第8話

 翌日の放課後。生徒達が散り散りに帰る中、田中は能天気な声で七海を呼ぼうとした。


「カン――」


 トク、とあだ名を最後まで呼ぶことができず、田中はその口を閉じた。


 声を掛けるのが躊躇われたのは、どんな無神経でも分かるほど、七海が張り詰めた表情をしていたからだ。或いは、追い詰められた顔とでも言おうか。明らかな寝不足の見える顔を思い詰めるように険しくさせており、とても馬鹿話をできるような雰囲気ではなかった。


 押し黙った田中の脇を、鞄を担いだ七海が無言で通り抜けて帰っていく。挨拶もない。


 一瞥すらくれなかった七海の背中を田中が戸惑いの眼差しで見送る。


「なんか今朝からピリピリしてるよな、カントク」


 背後から声を掛けてきたのは同じく野球部の斎藤だ。


 野球部マネージャーである田中とは、業務上よく会話をする。


「どうしたんだろ。やっぱ周藤さんのが上手くいってないのかな?」


 田中が腕を組んで半信半疑に首を捻る。斎藤は明確な否定を口にした。


「いやー、あのカントクだぜ? そんなタイプには見えないけどなあ」

「それはまあ……確かにね。本人もマジじゃないとは言ってたし」


 それじゃあなぜあんな顔をしているのか。二人は顔を見合わせるが答えなど分からず、へらっ、と笑って思考を放棄した。「まあ、そういう日もあるよね」と田中は理解を示すように頷き、斎藤はもはや何も考えずに「部活行こー」と教室を出ていった。田中も野球部マネージャーではあるが、サボりの常習犯だ。斎藤の背中を追うことはせずに帰路を辿った。




 七海が帰宅すると、珍しく早く、玄関に雄二の靴があった。


 リビングへの扉を開けると、雄二がソファで珈琲を片手にテレビを眺めている。食卓では綾香が宿題を広げて陰鬱とした顔で片付けており、母の妙子は夕食の支度をしていた。面々が口々に「おかえり」と言ってくるから、七海は「ただいま」と疲れた体に鞭を売って返す。


 雄二の顔に心配の色が宿った。


「ず、随分と疲れてるな。大丈夫か?」


 父親としての心配を向けてくる彼に、七海は小さく手を振り返した。


「ちょっと寝不足なだけ。寝てたら先に夕飯食べちゃって」


 そう言い残して自室に着いた七海は、鞄からノートパソコンを抜いてテーブルに置く。そして、残った全てを投げ捨てるように床へ落とす。


 夏の十七時はまだ明るいが、昼間のそれに比べるとやはり薄暗い。朱色を帯びた紫の明かりが部屋に差し込み、照明も付けていない部屋に弱いコントラストを生む。七海はカーテンを閉めるのも億劫に、そのままテーブルの上のノートパソコンを開いた。


 昼間仕様の明るさが、薄暗い部屋に慣れた目を刺激する。目を細めて、光に順応した。


 動画ファイルを開き、再生。画面の中で恵奈が無音の自己PRを始める。


 軽い。そう評した田中の言葉が七海の脳を延々と蠢いていた。


 田中の価値観に詳しい訳でも、彼女の言語化の力を信用している訳でもない。だが、『これで問題ないだろう』と妥協しようとしていた中での一言の否定は、清水における泥のようなもので。たった一滴、だが、その一滴が落ちた瞬間に、判断は澄明なものではなくなる。


 今度は真白の言葉が頭に浮かんだ。


 ――世に出る映像作品が大コケした時ってよ、監督が批判されるんだ。


 映画監督には映画の品質を担保する責任がある。つまり、それが出来損ないであった場合の責任は監督が負うべきなのだ。だが、薮崎七海は映画監督ではなく、また、責任を負うと約束して恵奈の依頼を引き受けた訳ではない。また、芸能オーディションの自己PR動画において落選の責任は必ずしも監督に付き纏うものではなく、七海が負うべき責任など存在しない。


