第6話

 恵奈と共に今後の方針を定めたその日の夜、七海は自室の機材を検めた後、部屋を出た。


 薮崎家のリビングはダイニングを兼ねてキッチンも併設された広い空間で、キッチン側には食卓、反対側にはテレビやソファが置かれている。部屋から続く扉を抜けると、そんなリビングのテレビの前で言い争いをする父の雄二と、妹の綾香の姿があった。


 今年で四十代も中腹に差し掛かるくたびれた成人男性と、花も恥じらう中学三年生がソファでチャンネル争いをする様は、正視に堪えない。


「サッカーなんて後から録画で見ればいいじゃん。Lステに変えてよ」

「待て待て、音楽こそ専用のプレイヤーで聞けばいいじゃないか。サッカーはな、リアルタイムで盛り上がるからこその良さがあるんだ」

「いや知らん知らん、スポーツなんて今どきスマホでも見れるでしょ」


 そういって容赦なくチャンネルを変える綾香に、雄二は絶望の声を上げる。そして、そんな二人を母の妙子が頬杖を突きながら眺めていた。『ようやる』、とでも言いたげだった。


 そんな騒がしい空気の中、七海は雄二に声を掛ける。


「父さん、ちょっといいかな」


 途端、リビングの空気が張り詰めた。チャンネルを奪い取っていざと前のめりになっていた綾香は端正な顔を驚きに染め、頬杖を突いていた妙子も珍しそうに七海を見ている。


 打ちひしがれていた雄二は驚きを隠せないまましばらく七海を見たが、「あ、ああ」と調子を取り戻したように相槌を打つと、ソファに座り直して笑う。


「どうした?」


 気まずい空気から逃げるように、綾香はいそいそと母親の方に退散し、二人でスマートフォンを眺めるフリをしながらこちらの様子を窺っていた。


 ――小学生時代、七海が雄二の仕事を堂々と小学校で暴露した事故以降、雄二との間で交わされる会話の数が激減した。喧嘩をしている訳ではない。お互いに相手の何が悪いと考えることもない。ただ、どういう言葉を交わせばいいのかも分からず、七年近くが経過している。


 彼の仕事が切っ掛けで、七海は同級生にからかわれることになった。だが、七海自身は雄二に対して強い悪感情を抱いているということはなく、その仕事にも敬意を持っている。ただ、少し、接し方を忘れただけ。必要最小限に少しの雑談を加えた、一般家庭の親子間の会話に少し足りないくらいの話し合いはあるが、積極的な交流は無かった。


「あー、その……明日一日、レフ板を借りたくて」


 レフ板とは、主に照明を様々な方向から当てる目的で使用される反射板だ。主に白や銀があり、場合に応じて黒や金も使用されるだろうか。光を緩和させるための半透明なものもある。


 七海からの頼みごとに、雄二は目を見開いて腰を上げた。


「おお! い、いいぞ、好きに使いなさい。銀か? 金もあるぞ」

「や、白レフでいいかな。勝手に持っていっていい?」

「ああ、場所は分かるか?」

「大丈夫、ありがとう――それだけ」


 七海はそう言って父の機材部屋に足を運ぼうとする。


 だが、そんな七海の背中に雄二の浮足立った声が掛かった。


「何か、撮るのか? 相談に乗るぞ」


 振り返ると、嬉しそうな、期待するような雄二の眼差しがあった。


 容姿はまるで違うが、そこに恵奈が重なって見える。ある種、鏡のようなもので、薮崎七海という人間の性格や能力を買い被った彼らの期待は、それとは正反対な七海の人格を浮き彫りにするようで、酷く胸が締め付けられる。


