第10話

 乗客は驚くほど少なく、一号車まるまる貸切状態だった。


 二人は向かい合う位置を取って座席に座る。どちらが相手を避けたともなく着席はほぼ同時で、エリアを広く使うのは球技の基本だということにしておいた。


 区間が短いせいか、あっという間に最初の停車駅を迎える。


 真白は「三回、表が出るまで乗り続けよう」とコイントスをする。三回の結果は表、表、裏。まさかの一駅で下車、なんて肩透かしにはならなかった。


「まあ、まだ最初だからな」

「単純計算、八分の一でしょ? これで終点まで降りれなかったらどうする」


 二人で電車内上部の路線図を見る。驚くべきことに県境を跨ぐらしい。


「そしたらこの外出を『旅行』と呼ぶだけだ」

「馬鹿げてる」

「それに付き合ってるお前もな」


 お互いにお互いを小馬鹿にし合いながら、走る電車に揺られる。


 冷房の効いた心地の良い車内。気心の知れた相手しか近くに居ないという状況もあって、七海は思わず微睡に身を委ねそうになる。真白がそれを見付けた。


「眠そうだな?」

「……少しね」

「眠れなかったのか」

「それも、少しだけだよ」


 痛いところを突かれたように、徐に目を開けた七海は足を組んで顔を背ける。


 七海は反対側に顔を背け、屈託のない笑みを浮かべる。


「罪悪感に苦しむくらいなら、もっと真剣に協力してやればよかっただろ」


 その話に行き着くのか。七海は顔だけ背けたまま、細めた瞳で横目に真白を見た。彼女も同様に視線だけで真白を見て、唇を曲げている。車窓を見ると、線路に沿うように敷かれた道路の街灯があっという間に駆け抜けていき、反面、遠くの明かりは緩やかに泳ぐ。


 線路の継ぎ目が子守唄を奏でていた。


「真剣だったよ。勝手なことを言わないでほしいな」

「そうか? まあ、お前はそのつもりだったかもしれないなあ」


 含むような言い回しに、七海は苛立ちを隠さず噛み付く。


「珍しく婉曲だね。ハッキリ言えば?」

「なら聞くが、なんで親父さんを頼らなかった?」


 致命傷だ。七海は真っ直ぐに口を引き結び、開いた眼差しで、嗤う真白を見た。


「ほら」


 図星だ、と言葉は出ずに口だけが続けた。七海は錆びた首を横に振る。


「その発想が無かっただけだよ」

「本当にそうなら謝ろう。でも、一度は浮かんだだろ?」


 イエスだ。肯定はしなくても、否定しないだけで彼女は察することだろう。


 七海は苦々しい顔で押し黙り、それを雄弁な肯定と解釈して真白は前屈みに七海を見る。


「ハッキリ言ってやるよ、お前の行動は矛盾してるんだ。真剣にやっている割には先達を頼らないし、口では適当だと言い張り続ける。そうかと思えば人の落選に落ち込み続ける」

「…………」


 違う。矛盾はしていない。七海は自己弁護をする。


「矛盾なんてしてないよ。私はあくまでも、夢ばかり見てる周藤に腹が立って……現実を突きつけてやるために、全力で取り組んで、その上で挫折させたかったんだ。周りに本気でやってないって主張したのも、努力や真剣を嘲笑する節のある集団心理の中で気楽に生きるため。分かるだろ? 夏休み前の会話を思いだせば、そういう立ち回りが必要だって」

「まあな」

「何も矛盾してない。私は、周藤の心を折りたかったんだ」


 何かおかしな部分はあるかと真白を見れば、彼女の顔には心底の呆れが顔に滲んでいた。真白ははっきりと失望の意を宿した溜息を吐いた後、憐れむような目で言った。


「だったら喜べよ」


 それはあまりにも意外な言葉で、一瞬、七海は意味が理解できずに聞き返す。


「――え?」


 矛盾に気付けない阿呆にも真白は見切りをつけず、懇切丁寧に説いた。




「望みは達成してんじゃねえか。落ちたんだろ、周藤は」




 まさにその通りだ。呆然とする七海の脳内で、小さく肯定の言葉が響いた。


 呆けた顔で数秒、真白の顔を見詰め続ける。だが、彼女は追い打ちをすることも思考を急かすこともせず、じっくりと、七海が己の矛盾に気付くのを静かに待ち続けた。七海は言い逃れもできないほど自分が滅茶苦茶だという自覚をして、組んでいた足を落とす。