 それは、七海も真白も理解している。


 それでも、その言葉が持つ意味と力を、二人だけが理解し合っていた。未練がましく夢を捨てきれていない七海にその言葉は突き刺さると、幼いころから夢を聞き続けてきた真白だけが知っているのだ。


 最初は彼女に現実を教えるという目的のため、夢の後押しという手段を選んだはずだった。


 今はどこか、自分の行動に仄暗い動機を取り繕っているような、そんな気配すらした。


 どうにか、田中の抱いた印象の答えを見つけ出し、動画を撮り直そう。


 そう考えて編集済みの動画を再生した。一分をかけて一周して、何も分からないからもう一度。段々と日が暮れて暗くなる部屋で、七海は無言で動画を眺め続けた。二十回を超えた辺りから、軽い頭痛が走り始める。眼球が疲労を訴え、瞼が落ちかけた。


 ――何を本気になっているのだろうか。ふと、そんな自問自答をした。


 そして、中学に上がった頃から増え始めた軽口の数々を思い出す。


 小学校時代に夢として語った映画監督に、父親の仕事を引き合いとして出して笑う者達や、年相応に興味を抱いた者達のおふざけ。本人達に嫌がらせやいじめの自覚は無かっただろう。そうならないように七海は迎合し、それでいて度が過ぎる言葉にはある程度の報復を行って、そうして集団の輪の中に溶け込む頃には、迎合は協調に変わっていた。


 その頃、薮崎七海の芯が捻じ曲がったのだ。


 恐らく大半が七海に吐いた言葉を覚えていないだろう。だが、七海は思いだす。


 ホワイトノイズのように頭の中で言葉が流れ、眩暈がする。耳鳴りがした。「うるせえ」と七海は目を覆って顔を俯かせ、震える声を絞り出す。言葉は消えない。


 リビングの方から家族三人の笑い声が聞こえた。楽しそうだった。七海は目を覆っていた手の指を立てて、そのまま前髪をぐしゃりと噛む。手が震えていた。


 窓の外を煩い車が行き交う。カラスの鳴き声が聞こえた。小学生たちの騒ぎ声がする。


 雑音に、七海の呼吸が少しずつ乱れていく。


 真っ暗な部屋でノートパソコンだけが光っている。


 動画を何周も繰り返して観たせいか、頭の中に嫌いな女の言葉が延々と巡る。


 ――そもそも君と私は物事の価値基準がまるで違うんだと思う。


 ――私の幸福は私の夢を成就すること。そのために毒を飲む必要があるなら、飲むよ。


 ――夢を諦めきれないから、頑張るしかないんだ。


 ――君のことを知りたいと思ったの。助けてくれた友達だから。


 「うるせえ」と二度目の言葉が口を衝いて出た時、ポケットの中のスマートフォンが震動する。一瞬、我に返ったように目を見開いた七海は、徐にそれを確かめた。


 恵奈からのメッセージだった。『最近あんまり話してないけど、調子はどう? 撮り直しが必要だったらお構いなく言ってね!』の文字と、可愛らしいスタンプメッセージ。七海は緩慢に返信をしようとして、指を止め、アプリを閉じ、スマートフォンを伏せて卓に戻す。


