第9話

 冷房が風を吐き出す音を耳にしながら、七海はベッドの上に仰向けになって天井を眺めていた。斜陽が橙色に染める天井が、時間の経過によって少しずつ紫になっていく様を追う。


 ――私のせいだろうか。


 二日前から何度目かも分からない自分への質問に、「違う」と答える。芸能オーディションとは就職活動のようなものだ。履歴書で落ちるから書き方を教えてくれと頼まれて、教えた人間が負う責任など、どこにもないだろう。それは、この件に関わった全員が理解をしている。


 加えて、口では何を言おうとも、七海は自分の能力の限界を駆使して彼女の自己PR動画をより良いものにしようと努力した。誰が何を思おうともその事実だけは変わらない。


 総合的に判断して、七海が感じるべき負い目は恵奈を傷つける言葉を吐いたその一点だけだ。それは理解しているはずなのに、落選の連絡が来て以降、七海はどうしても自己嫌悪の感情が拭えなかった。


 唐突に、ノックの音が静寂に満ちた部屋を切り裂く。


「お姉ちゃーん」


 妹の綾香の声だ。七海はベッドに倒れたまま「はい」と疲れた声を上げる。


 徐に開いた扉から綾香が顔を覗かせた。恐る恐る、という表現がぴったりな仕草で、戦々恐々とした表情をしている。ベッドに倒れている七海を見付けると、不安の色が覗いた。


「……生きてる?」

「生きてるよ」

「よかった。最近、お姉ちゃん、元気なさそうだから」


 どうやら心配してくれているらしい。そう気付いた七海は、いつまでも塞ぎ込んでいる訳にはいかないと己を叱咤し、緩慢に身体を起こして「心配かけてごめんよ」と詫びた。


 血流の関係で軽く放心状態になりながら、額に手を置き、肘と膝で杖を突く。


「頭痛いの?」

「少し」

「お薬持ってこようか?」

「いや、大丈夫だよ。考え事をしてただけだから。受験のノイローゼ」


 嘘を吐くと綾香は「あー」と納得したように手を打ち、しばらく黙って七海を見詰めた。やけに長く感じる沈黙の後、彼女は曇りない心配の眼差しを送ってくる。


「悩み事なら、相談に乗ろうか? 私でよければいつでも聞くよ」


 七海は顔を上げて綾香を見る。


「お母さんは『悩む時間も大事だから』って放っておく感じだけど、私もお父さんも心配してるんだよ。最近のお姉ちゃん、ずっと考え事をしているみたいだから」


 自分が家族に心配を掛けているということを自覚して、七海は我が身を省みる。


 答えが出るような悩みであるか否か以前に、そもそも、自分が何にどう苦悩しているかも分からない段階だ。何となく、という曖昧な言葉が最初に付くような自己嫌悪など解決できない。


 だが、それはいつまでも家族を不安にさせることの免罪符にはならないだろう。


 七海は顔を片手で覆った。それを綾香が優しく見守る。


「今じゃなくてもいいよ。でも、頼りたくなったらいつでも言ってね。それだけ」


 七海は小さく「……うん」と頷いて応じた。


 それから間もなく扉の閉まる音がして、綾香が部屋から消えた。


 顔を覆っていた手を外すと、暗かった部屋に、いつの間にか照明が点いている。入り口脇のリモコンで点けたのだろうが、気付かなかった。まるで手品師のようだ。


 だが、彼女の来訪で明かりが灯ったのは部屋だけではない。七海は少し肩の荷が下りたような気分で、肺の中の空気をめいっぱい吐き出す。


 すると、二酸化炭素に反応するように枕元のスマートフォンが震動した。メッセージアプリの通知、メールの受信、電話の着信。それぞれでバイブレーションのパターンは異なるが、これは電話だ。電話となると、如何に七海といえどもしっかり確認しなければならないという常識的な思考が作用する。