 目を見開いたまま俯いて両膝に手を置き、数秒後、顔を両手で覆った。指の隙間から眺める電車の床が、カーブに差し掛かって揺れ、それはまるで七海の思考の歪みのようだった。「はは」と、言われた通りに喜ぼうと言葉を出して笑おうとしたが、口角は上がっても、頭の中は冷えたままだった。この時、薮崎七海は、薮崎七海を理解できなかった。


「七海」


 穏やかな口調で、真白が鋭く指摘した。


「――お前、嘘を吐き過ぎて、自分の本音が分からなくなってるだろ」


 ゆらり、と幽霊が浮かぶ如く顔を上げた七海は、剥いた目で真白を見た。何の冗談だと言おうと思ったが、乾いた口は言葉を発するのに必要な役割を果たそうとしない。掠れた呼吸が何度か喉を出入りして、固唾を飲む。嫌な汗が全身から出てきた。


「そんなこと」


 ない――と、二文字を付け加えるだけで虚勢を張ることができたのに、それすらできなかった。完全に無意識での出来事だった。


 これまで自分が並べてきた言葉は全部、嘘だったのだろうか。


 だとしたらいつから、どれだけの間、嘘を吐いてきたのだろうか。


 ぐらぐらと揺れる視界で靴の先を見詰めた。


 言葉が出なかった。自分の本音が分からず、何を言えばいいかも分からなくなった。


「……駅、三つ飛ばしちまったな。まあいいか」


 七海が沈黙するから、真白は独り言のように言ってコイントスを始めた。弾く音が三回。


 七海はそれを見ることもしない。彼女がどう嘘を吐こうとも、指摘する気にもならない。


「続行だ」


 裏が混じっていたらしい。「ああ」とくぐもった声で頷いた。


 今度は真白が足を組み、座席の背もたれに手を置く。


「なあ、七海」

「……何?」

「いい加減、中途半端なのはやめようぜ。見ていて不安になる」


 七海は己への失望や嫌悪感を隠さない顔を持ち上げ、疑問を返す。


「中途半端?」

「お前は小学生時代の夢を昔のものだと否定して、実際、忌避感のようなものも持っている。でも、その癖して周藤の頼みを引き受ける。どっちつかずの半端者だ」


 随分な言い草だが反論の余地はなく、七海は俯きがちに押し黙って、上目に真白を見る。


「捨てきれていないんだろ。映画監督の夢」


 ガタン、と継ぎ目を車輪が擦る音がした。窓の隙間から夜が香る。


 七海は何かを堪えるように顔を上げて、きゅっと目を瞑った。そして、明るい場所から逃げるように顔を俯かせて、目を片手で覆う。もう片手を脚の間に置いた。


 真白はそんな仕草を黙って見届け、静止を確認してから口を割った。


「分かるよ、中学の頃からだ。お前の親父さんの仕事を知った阿呆共が……親父さんと、それからお前の夢を、茶化し始めた。そういうのに特に関心がある年頃だ。格好の的だった。お前はあの頃から社交性があったから、『茶化し』が『苛め』にならないように、そして家族に心配をさせないように、自分の言動、一挙手一投足を嘘で隠し始めた」


 懐かしい話だ。そう、嘘を吐き始めたのは中学一年生の頃だったような気がする。


「職に貴賤は無い。私はお前の親父さんの仕事を尊敬してる。お前も、そうだろ?」

「……ああ」

「でも、大衆はそうじゃない。偏見はあるだろう。それだけじゃない、『斜に構えた人間』がカッコいいと思うような年頃でもある。本気で夢を追い駆けるのが馬鹿馬鹿しいって風潮もあった。スポーツに打ち込む汗はキラキラしてるけど、プロを目指してるなんて言えば現実を見ろ、って言葉が返ってくる。自分が……間違ってるんじゃないかと思うよな」


 真白にも思うところがあるのか、彼女は微かに寂しそうな笑みを浮かべた。


「部活でも似たような奴は居たよ。必死に練習して全国大会目指す奴を、影で笑う奴。本気を馬鹿にして、サボるのをかっこいいと勘違いしている奴が」


 そして、彼女は久しく見る切実な表情で七海の顔を真正面に見た。


「でも、お前がそうなってどうすんだよ、七海」


 その言葉は、十年近く一緒に過ごしてきて、初めて聞くほど強い感情が込められていた。本心から薮崎七海という人間を想い、失望し、期待し、大切にしている人間の、ぐちゃぐちゃに絡んだ糸のような感情が乗せられている。