 そして、ノートパソコンの上端を手繰り寄せるように下ろして閉じる。


 崩れ落ちるようにベッドに倒れ込んだ。ドサ、と音がして身体が沈む。目を瞑ると眠りに落ちてしまいそうだが、酷い頭痛が快眠など許してはくれなかった。


 気絶と言う方が近いのだろうか。意識と心が沈んでいく。


 映画館に行きたかった。無邪気に映画を楽しんでいた頃に戻りたい。静かで、その場に居る誰もが同じ映像に心を奪われる至極の時間に逃げ出してしまいたかった。


 枕を手繰り寄せて己の頭の下に詰め込み、七海は意識を手放すように眠った。








 寝不足は翌日まで尾を引いた。帰りのHRを終えた後、七海は目を覆って顎を上げた。


 軽い頭痛と倦怠感による肉体的な不調と、ストレスによる陰鬱とした気分が負の相乗効果を生み出している。帰宅部が速やかに返っていく様を見て、七海も腰を浮かそうとした。


 その時だった。教室の中央で騒いでいたカースト上位の面々がこちらを見る。


「あ、カントク! ちょい来て!」


 声を上げたのは田中だ。自分の机に座ってパタパタと足を動かしている。明確に校則違反な詰め方をしているスカートから中が見えてしまいそうだったが、気にしない様子だった。


 どうせ遊びの誘いか何かだろう。七海は面倒に思いつつも、人として保有するべき最低限の社交性を総動員させて重い腰を上げた。


「昨日よりは元気そうだね」


 どうやら昨日からの不調は見られていたらしい。七海は眉を顰めて目を逸らす。


「……何?」

「遊ぼうぜ!」


 田中が両手でサムズアップをする。そうだろうと思った、と言葉を呑んで、目をその場に居合わせた面々に向ける。田中を含めて女子三人、男子二人。楽しくやっているのだろう。


「受験勉強は?」


 二名に突き刺さり、二名が言葉を詰まらせ、田中だけがヘラヘラと笑った。


「なんとかなるでしょ!」


 平岩は自分よりも彼女達の方を進路指導するべきではないか。そんなことを思った。


 大方、遊びの内容はカラオケかダーツなどの小洒落た遊戯だろう。今の七海にはそんなことをできるような体力は残っておらず、没頭できるような精神状態でもない。ある程度の自己分析はできているつもりだ。しっかりと断って適当に家に帰るつもりだった。


 そこに、集まった男子の一人が口を挟む。


「つか、薮崎って周藤さんとなんかやってるんじゃなかったっけ? そっちは?」


 全員の視線が一斉に七海に集まり、七海は顔を歪めた。


 反射的に否定を口にしようとした。アレはもう片付いたもので、今日の晩にでも恵奈に送るのだと。だが、この誘いを断るための言い訳として、まだ片付いていないと伝える方が賢いか――なんてことを考え始めた途端、ノイズが渋滞して口が詰まった。それが良くなかった。


「いや、そんなマジでやってる訳じゃないんだから、一日くらい別に大丈夫でしょ。薮崎が一日遊んだだけで落ちるなら、最初から才能が無いんだって」


 一瞬の隙間を縫うように、女子の一人が軽薄に笑ってそんなことを言った。


 あまりにも無遠慮な物言いが聞こえて眉を顰めるクラスメイトも数名。比較的温厚な気質の田中も「やー、それはどうなんだ?」と苦笑して苦言を呈するが、水が水を引く。


「でも、もう二回も落ちてるんだろ? 頑張ったところで今更だよな」

「まあでも、目指してますーって公言しちゃったから引っ込みがつかないんでしょ、周藤さんも。気が済むまでやればいいと思うけど、付き合わされてるのは災難よね」

「つーか、カントクが頑張る義理は無いんじゃないか?」


 自分の物差しで他者を測り、思うままに言葉を口にする。


 かつてはそれらが嫌いで、七海は今の場所まで逃げてきた。


 言いたい放題だと冷めた目で見るが、自分もそう見られる側の人間だということをこの期に及んで思い出す。真っ当な人間なら彼らの言葉を止めるべきなのだ。だが、七海は口を噤む。


 ああ、やばい。七海は冷静に胸中で呟きながら顔を俯かせる。頭や心に言い得ぬ黒い感情が滲み始めていた。踏み抜いた時に水の音がするくらい、濃い感情が湧いている。


「実際さ、どうなの? 周藤さんの手伝い、大変?」


 ここで判断を委ねてくるか。七海は顔の裏側で渋面を作った。


 この際、正直なところを明かす意味はない。大事なのは真偽ではなく、どう答えればこの場が波風立たずに収まるか。つまるところ迎合――もとい、お得意の協調である。自分の考えを曲げて周囲に合わせるのではなく、曲がった考えで周囲と同調するのだ。