 画面を覗くと澄田真白と書かれていた。


 苦い顔をしてスマートフォンを戻し、着信が止まるのを待つ。


 五秒待った。そろそろ止まるだろうかと期待した。

 十秒待った。今回の電話はやけに長いなと辟易とする。

 三十秒待った。冗談じゃない! 正気かと眉根を寄せた。

 六十秒待って、遂に観念した七海は着信拒否のボタンをタップ。


 溜息を吐いて「なんなんだ」と小さく呟き、目を瞑った。


 間もなく二度目の着信が届き、七海はガシガシと髪を掻きながらうんざりした顔で画面を見た。やはり発信者は澄田真白だ。ここで、彼女は七海が着信に応じるまで掛け続けるつもりだと気付き、心の平穏を確保するためにも今回は素直に応じることにした。


「うるさいな、なんだよ!」

『随分な挨拶だな?』

「自分の胸に手を当てて聞いてみろ」

『心臓が動いてる』

「止まっていてくれ、私が安眠するまで」


 吐き捨てると、愉快そうに笑う真白の声が聞こえた。そして、その声に混じって自動車の走る音が聞こえて、七海は眉を上げた。


「なに、外に居るの?」


 彼女は質問に答えない。


『それより綾香から聞いたぞ、部屋に閉じこもってるらしいな。周藤が落選したか?』


 幼馴染である彼女は、家族ぐるみで薮崎家と関わりを持っている。特に綾香と真白は二人だけで外出することもあるくらいには仲睦まじいらしく、そこから情報を仕入れたのだろう。


 そして、七海の様子だけで周藤のオーディション結果まで察したようだ。


「……なんでもいいだろ、周藤のことは」

『ああ、そうだな。問題はお前だ、七海。出かけるぞ、出てこい』


 唐突な誘いだった。彼女は知る由も無いだろうが、この夏休み、誰からの誘いも聞き入れていない。どうにも外に遊びに行くという気分になれないのだ。


 驚きも数秒、七海は目を瞑って辟易を隠さない言葉で応じる。


「嫌だよ、お前だってバスケの練習が――」


 そこまで言った七海は、気付いて口を噤む。既に八月も半ばを迎えた。インターハイは七月の末に行われる。つまり、試合は全て片付いているのだ。


 そう気付くと同時、七海は幼馴染でありながらその近況も知らなかったことを理解する。


『インターハイは三位で終わったよ。我が校は念願の初優勝叶わず、私はもう引退だ』


 その話はそこで終わりだ。これ以上、話を展開させるような関係じゃない。


『七海。窓から顔を出してみろ』

「……何で?」

『いいから』


 有無を言わせない言葉に、「まさか」と七海はベッドに膝を突き、マンションの前を見る。


 そこにはスマートフォンを片耳に当てた真白が立っていた。カジュアルなシャツを一枚と足首まで隠れるズボン、ストリートファッションで、まるで近所を散歩でもするような様子だ。


 彼女はこちらを見て片頬を上げると、


『玄関で待つ。来い』


 と、半ば命令するように言い残して通話を切った。「……なんなんだよ、本当に」と泣き言を言いながら、七海は急いで服を着替え、最低限の身だしなみとして髪に櫛を通す。時間にして三分程度か。その辺を散歩するには充分だろうという程度の恰好でリビングへ飛んでいく。


 着くと、既に真白はリビングに上がっており、冷たい麦茶をご馳走されていた。


「あら、七海。真白ちゃんが来てるわよ」

「見れば分かるよ。見なくても分かる。電話してきたからね」


 額に手を当てる七海に、「あらそう」と妙子は嬉しそうな様子だった。下手をすると七海よりも薮崎家に信頼されている節のある真白は、麦茶を飲み干すと素早く腰を上げた。


「麦茶、ごちそうさまです」

「あら、そんなに急いで、もう行っちゃうの?」

「もっとゆっくりしていって構わないよ」

「そうだよ!」


 妙子と雄二、そして綾香から温かい言葉を受け取るも、真白は丁重に辞退した。


「いえ、また今度、機会を見てお邪魔になれたらと思います」


 そう言って、真白は七海の家族に向ける優等生然とした優しい顔とは百八十度方向性の違う猛々しい表情で、七海を見ながら顎を玄関にやる。代紋がチラついた。


「おい、行くぞ――すみません、七海(コイツ)借りていきますね。帰りは明日になるかも」

「嘘だろ。何されんの?」


 どこに行くかも聞かされずに日帰りできないことが確定し、七海は呆然と呟いた。


「全然大丈夫よ、気を付けてね」

「嘘だろ? お母さん?」


 母親も特に目的地などは聞かずに快諾するものだから、七海は再び、今度は唖然と呟いた。


 綾香や雄二も止めるような気配はなく、七海は渋々と真白に従って家を出るしかない。








 休日の夜、家から最寄りの駅に人は居ない。


 紫紺の空に輝く星々よりも、明滅するホームの蛍光灯の方が眩しかった。そんな実情には風情が無いようにも思われるが、遠くに聞こえるコオロギの鳴き声と生ぬるい風に乗ってくる夏の香りが、無為な夏休みを想起させ、軽いノスタルジーを感じさせる。