 七海は強く歯を噛み、逃げるように一往復だけ首を振り、前屈みで両膝に両肘を突く。前髪を片手でぐしゃりと掴んで、返す言葉もなく唇を噛んだ。


「小学三年生の時。あの歳で夢を持って努力し始めたお前を、私は尊敬したんだ」

「……真白」


 長年一緒に居て、初めて、彼女がここまで思ったことを正直に話してくれている。


 恐らく七海も、彼女にこんな姿を見せるのは初めてだろう。昔は、七海が彼女を引っ張り、連れ回していた。映画館に行こうと言い出したのも七海からだ。中学校からは嘘を吐いて何ともない格好いい人間を装うようになって――だから、これが初めてだった。


「いつまで燻ってんだ。なあ」


 不安定に揺れる声色で問い詰める真白に、七海は返す言葉を持たない。


 嗚咽のような呼吸を繰り返した後、七海は苦痛の中に首を振って切に願った。


「少し……黙ってくれ。頼む」


 真白は必死の形相で物言いたげに口を開くが、七海の心中を慮り、閉ざした。


 抜き身の言葉の応酬は、少しばかり互いの心を疲弊させ過ぎた。


 それから三十分近く、何を話すこともせずに向かい合って座り続ける。途中、乗客が入ってきては出て行き、真白は、もはやコイントスをすることはなかった。


 気付けば、電車は終点に到達していた。




「結局、終点まで来たな」


 改札を抜けて駅の外に出ると、出発時には微かに残っていた空の橙色は消え失せており、見渡す限り真っ暗だった。星々が散りばめられており、それは眩しい文明の灯によって色褪せている。ぬるい夜風は冷房が効き過ぎていた電車内に比べると心地よさを覚えるほどであった。


 電車内では重苦しい沈黙が続いていたが、下車に際して重い空気は置いてきた。今は心こそ晴れないまでも、真っ当に言葉を交わす程度の気力は戻っている。七海は返事をした。


「途中、コイントスしてなかったからね」

「まあ、これも良い気分転換になるだろ。取り敢えず飯でも食うか。良い時間だ」

「流石にお腹が空いたよ」

「私もだ。要らんことを考え過ぎた」


 お互いに。そう言葉にはせずに言って、真白が辺りを見回す。


 そこは二人の地元と比べるまでもない都会だった。四車線道路を挟むように大型商業施設が乱立しており、行き交う人々も多い。だが、高い人口密度は主要な道路に限ったもので、少し路地を横に逸れるだけで、人の気配は驚くほどに減る。


 飲食店は有名チェーン店から個人経営まで多種多様で、決めるのにも一苦労しそうだった。七海と真白は顔を見合わせ、「どうする?」「安い方がいいだろ」と一言を言い合う。そうして、生産から仕入れまで全てを自社で管理することで大幅なコストカットに成功した有名ファミリーレストランへと向かうことが決まった。例によって、地図アプリを睨むのは真白だ。


 二人並んで、大通りから一本外側に外れた小道を歩く。歩道がガードレールで守られていない狭い道だ。並んで通るにも一苦労だが、他の歩行者も車も居ない。誰も止めず、通さない赤青黄の信号の群れが明滅して標識を浮き上がらせ、アスファルトに三色と弱い自然光が滲む。


 七海は、一本道の向こう側に幾つも並んでいる信号を眺めて呟く。


「考えたんだ。さっきの話」


 真白は地図アプリに向けていた目だけを七海へ逸らした。やや抽象的な切り出しも、二人の間では具体性を持つ。何を、とは聞かずに真白は言葉の続きを待った。


「真白の言う通りだよ。私はたぶん……諦めきれていないんだ。映画の夢を」


 憑き物が落ちたような、或いは核心が抜けたような虚脱感を帯びた笑みが浮かぶ。青白い街灯を浴びて不安定に歪む七海の横顔を、真白は口を挟まずに見つめ続けた。


「周藤の依頼を引き受けたのは、夢を追い駆け続ける彼女が妬ましくて、そこに劣等感があったから。だから、彼女に現実を突きつけてやろうとした――そこは、嘘じゃないんだと思う。でも、たぶん、それだけじゃなかったんだ」