「……そうでもないよ。適当に片付けられるような内容だから」


 吐いた。嘘を。「ほらあ」と、言い出した女子が田中を見た。


 田中は何とも言い難い表情で頭を掻いて、話をどう修正しようかと考える。


 その時、教室窓際の後方から、「あ、あの!」と控えめな声が上がった。


 面々の視線が一斉にそちらへ突き刺さる。声を上げたのは遠藤だった。七海の後ろの席に座る園芸部の小柄な女子生徒で、七海から見て、クラスの良心とも言うべき女子だ。


「……遠藤?」


 七海が思わず呆けた声を上げる。彼女は普段、こちら側の人間に積極的に話しかけるような人物ではない。七海個人には、席が近いという理由で声を掛けることはあるが。


 彼女は精一杯の勇気を顔に浮かべて椅子から立ち上がった。


「そ、そういうこと言うの、良くないと思う」


 まるで小学生のような言い回しだ。


 遠巻きに眺めていた何名かが『やめておけ』と言うように焦った顔を見せる。


 だが、田中達カースト上位の生徒は声と態度こそ大きいが、悪意で他者と接する性格ではない。つまり、真っ当な意見には真っ当に向かい合う。言われた数名は驚いたような、困ったような顔で遠藤を見詰めて「良くないって、何が?」と至極当然の疑問を返す。


 遠藤はやや怯えた様子ながら、自らの考えを素直に言葉にする。


「周藤さんは、本気で夢を追い駆けてるよ」


 真正面から真っ当な言葉を食らった数名が鼻白んだ。七海は冷めた顔で両陣営を見る。


「私、この前、夜遅くに出歩くことがあったの。その時、夜間の養成所から出てくる周藤さんを見た。夜の十時、私が普段、そろそろ寝ようかなってしてる時間に」


 どうやら遠藤も七海たちと同じ姿を目撃したらしい。


 聞いていた面々に驚きと罪悪感が芽生える様が、その表情から分かった。


「たぶん、ずっと。ずっと前から、そうやって頑張ってるんだと思う」


 元々、他者を貶して笑う権利は誰にもないという前提の上で、それでも嘲笑の根底には『どうせ本気じゃない』という決めつけがあったのだろう。だが、それを面と向かって否定されたら動機を失う。何よりも遠藤が苦言を呈してきた以上、彼らにできることは『遠藤を否定して対立する』か『遠藤の意見と自らの非を認める』のどちらかだけだ。


「だから、周藤さんの努力を私達が笑うべきじゃないと思う」


 そして、彼らは遠くの親しくない誰かを一方的に嘲笑う快感のためだけに、身近な善人を感情的に貶せるほど悪党に成り下がることもできない。だから、折れるしかない。


 何名かはバツが悪そうに「ごめん」と非を認め、何名かは押し黙ってこれ以上の非礼を慎んだ。田中は安堵したような顔を見せた後、「はーい」と我が事のように納得するポーズを見せた。遠藤も想いが伝わったことを喜ぶ様に微笑んで頷き返す。


 そして、遠藤の視線が唐突にこちらに向けられた。




「だから、薮崎さんも……ちゃんと周藤さんの気持ちに応えてあげてほしいの」




 ストン、と。持っていた物が落ちるような勢いで、七海の表情が消え失せた。


「遠藤。それは――」


 話を静聴していた真白が割り込み、血相を変えて遠藤の言葉を撤回させようとする。「え?」と、遠藤は二名の突拍子もない反応に動揺を見せた。


 周囲も、驚きの眼差しを七海と真白に向ける。


 この中でただ一人、幼馴染の澄田真白だけが、七海の心を理解していた。


「……は? なんだよ、それ」


 七海は思わず笑ってしまっていた。笑えていると、本人は思っていた。


 その顔に浮かんでいたのは、苦悩。それと、一滴の絶望。


 普段は適当を自称して飄々と物事を受け流す七海の口から出た、余裕のない張り詰めた言葉に、遠藤は怯えたように顔を歪める。だが、七海の表情が、怒りの宿る声とは裏腹に悲痛に歪んでいたから、遠藤は畏怖に勝る困惑の表情を見せた。


