い人物だったか。
賞賛に値する身体づくりも、演技に必要な体力づくりも彼女にとっては日常の延長線上だ。
周藤恵奈は折れない。一切懲りずに、四度目のオーディションに挑むことだろう。
それに気付かせる契機としては充分だから、事実は確かめなくていい。
七海は呆れを含んだ賞賛の笑みを浮かべると、真白に先ほどの話題を戻す。
「悪い、真白。さっきの話だけど――やっぱり、無しで頼む」
意外そうに目を丸くする真白を真っ直ぐと見詰め、芯を見せた。
「色々とやるべきことを思い出した。頑張るために準備をする」
真白の驚きの色が濃くなり、そこに少しの寂寥感と喜びを見せた。
「はいよ。期待して待ってるぜ」
帰宅から数時間後。七海が自室のソファに座っていると、部屋の扉がノックされる。
「はーい」
恐る恐る開いた扉から、再び綾香が顔を覗かせた。どこか不安そうな面持ちの彼女は、扉の隙間から部屋、そして七海の姿を見ると、意外そうに目を丸くする。
カーテンが大きく開けられた窓から明るい昼の日差しが差し込んでいる。ソファに座った七海の前では、大きなテレビが映画を映し出していたのだ。
映画は、一人の宇宙飛行士がブラックホールに飲み込まれ、その苦境を家族の絆――作品のテーマで乗り越える感動的なシーンである。物語の山場も山場だというのに、水を差された七海は気分を害すことなく映画を一時停止した。
「どうした?」
「あ、いや、調子は大丈夫かなって心配して来たんだけど……」
そこで一度言葉を区切った綾香は、七海の様子を確かめる。
「大丈夫そうで安心したよ」
「この通り。その節はどうも、心配を」
七海は肩を竦めて苦笑し、そんな姉のいつも通り――よりも少しだけ穏やかな雰囲気を感じさせる雰囲気に、綾香も嬉しそうに笑った。
それから綾香は、テレビに映されている映画に目を留める。
「懐かしいなあ。お姉ちゃん、昔よくこれ観てたよね」
「そうかな――そうだったかも」
頻繁に見ている自覚は無かった。最近になってまるで触らなくなったことは自分でもわかっていたが、妹に気取られるほど触れなくなっていたとは。七海は静止した画面の中で足掻く宇宙飛行士を一瞥して、微かに頬を綻ばせた。「どういう心境の変化?」と聞かれたから、「色々と」と呟いて返し、ソファから腰を浮かせる。
「観ていく?」
「いいの? ――じゃあお邪魔しようかな。あ、私はベッド使うからいいよ」
「はいはい」
言いながら七海は映画を冒頭まで巻き戻す。綾香はベッドに座ると、七海の枕をクッション代わりに抱いて転がる。
沈黙の中、音を立てながら制作会社のロゴが次々に表示されていく。七海はサイドテーブルに置いたコップでお茶を口に含むと、本編が開始するまでの時間を潰すことにする。つい先ほどに見た光景だが、名作とは何度観ても褪せないものである。
「綾香。一つ、相談したいことがあるんだけど。いいかな」
脈絡なく尋ねると、綾香は目をまん丸く見開いて絶句した。そうかと思うと、今度は姉に頼られたことを喜ぶ様に笑みを浮かべ、身を乗り出した。抱き締めた枕に皺が寄る。
「えっ? う、うん。いいよ! どうしたの?」
画面の中でロゴが切り替わる。七海はテレビを眺めたまま悩みを伝えた。
「陸上部をやっていて、走るのが嫌になったことってある?」
まるで想定していなかった質問に綾香は驚くが、すぐに我に返って頷いた。
「まあ、あるね。めちゃくちゃ嫌いになって、靴をゴミ箱に入れたよ」
「しばらく陸上から離れた?」
「離れたよ。スランプに近かったかな」
「でも、今は戻ってる訳だ」
「そうだね。全国大会目指してますー」
夢を豪語する彼女を微笑ましく一瞥した七海は、静かに目を瞑って尋ねた。
「……夢から離れ過ぎて、何をすればいいか分からなくなった時って、どうすればいい?」
セミの鳴き声はまだ途絶える気配もない。遠くに陽炎の浮かぶ盛夏の真昼。エアコンの稼働音に遠くを走る車の音が混じる中、綾香の丸い目が七海の横顔をまじまじと見詰める。そして、七海の顔に腐った様子が見られないのを確かめた綾香は、嬉しそうに「そうだなあ」と目を細めた。その瞳が、考えるように天井を見た。
「できることはあると思うんだ、何かしら」
「うん」
「先のこととか何も考えず、まずは死ぬ気でそれをやって、頭を空っぽにしたよ。そうしたら悩んでたことが全部ウソみたいに消えて――また、頑張れるようになった」
七海は噛み締めるように目を瞑って顔を上げると、その後、何度か頷いた。その言葉は驚くほどにすんなりと胸の奥に差し込まれた。
「頑張って」と続いた言葉に、七海は「ありがとう」と笑って返す。
映画が始まった。
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