 七海は手で口元を覆い、自嘲の笑みを浮かべた。


「彼女に会って、逃げ続けてきた夢に向き合わないといけないって焦燥感も生まれた」


 真白は手にしていたスマートフォンをポケットに戻し、前を向いて応じる。


「周藤は、凄い奴だよな。私が同じ立場でも、誰かを頼るって判断はできないだろう。我武者羅に目標を達成しようとするのは、一つの才能だ。私でも憧れるよ」

「私も……彼女みたいに夢と向き合いたかったんだろうね。だから、彼女への嫌がらせって言い訳で周藤の依頼を引き受けて、その割には本気で向き合って……彼女を合格させられれば、自分を認めてやることができるんじゃないかって、心のどこかでそう思ってた」


 七海の唇が三日月を描き、その双眸が手によって覆い隠される。


「でも、できなかった。私は耳を塞げないんだ。周囲の言葉が怖かった」


 七海の言葉が少しずつ熱を帯びていくから、真白は放熱を妨げないよう口を噤む。


「本気でやって……全力で夢を追い駆けて、何も成し遂げられなかったら。馬鹿にされたら。ほんの少しだけ残ってる映画が好きだって気持ちも、消えるような気がしたんだ。全部、嘘じゃなくて、本当に嫌いになるんじゃないかって」


 歩行者信号が赤く光った。指の隙間から赤を見た七海は、手を下ろし、やるせない笑みを浮かべて足を止め、心を止めたまま、昔を振り返る。


「映画が好きだったんだ。撮りたいと思った――嘘じゃない。嘘じゃないよ。でも、それを隠し始めてから、少しずつ、火が弱くなっていくのを感じていたんだ。それが消えると思ったら、誰かに相談するのも、表立って頑張るのも、できなくなってた」


 小学三年生の頃に灯して、以降、大事に庇っていた『好き』だという純然な感情が、歳を重ねて多くを知り、多くに触れることで摩耗していった。そうなった時、人は夢を手放すか、苦しみながら前に進むことになる。誰も彼もが周藤七海のように歩ける訳じゃない。


「嘘じゃないんだ。映画が……本当に、好きだったんだ」


 目の奥が熱くなるのを感じた七海は笑って隠そうとするが、目が濡れたから、無理だと諦めて牙を剥いて笑う。「ああ、くそ。そういうことか」――身体が脳や口よりも雄弁に答えを出してくれたから、七海は、それだけは信じることができた。




「私は、好きなものを否定されるのが怖かったんだ」




 片手で目を覆うと、指の隙間から熱いものが滴り落ちた。嗚咽を懸命に殺し、肩を震わせながら七海は笑う。情けない己を誰も褒めても貶してもくれないから、自分だけは嗤う。


「は…………は、は。ダセえな、私」


 自分が滑稽だという自覚すら持たずに、歪んだ価値観で真っ当だと思い込んでいる生き方を演じ続けてきたのだ。まるでピエロではないか。そう思う度に笑いが込み上げてくる。――それでいて、胸の中に宿していた炎が、くっきりと存在を浮き上がらせてきたことを知覚した。


 自分がどうしようもない人間だという自覚が必要だったのだと、ようやく理解した。


 真白はそんな七海を横目に見て、赤信号を見て、唇を曲げた。


「――知ってるよ、お前がダセえ奴だってことくらい」


 徐に顔を上げた七海は、微かな驚きを顔にする。『このタイミングでそういうことを言うか』という驚きは、瞬く間に『今だからそういうことを言ったのか』と気付きに変わる。真白は肩の荷が下りたように溜息を吐くと、腰に手を置いて空を仰ぐ。


「なんだよ、心配して損したぜ。よく自分のことが分かってんじゃねえか」


 七海は微かに顔を俯かせ、隠しながら目元を服の裾で拭う。夜風に腹が冷えそうだった。


「……今、分かったんだよ」

「そうか。だったらもう、歩けるな?」


 信号が青に変わった。車も誰も通らない場所を、真白は先に歩いていく。


 彼女は振り返らず、七海も待たず、ただ追い付いてくると信じて歩いている。七海はその背中が数メートルほど離れた後、静かに追った。追って、追い付いて、横に並ぶ。


「私が中学でバスケを始めた時、お前、驚いたよな」


 急な話題転換に、七海は驚きつつ頷く。


「……まあ、ね。真白がそういうタイプだとは思わなかったから」

「実際、真面目に運動部に入って汗を流すなんて性に合わないと思ってたさ。六年間ボールを追っかけて迎えた最後の夏に、夢半ばで引退した今でも、どうかしてたって思う」

「じゃあ、なんでやってたんだよ?」


 呆れて訊くと、真白も呆れたような笑みを浮かべた。


「お前が映画監督を目指すって言ったからだ」


 まん丸く開いた目で真白を見詰めるも、彼女は冗談などとは明かさない。本気だ。本当に、七海に影響されてバスケットボールを始めたらしい。しかし、どういう繋がりだろうか。