「なに? 遠藤は私が『ちゃんとしてない』って言いたいんだ?」


 七海は笑みだと思い込んでいる顔を遠藤に向けて、静かにそちらに詰め寄る。


 一歩ずつ近づくにつれ、遠藤の小柄な身体が委縮していく。


 そして、自らの潔癖な言葉が七海の致命的な部分に突き刺さったらしいことを理解し、遠藤は顔を歪めて弁明を始めようとした。


「あの、私、そんなつもりじゃ……」

「はは、そうだよね。そうだよ、だって私、適当にやってるって言ったから。お前が正しいよ、アイツの頼みを引き受けたのに真面目にやらない私が悪いんだよ、なあ?」


 自嘲し、ポンポンと遠藤の肩を叩く七海を、遠藤はどう慰めるべきか分からなかった。


「陰口を叩く連中に注意して、お前は真っ当だし偉いと思うよ。遠藤」


 違う。そう言われたかった訳ではない。ただそれだけの言葉を、遠藤は出せなかった。


 そんな遠藤を真っ直ぐに見詰める七海の顔が、酷い空虚を孕んだ。片手が肩を掴む。


「――じゃあ何で、私のことは庇ってくれなかったんだよ。可哀想じゃないから?」


 遠藤は目を見開いて口を噤み、その言葉が示す過去の己の行いの数々を想起する。


 そして、七海が言わんとする言葉の意味を理解した。


 父親の仕事のことで冗談を言われ続けようとも、七海はそれらを上手に捌いているように見えた。だが、点滴穿石か。少しずつ、痛みと傷が蓄積し広がっていた。積もりに積もった苦悩が、善人であろうとする遠藤の安易な一言で崩壊したのだ。それを理解し、罪悪感が顔を覆う。


「それは、その」


 遠藤は返す言葉を持たない。傍観していた大半は、急な七海の言葉を理解できない様子で、迂闊な口も挟めずに沈黙している。しかし、真白だけは痛ましそうに七海を見ていた。田中も理解できたらしく、「カ――」と名前を呼ぼうとして、「……七海」とそれを訂正した。


「いいよな、遠藤は正論を言えて。羨ましいよ。気持ちいいだろ?」


 ああ、まずい。七海は血が上った頭で、それでもどこか冷静に自分を俯瞰していた。


 明らかに八つ当たりだ。感情のやり場が無いから、彼女のたった一つの言葉を言い訳にして、分かりやすい標的に目の前の遠藤を狙っているだけだ。


「自分は何もせずに言うだけだ。周藤の為に手を動かす必要なんてない、少し口を動かしただけで善人面ができる。賢い生き方だよ、本当に」


 遠藤の目が微かに濡れたような気がした。


 誰か止めてくれ。そう思ったのとほぼ同時に、七海の肩を誰かが掴んだ。


「その辺にしとけ、七海。言い過ぎだ」


 案の定、それは真白だった。彼女は双方への同情を含んだ目で七海を睨んでいる。


 普段は憎まれ口を叩き合う仲だが、こういう時は頼もしい。視線が交錯している間、段々と頭に上った血が沈んでいくのを知覚する。心臓が音を鳴らす度に、血が適切な位置へと戻る。


