第7話

 動画の撮影を済ませた翌日の放課後、七海はHRを終えてからも、しばらく席を立てないでいた。机に広げたノートパソコンで恵奈のPR動画を眺めていたのだ。


 動画が満足のいく仕上がりであるのは疑う余地もなかった。


 だが、それはあくまでも薮崎七海と周藤恵奈の尺度によるもの。恵奈の物差しで及第点と判断していた動画が落選だった以上は、今回も自身の感覚に疑いを持つべきだ。


 前回から今回へ、彼女の語る内容に大きな変化はなく、主な違いは動画の見え方だけ。照明や画角などをマイナスからゼロに戻して、ほんの僅かだけプラスに傾ける程度の変化。


 この動画は、彼女が落選した理由を払拭出来ているのだろうか。


 しばらく思考するも、答えは出なかった。そして、つまるところそれが自分の能力の限界だということを悟る。故に、能力以上のことを彼女に与える義理もない七海は、これで責任は果たしたと判断して、七海に完成版の動画を送ることを決めた。


 その時、七海の両肩に誰かの手が乗った。


「カントクー、何見てるん?」


 快活な声が背中越しに掛かったかと思うと、誰かが横から顔を覗かせてイヤホンを外した。


 スクールカースト上位の野球部マネージャーだ。名前は田中だったか。小柄ながら明るく元気に満ちており、老若男女好かれる気質をしている、巻き毛の女子生徒だ。


「周藤の自己PR動画」

「あー! そういえばやるって言ってたね。調子はどんなもん?」


 田中はどうやら興味津々の様子だ。七海は億劫に思いながらも律義に応対する。


「悪くはないよ。もう提出用の動画は撮り終えた」


 田中の双眸が好奇心に光った。


「見せて」


 七海は額を押さえて嘆息。視線を適当に泳がせて断り文句を探す。


 だが、バイアスが掛かっていない第三者の客観的な意見は貴重だろう。そう思い直し、スマートフォンを取り出した。「一応、肖像権は周藤にあるから」と言いながら、恵奈に成り行きをメッセージで送信。五秒後、スタンプメッセージでオーケーの意が返ってきた。七海が驚き、平然と画面を覗き込んでいた田中も「早いね」と笑う。


 七海はイヤホンの片割れを彼女の耳に押し込み、動画を再生する。


 田中はおしゃべりな口をぴたりと閉ざして、音と動画に意識を集中させた。


 ――それから一分後、静かに聞き終えた田中は両手でサムズアップした。


「いいじゃん!」


 彼女の意見に全てが掛かっている訳ではないが、それでも少しの安堵を覚えた。本質的には何も変わっていないことに対して懸念を覚えていたが、どうやら取り越し苦労だったらしい。


 田中からの太鼓判を貰った七海は、恵奈にこの映像データを送ることにする。


 七海は先ほど開いたメッセージアプリに、動画が完成した旨を打ち込んでいく。


 傍ら、田中は勝手にスペースキーを押して動画を繰り返し視聴していた。


「いや、意外としっかりしてるんだね、周藤さん。ちょっと見直したかも」


 そして、七海が恵奈に『動画できた』と簡素なメッセージを送ろうとしたとき、


「ああ、でも――」


 田中は無為にそう呟いた。面白い漫画を読んで笑うような、そんな無意識下の呟きだったらしい。だが、四文字を口に出した後、その言葉の続きが七海にどのような印象を与えるか考え直し、口を噤んだようだ。


 しかし、すぐ隣で吐かれた言葉だ。否が応でも聞こえてしまう。


 七海は先を促すようにジッと田中の横顔を見詰める。


 田中は言葉を出し渋る様子だったが、揺るがない七海の視線に観念して感想を絞り出した。


「――なんか、軽い? 感じがした」


 背中に氷を入れられたような悪寒。或いは、寝耳に水が入ったような動揺。


 七海は深く眉根を寄せ、曖昧な彼女の批評を深掘りするように繰り返した。


「『軽い』?」


 その言葉が不快感故に紡がれたものだと誤解したのか、田中は慌てて手を振る。


「あ、いや、あくまで素人がそれっぽいこと言ってるだけで、別に……」


 だが、そんな弁明は七海の耳には入らない。


 口を押さえて顔をやや俯かせ、細めた瞳で画面の中の恵奈を睨んでいた。


 『軽い』――『重い』などの対義として使われる言葉だ。物理的にも精神的にも使われる言葉で、その他にも、浮ついた、気分が沈む、などの比喩や暗喩にも用いられる。周藤恵奈の自己PR動画に対する意見としての『軽い』を、七海はどう解釈すればいいか分からなかった。