「同じ歩調で歩いていたダチが、急に走り出して知らない方向に行ったんだ。私も何かしなきゃいけないんだって思ったんだよ。夢を追うお前の姿に憧れたんだ」


 ――目を見開く。先ほど、電車で彼女が七海の夢に憧れたと言っていたのは、方便の類ではないかと疑ってすらいた。だが、本当に、己の生き方が誰かの人生に影響を与えていたのだ。


「お前の恐怖はたぶん、途方もない夢を掲げる人間が誰しも抱くものなんだろう。だからそれを払拭することは、私にはできない。でも、背中を押してやることはできる」


 言って、真白は勢いよく七海の背中に平手打ちをした。バチン、と鋭い音が夜に木霊して、七海は鋭い痛みに「ぐぇ!」と悲鳴を上げた。目尻に別の涙を浮かべてつんのめり、「……これは『押す』じゃなくて『叩く』だろ」と恨みがましい声を上げると、「ケツを蹴られるのとどっちが良かった?」と笑うから、傍若無人に何を言っても無駄だと溜息をこぼした。


 だが、火が点いたような気がした。七海は前髪を掴んで濡れた目を前に向ける。


 滲む信号と街灯。繁華街より暗い路地から見上げた星々は、やけに鮮明に見えた。


「……これが、お前の首を絞める言葉だと承知で言うよ」


 真白が立ち止まる。七海は一歩だけ前に進んで、半身を振り返って止まった。


「私は最後まで走った。お前だけ逃げんじゃねえよ」


 強烈な一言だった。脅迫と言ってもいい。だが、心の弱い部分を徹底的に踏みつぶすような容赦のない友人の存在が、今は有難い。七海は大きく息を吸って――苦笑を浮かべた。


「……真白は六年間だろ。私はもっと長いかもしれないんだ、簡単に言うなよ」

「かもしれないが、それは六年以上追いかけてから言えよ」


 やがて、進路の少し向こう側に大道路が見えてくる。曲がって少し進んだ先に目当てのファミリーレストランがあるはずだ。意識をすると、身体が空腹を訴え始める。


「七海。最後に一つ、いいか」


 空腹に負けて歩調を速めると、真白がやや後ろからそう切り出してきた。


「夢を手放すこと――映画を嫌いになる事の、何が怖いんだ?」


 哲学的な質問だ。一度言葉を呑んで真剣に考え、思うところを素直に語る。


「何となくだけど……見た夢を諦めるのは、自分が抱いた『好き』って感情を否定するのと同義な気がするんだ。誰からであっても、それが自分からでも、否定されるのが怖い」

「なら、今までのお前は、自分の感情を素直に肯定してやれていたか?」


 ほんの少しの気の緩みにナイフを突き立てるような、そんな鋭い一撃だった。


 鼻白んだ七海はしばらく言葉を呑んだが、やがて自暴自棄に髪を掻いて溜息を押し出す。


「……相変わらず手厳しいな」


 質問に対する返答ではないが、これ以上、真面目に受け答えするまでもないことをお互いが理解しているなら、そんなものは無くてもいいだろう。どうやら生きている内に、感性や感情に贅肉が付いていたらしい。彼女の鋭い言葉は脂を悉く削ぎ落し、彼女の焚き付けた炎が一切を燃焼させた。思考が段々とクリアになっていく。


 今までの自分がよく見えた気がした。これからの自分すら見えるようだった。


 何年ぶりか、『薮崎七海』を見付けることができた。


 歩いてきた足跡を眺めるように、半歩後ろの真白を一瞥する。


「真白」


 「ん?」と返事をする真白。七海は進むべき方角へ向き戻りながら謝辞を伝えた。


「ありがとう」


 しばらく彼女は無言だった。やがて、後方から吹き出すような小さな笑いが聞こえた。


 七海も、声には出さないが笑う。


「今日は馬鹿をやろう。朝まで付き合ってよ」

「最初からそのつもりだ。飯食って……その次はカラオケでも行くか」


 夜は長い。


 二人はそのまま、レストランで腹いっぱいの食事をした後、漫画喫茶やカラオケ店を遊び尽くした。オールナイトをするくらいの意気込みだったのだが、日付が変わる頃には双方ともに瞼が限界を迎え、漫画喫茶のカップル席で熟睡する羽目になった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る