 確かに彼の力を借りれば、恵奈の自己PRはより良いものになるかもしれない。だが、恵奈に対して、七海がそこまでする義理はあるだろうかという葛藤があった。


 数秒の沈黙と逡巡。


 七海は複雑に入り乱れる感情を胎の奥底に押し込め、表面に固い笑みを浮かべた。


「いや、父さんの手を煩わせるようなものじゃないよ」


 それを聞いた雄二の顔は、どうにも、もう一度見たいとは思えないものだった。




 ――七海の去ったリビングに、果実も熟すような長い沈黙が流れた。静寂を打ち破ったのは、テーブルに座って冷たい麦茶を飲んでいた綾香だ。意外そうな顔をしている。


「お父さん、お姉ちゃんと仲直りしたの?」


 雄二は弱々しく笑って頭を左右に振った。その笑みには哀愁が漂っている。


「仲直りも何も、喧嘩をしてる訳じゃないぞ」

「でもぎこちないじゃん、いつも」


 七海に似て容赦のないことを言ってくる綾香に、雄二は思わず苦笑をしてしまった。どっさりとソファに背を預けて考え込んだ雄二は、苦笑を悲しそうな笑みに変える。


「……七海には悪いことをした。恨まれて当然だ」


 顔を覆って酷く落ち込む雄二。妙子は「こら」と、落ち込ませた元凶の綾香を叱る。そんな様に少しだけ救われるような笑みを見せた後、雄二は罪悪感を言葉にした。


「映画監督になりたいって子が、親の仕事で笑われたら辛いだろう」


 薮崎雄二には負い目があった。酒に溺れてうっかりと幼い娘に場合を弁えない話をして、その結果、七海が夢から目を背けるに至ったことへの罪悪感に基づく負い目が。


 雄二の泣き言を聞いた妙子は、軽い溜息を吐いた。


「だから私、内緒にしとけって言ったのに」


 雄二が再び肩を落とすから、今度は綾香が「こら」と母親を叱った。








 翌日の放課後、七海は視聴覚室にてPR動画の撮影準備を進めていた。恵奈は高揚感と共に完成を待ちつつ、セッティングが終わった機材を不思議そうに眺めている。


 七海は幾つも並べて置かれたテーブルの一つを撮影器具として教卓側にズラし、そこにスマートフォン向けのアームを装着。七海が家から持ってきたものだ。値段は四千円とやや高価だが、値段相応の安定感を持っており、ガッシリとスマートフォンを掴んで撮影位置を固定した。


 こちらも七海の私物、コンデンサ形式のショットガンマイクをセッティング。


 スマートフォンとマイクはそれぞれ長いケーブルでノートパソコンに接続されており、専用ソフトでそれらが一つの動画に合成されている。七海は出力を確かめる。


 照明を確認。自然光の一切を遮断して照明を全点灯。予め想定しておいた位置にレフ板を配置して、上部から降りる光によって下側に生まれる影を、下方に置いた白レフで緩和。


「そこに立って、喋って」


 恵奈は「はーい」と、七海が指示した絨毯パネルの継ぎ目を目印に立つ。


 七海はイヤホンを装着して音声を確認。


「あめんぼ赤いなアイウエオ、浮藻にこえびも泳いでる」


 音声は非常にクリア。音ズレはなし。画角も問題なく、照明も減点を食らわない程度の無難な状態にはできただろう。諸々を確かめた七海は指で輪を作る。


「はい、オーケー。こんなもんかな」


 呟くと、それを眺めていた恵奈が「おー!」とパチパチ手を叩く。


 興奮冷めやらぬ様子で七海を見る。


「プロっぽい!」

「寄せ集めの知識と機材だよ。本職には及ばない」


 七海がばっさり切り捨てると、恵奈は『この人は』と言いたげな半眼を向けてくる。


 謙遜に対する不満の意のようだが、実際、カメラの技術も照明や音声の知識も、父のような業界歴が長い監督や、それを専門に研究してきた職人達に比べると表面的なものに過ぎず、浅い。映画監督として、携わる職業の役割やできることを学んできただけで、まだまだ未熟――と、そこまで考えた七海は、もう捨てたその夢を軸に思考を展開する己を嘲笑う。


 軽く頭を振って思考を切り替えた。


「撮影現場ではこういう機材を使うんだねえ」

「いや、プロ仕様なのはマイクくらいかな。フルスペックのカメラはもっと厳ついよ」

「へえ! あ、でも、カメラはスマホのやつで大丈夫なんだ?」


 恵奈は固定されたスマートフォンに付いた、三つのレンズを不思議そうに覗く。


「最近のスマホは優秀だからね。それだけで映画撮ってる人も居るくらい」

「そうなの⁉ え、じゃあビデオカメラとか必要ないじゃん」

「そうとも言い切れない。専用機材には相応のメリットもあって、例えばスマホは現行最新機種の大半が60fps――秒間60枚での映像撮影になるけど、プロ機材は120まで出せるものもある。まあ、映画の大半は24とか48で撮られてるんだけど……色味とか絞りとか、表現の幅と限界はプロ仕様に軍配が上がるらしいよ。スクリーンにお届けしないならスマホでいいとは思うけど……まあ、私は素人だから。実情は本職のカメラマンに聞いてみたいね」


 七海はノートパソコンを操作して動画撮影の準備を進めながら、知る限りの知識で恵奈の疑問に答える。だが、疑問を解消したというのに彼女からの返答が無いことを訝しんだ七海が恵奈を見ると、彼女は感嘆を含む眼差しを返してきた。


「なんか、監督って感じ」


 あまりにも雑な賞賛に、七海は呆れ顔をする。それを隠すように目を瞑った。


「……余計なことを話し過ぎた。さっさと撮影を済ませよう」

「はーい」

「台本は覚えてきた?」


 そうでないならスクリーンにカンペを映してもよかったが、恵奈は堂々と首を縦に振る。


 実力には自信があると語るだけあり、問題はなさそうだ。「大丈夫、完璧」と語るから、七海は「始めよう。両端はこっちで切るから、自分のタイミングで始めて」と伝えて撮影を始めた。


 エンターキーを押下し、イヤホンを耳に装着。以降、七海はジッと動きを止めて息を殺す。指向性マイク故に呼吸や衣擦れの音を拾うことは無いはずだが、心構えのようなものだ。