 夏場だというのに、少しずつ指先が冷えていく。冷えた手を温かい遠藤の肩から離す。


 凍てついた心が身体まで凍らせるようだった。


 ふと、罪悪感に顔を俯かせた遠藤が、震える声で弁明の言葉を紡いだ。


「……私はただ、周藤さんの夢を、否定しないでほしくて」


 途端、冷え始めていた身体に熱が戻る。七海は、真白の手を振り払って声を荒らげた。


「たかが、オーディションだ。落ちたって死ぬわけじゃない……! なにも、本気でやるようなことじゃないだろ!」




 ――その時。ドサ、と。何が落ちる音がした。




 俯く遠藤から視線を切って、七海は素早く音がした方を向いた。


 音の発生源は教室の出入口だった。


「……周藤」


 そこには周藤恵奈が立っていた。彼女は教科書の類が入っているだろう鞄を落とし、呆然とした様子で丸い目を七海へと向けている。


 七海は数秒、彼女がどうしてここに居るのか、なぜ鞄を落としたのかを理解ができなかった。だが、頭に上った血が降りていくにつれて、少しずつ状況を理解し始める。或いは、逆か。状況を理解したから血の気が引いているのかもしれない。


 どちらにしても、最悪の状況を理解して、途端に冷静になった。


 今の話を聞かれたのだ。『本気で取り組むような夢ではない』と吐き捨てた現場を見られた。


 だが、苛立ちの余韻か、七海は罪悪感を抱けぬまま彼女と向き合い続ける。


 恵奈は愛想のいい笑みを浮かべようとして、それができず、針金を曲げるようにぎこちなく笑う。歪んだ笑みには深い寂寥感が宿っており、それは少しずつ悲壮に侵食されていく。


「あの、えっと、動画……どうなったかなって、聞きたくて」


 昨晩、返信をしなかったからだと気付いた七海は、どこか冷静なまま答える。


「今日、帰ったら送るよ。もう完成してる」


 そう聞いた恵奈の表情に安堵や感謝はなかった。彼女の表情に浮かんでいるのは、途方もなく悲痛な感情だけ。何かを期待した己を嗤うような、どこか内罰的な印象を受ける顔だ。


「そっか、ごめん。ありがとう」


 それだけ言い残すと、恵奈は落とした鞄を震える手で拾って担ぎ直し、速やかに七海の前から姿を消した。去り際の双眸に微かな水気を感じた気がしたが、真偽を確かめる気にもなれない。その背が見えなくなってからも数秒、扉の方を眺め続けた七海は、やがて虚脱に満ちた顔を俯かせながらぼんやりと物思いに耽る。


 何をしているんだろうか、自分は。そんなことを考えてしまう。


「……ごめん、遠藤。八つ当たりだ。どうかしてた」


 感情任せに誰かに八つ当たりするなど、初めての経験だった。小学五年生、つまり十歳からの七年弱、蓄積され続けてきた負の感情を制御できなかった。遠藤が悪いのではなく、そうなるまでに至った諸々と、愚かな自分が原因だ。彼女を責めるべきではなかった。


 深く頭を下げた七海に、遠藤は濡れた目を上げて首を横に振る。


「ううん、違うの……ごめんなさい、私、知らなくて」


 何を、とは聞かない。彼女も言わなかった。だが、通じ合っているのは分かる。


 それから、呆れ顔の真白に帰宅を促され、七海は速やかに教室から逃げ出した。








 その日の夜、七海は真っ暗な自室でノートパソコンと向き合っていた。ファイル共有サイトにパスワード付きで圧縮した動画をアップロードし、そのリンクを恵奈宛のメールに貼り付ける。そして、遅くなった旨と昼間の件での謝罪を一筆打ち込む。


 送信の直前、ふと思い直して交換した連絡先から電話を掛けてみた。


 応答はなく、四コール目に発信が打ち切られ、無機質なアナウンスの声が聞こえる。『ただいま、電話に出ることができません――』そして、『お名前と、ご用件をお話しください』という留守番サービスまで無気力に聞き流してしまった。電子音が鳴って留守番電話の受付が始まるが、七海は彼女にどう弁明すればいいか言葉も浮かんでこず、沈黙したまま十秒が経過した。