 キーボード上の田中の手を、七海が強く掴む。


「どういう意味? 詳しく教えてほしい」


 田中は困った様子で、素直なところを告げた。


「く、詳しくって言われても、その、思ったまま言っただけで。感覚的な話だから」


 ――本当にこのまま動画を送っていいのだろうか。七海は葛藤する。


 思い悩んだ時点で、既にメッセージアプリに入力したテキストは全て消去していた。スマートフォンをポケットに戻し、その手をそのまま机に叩きつけるように置く。びくっ、と田中の肩が跳ね、彼女の畏怖に満ちた目が鬼気迫る七海の横顔を見た。


「……カントク? 大丈夫?」


 その言葉は聞こえていたが、律義に返答をする精神的余裕はなかった。


 撮影をした七海や恵奈には分からない、『軽さ』。技術的な部分に目を向ければ向けるほど死角に逃げ込むような、もっと本質的な要素なのだろう。どの程度だけ田中の感性を信用していいのかは分からなかったが、もしも彼女の言葉が的確であるならば、今まで恵奈がオーディションで落選してきた理由にもそれで説明がつく。


 問題は、何がどう軽いのか。どう直せばいいのか。


 七海は「くそ」と苛立ちを呟いた後、相変わらず窮地に父親の顔を思い出す。方向性こそ芸能方面からやや逸れるものの、何かを撮影するという観点では同じ仕事だ。雄二であれば何か知っているかもしれない――そう考えるも、その思考を掻き消すようなノイズを想像する。


 『薮崎のお父さんってエッチな動画撮ってるらしいよ。』


 『七海ちゃんって映画監督になりたいんでしょ? お父さんの影響なの?』


 父のことは嫌いではない。だが、彼の仕事に紐づく周囲の雑音の一切が七海は嫌いだ。夢を笑われるのも、追い掛ける背中を刺されるのも、からかわれるのも、全て。ただ好きな映画を観て、好きに映画を撮りたかっただけなのに。――熟れるように膿が溜まる。


 ああ、くそ。口の中で呟いて、感情のスパイスと一緒に、それを全部飲み込んだ。


「……周藤のカメラ映りが悪いんだろ。もう、他に直し方なんて分からない」


 自分でもハッキリと理解できるほどに、逃げた。思考と、向き合うことから。


 だが、七海の腹の内など知らない田中は、申し訳なさそうに手を合わせる。


「私、別にカントクが悪いって言いたかった訳じゃないよ?」

「分かってる。大丈夫――分かってる。悪い、自己解決したんだ。怖がらせてごめん」


 渦巻く悪感情を全て片付けて蓋をして、七海は冷めた顔を返す。それでは少し冷酷かと思い直して、疲れを隠せないながら笑みを浮かべた。その笑みを見た田中は、安堵の表情を返す。


「良かった。変なこと言っちゃったらどうしようって思ったんだけど……んー、あんまり邪魔しても悪いし、私、帰った方がいいかもね。ばいばーい」


 田中は幾らか七海を慮る様子で、邪魔をしないように速やかに退散してくれた。普段から関わりのあるデリカシーの無いクラスメイト達の中で、田中だけは今一つ苦手意識を持てないのは、こういう些細な配慮が理由だろうか。


 随分と生徒も減った教室を見回した後、苛立ちを溜息に変えて鞄を担ぐ。速やかに教室を出て行こうとしたが、そこに、前の席から声が掛かる。


「なあ、七海」


 緩慢に帰り支度を済ませた真白だった。今から帰る様子だ。


「……聞き耳?」

「前の席なんだから聞こえて当然だ」

「聞く気が無いならさっさと帰ればよかっただろ」


 つい棘を出した七海は、遅れて己の八つ当たりに気付いて「……ごめん」と詫びる。だが、真白はそんな些末な社交辞令をやり取りすることを望まず、単刀直入に本題を切り出した。


「世に出る映像作品が大コケした時ってよ、監督が批判されるんだ」


 その言葉は七海の知るどんな刃物よりも鋭利で、そして七海にだけ効く毒が塗ってあった。


 誰にも見せたことのないような顔で黙る。平然と仕事相手を蔑んだ自分への苛立ちや、かつての自分が見た夢に背を向けていた行為への罪悪感、それらをまとめて突き刺された痛みと、それをどう片付けていいか分からない人間の、苦悩と苦渋に苛まれる表情だ。歪む。


 幼馴染である彼女だけは、その感情から逃げることを許さず、思考を強要した。


「言いたいこと、分かるか?」


 七海は強迫観念に突き動かされるように、歪に笑う。最初は吹き出すように肺の息を押し出して笑おうとして、一瞬の後に酸欠になって息を呑む。改めて頬を歪めて、作り物にしてもあまりに下手糞な笑顔で、彼女の主張を足蹴にした。


「たかがオーディションだろ。私は、できる限りのことはした」


 そう言って七海は逃げた。真白だけではなく、選択の全てから。


 背中を突き刺す真白の視線がやけに痛かったが、教室の扉を閉めると、少しマシになった。


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