 七海は飾り気のないストリート系メンズズボンのポケットに手を突っ込み、コオロギの声に溜息でデュエットを試みた。そんな挑戦を真白の雑談が遮る。


「お前と出掛けるなんていつ以来だ?」

「……複数人でなら何回かはあるけど、二人きりは久しぶりじゃないかな」

「覚えてるのは中学三年の頃か? あの時は、柄にもなく卒業旅行なんてやったんだったな。どっちが言い出しっぺだ? お前だったような気もするが、まあ、楽しかったよ」


 二人でホームの外の景色を眺めながら、視線を合わせることなく会話する。


「今日はどうして急に?」

「言わなきゃ分からないか?」

「……分かるよ。でも、ただの場繋ぎの話題だ」

「そうしないと気まずい間柄でもないだろ、今更。お前のケツを叩きに来たんだよ」


 七海は口を噤み、電車の来訪を待つ。真白の向こう側にある電光掲示板に目を向けると、それと同時に真白が七海の顔を見た。そして吹き出すように笑う。


「おいおい、酷いツラしてんな」

「馬鹿にするために呼んだなら帰るけど」

「そう怒るなよ。寝不足か?」


 睡眠不足であることは否定しないが、言い訳にもしたくない。


 特に返事をせずに押し黙って顔を背けると、真白も前を向いた。


「まあいい。それで、お前はどこに行きたい?」


 耳を疑った。


「――は?」

「だから、どこに行きたいって聞いたんだよ。付き合うぜ」

「待て待て、場所も決めずに連れ出したのかよ」


 思わず噛み付く七海に、真白は「目的があってお前を連れ出したんじゃない。お前を連れ出すこと自体が目的だった」と悪びれることなく答えた。度し難い馬鹿も居たものだ。帰ってしまおうかと改札への階段を見るが、それを見た真白も止める様子はない。


「――最低でも外の空気くらいは吸わせる、ってつもりで引き摺り出したんだ。帰りたいなら止めねえよ、私もこのままその辺を散歩して帰る」

「なんだよ、それ」

「でも、残るなら相談相手くらいにはなってやる。私以外居ないんだろ。全部話せるの」


 お言葉に甘えて階段に向けようとしていた足が、その一言でピタリと止まる。


 図星であった。学校のことや家のこと、夢、腹の内、感情の全てを包み隠さずに話せるのは、小学生からずっとお互いに容赦なく言い合ってきた真白だけで、それはきっと家族でも替えられない。真白の横顔を見る七海に対して、真白はただ夜景を傍観するだけだった。


 沈黙を打ち破ったのはアナウンスだ。『電車が参ります』と告げる。


 七海は徐に足を彼女の隣に戻す。その時には既に自分の選択を後悔していたから、そんな自分を愚か者だと馬鹿にしながら空を仰いだ。


「行くったって、この時間に未成年歓迎の娯楽施設なんて無いだろ」

「その辺の飯屋にでもするか? まだ夕飯食ってないだろ」

「……まあ、どこでもいいよ。どこかに行こう。好きに決めてよ」


 電車が遠くから瞳を光らせてやってくる。少しずつ制動する車体は、やがて乗車口と寸分もズレない場所に停車した。ぷしゅ、と空気圧の音を立てて開く扉の中は眩しいくらいに光っているが、笑えるくらいに乗客は居なかった。


 真白は一足先に乗り込みつつ、財布から一枚の硬貨を取り出す。そして、指で弾いた。


「恣意的に決めても面白くない。三回連続で表が出た駅で降りよう」


 事故が起きるような気がして仕方がなかったが、それも悪くないと乗り込んだ。


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