 徐に通話を切ると、溜息と共に頭を掻く。


 最悪の気分だった。自己の範疇で収めていれば、厭世も怠惰も自己責任かつ自業自得として片付けることができる。だが、自分で選んだ道を歩いた末に不満を溜め込んで、その八つ当たりで二人の人間を傷つけた以上、自らが悪党だということを自覚しなければならない。


 こんなことになるならば、恵奈の依頼を引き受けるべきではなかった。


 力の抜けた手でエンターキーを押そうとして、止まる。不意に脳裏を過ったのは、酷く傷付いたような恵奈の顔。初めて父親の仕事でクラスメイトに馬鹿にされた時の自分も、きっとあんな顔をしていたのだろう。そう考え始めると、軽い吐き気を催し始める。


 七海は煩わしい一切から逃げるべく恵奈へメールを送り付けると、その旨をメッセージアプリにて『動画はメールで送っておいた。確認して』と伝えた。それから数秒の後、七海がアプリを閉じるよりも早く既読のチェックマークが付く。


 眺めていること数十秒、恵奈からの返信が来た。


『ありがとう! これでオーディションに挑んできます!』


 まるで昼間の出来事など無かったかのような元気な文面だが、しかし、それで七海が安心することなどない。明確な空元気だということは分かっている。それでも彼女にかける慰めの言葉を持たないから、七海は返信をすることもせずにスマートフォンをベッドに放り投げる。


 椅子の背もたれに大きく寄りかかって天井を見上げると、溜息が果てしなく出てきた。




 教室で起きた騒動は、その後、真白が上手く処理してくれたらしい。翌日に登校した際には恵奈や遠藤に関わる軽い噂話こそあったものの、午後にはまるで聞かなくなり、表面上はいつも通りに過ごすことができた。遠藤との会話には少々ぎこちないところは残っているが、お互いに関係を修復しようという意思もあってか、帰り際の挨拶は交わせる程度にはなった。


 そうして二週間ほどが経過して、夏休みが訪れた。


 早々に宿題を片付けた七海は、それ以降、何をすることもなく家で映画を眺め続けていた。何回かは田中達カースト上位の面々から誘いのメッセージが飛んできたが、億劫に思って断っている内に頻度は減っていき、夏休みが半ばを迎える頃にはめっきりと来なくなった。断る強い理由は無かったが、あの一件以来、どうにも他人との交流に腰が上がらない。


 誰からも連絡が来なくなって、一人の夏休みを過ごすこと一週間。


 久しぶりの連絡は、意外にも周藤恵奈から届いた。


『お久しぶりです! オーディションは動画選考で落選していました。私の実力不足で、せっかく協力してもらったのにごめんなさい』


 メッセージアプリでの簡単な文章。七海に然程の驚きはなかった。


 考えてみれば道理ではあるのだが、自己PR動画とは撮影の技術を問うものではなく、志願者の、文章では分からない部分を見るためのもの。映し方を変えて通過するなどと、本気で思ってはいない。――それでも心のどこかで、彼女が選考を通過していれば、揉め事など無かったことに出来るのではないかという淡い期待があったから、失望の気持ちもあった。


 労いの言葉を掛けようかと文字を少し打ち込んで、止めて、目を瞑る。真白の言葉が頭を過る。『世に出る映像作品が大コケした時ってよ、監督が批判されるんだ』。そんな言葉を思い出すと吐き気がして、七海は口を押さえながらスマートフォンを伏せて置く。「げほっ」と咳き込み、胃酸が上がってくる感覚を喉元で懸命に押さえ込み、胃痛と頭痛に蹲る。


 絨毯に爪を立てた。冷房が冷や汗を浮かべるうなじを冷ます。


 ノートパソコンの明かりと星々の光だけが差し込む暗い部屋で、七海はしばらく蹲ったまま、頭を掻き毟る。夏休みは残り二週間。七海は苦悩の中でそれを過ごすことになった。


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