 恵奈は胸に手を当てて深呼吸を一回。


「オーディションを受けさせていただく周藤恵奈です。よろしくお願いいたします。私のアピールポイントは――」


 そうして彼女の自己PRが始まった。カメラの前で浮かべられる彼女の笑みは普段よりもやや固いように感じられるが、滑舌は良く、テンポも人間が聞き取りやすい理想値に近い。


 肩肘を張ってこそいるが、緊張は飼い慣らしている、というところだろう。


 簡単な挨拶から始まり、長所、アピールポイントの主張に移行。前回と同様に早口言葉を披露し、台詞の技術を示した後に、それを習得したハングリーさもアピールしている。それから養成所での経験も踏まえて実務能力を語った後、見惚れるような笑顔で締めくくる。


「――以上です」


 一分と少し。七海は間を置いてからエンターキーを押下して撮影を終了した。


 ふう、と息を吐いて強張りが抜けた自然な笑みを浮かべる恵奈に、イヤホンを外して目をやる。「出来の方は?」と確かめると、「悪くはないと思う」と不敵な笑みを返してきた。


「だったら一発オーケーだ、流石」


 その自信に見合う程度には、恵奈の自己PRは大したものだった。


 スイッチが入った瞬間、目の前に居た女優志望の同級生は明確に俳優の卵へと変貌し、語る言葉の全てが鼓膜を介して心臓に届くようになった。多少の表情の固さはあったが、最初だけ。それも普段の彼女の顔を見ているから分かる程度で、恐らく許容範囲内のはず。


 総じて、積み重ねられてきた経験と、それに基づく彼女の技術が感じられた。


 後はこの動画の両端を切り落として最終確認をしよう。そんなことを考えていると、トコトコと歩み寄ってきた恵奈が期待するような眼差しでノートパソコンを見る。


「ど、どんな感じかな」


 ――そりゃ気になるか。


 七海は思わず苦笑を浮かべると、イヤホンの片方を彼女に差し出す。恵奈は嬉しそうな笑みで耳に髪を掛けてイヤホンを挿した。七海は編集ソフトの画面でそのまま再生ボタンを押下。


「前後は後でカットする」

「うん」


 そんな一瞬の会話の間に深呼吸を済ませた恵奈が、画面の中で自己PRを始めた。


 恵奈の、初期の自己PR動画とはまるで印象の異なる映像だった。


 顔は真正面から明瞭に見え、光の影響で表情の些細な変化もよく見える。マイクを変えた都合もあってか、雑音が入らずにクリアな恵奈の声が聞こえてきている。


 その音を聞きながら、七海はふと隣の恵奈を見る。自分の力だけで撮影した時とはまるで異なる自己PR動画に、彼女は目を輝かせていた。その横顔は見惚れるほどに美しく、本当に、なぜこの女がオーディションで落とされるのかが七海には分からなかった。


 一分間の視聴を終え、恵奈は半ば呆然としながらぽつりと呟いた。


「私、綺麗だね」


 ともすれば自画自賛とも解釈できるその言葉が他の意味を持っていることを、七海は知っている。だから茶化すことも笑うこともせず、「そりゃよかった」とだけ呟いた。


 これで撮影は無事に完了だ。七海は俳優の身体に傷を付けないよう丁寧に彼女の耳からイヤホンを抜き、録画ファイルをしっかりと保存してノートパソコンを閉じる。そのまま速やかに片づけを始めようとしたとき、「ねえ」と恵奈の声が掛かった。


「薮崎さんって、どうしてこの依頼を受けてくれたの?」


 唐突な質問に、七海は片付けの手を止めて彼女を見た。


 恵奈は不思議そうな顔で七海を見詰めるばかり。そこに裏の意図は無さそうだ。


「私としては凄く助かるし、助かった。でも、一度は断った薮崎さんが私のために行動してくれる理由が、君を知るほど分からなくなる。やっぱり、お金?」


 それは金銭を下品なものだと解釈するようなものではなく、事実を事実として聞きたいだけの、裏表のない質問だった。だが、正直に答えるのは憚られる。


「それ、大事なこと?」


 七海の浮かべた軽薄な笑みに拒絶の意思が含まれていることが、恵奈にも分かったのだろう。彼女は驚きながらぴたりと口を噤むと、「や、そうじゃないけど……」と言葉を濁す。


 しばらく不穏な沈黙が漂った後、恵奈は少し恥ずかしそうに視線を逸らす。


「……君のことを知りたいと思ったの。助けてくれた友達だから」


 その言葉を聞いた際の七海の表情は、筆舌に難いものだった。


 劣等感や罪悪感を抱いている相手から向けられた友愛を、どう処理すればいいのか分からなかった。友情に喜び、嬉しいと感じればいいのか、それとも一方的な嫉妬の感情に基づく悪意ある動機に従って、嫌悪感を返せばいいのか。それとも罪悪感を持つべきか。


 複雑な意思が入り乱れ、七海は口を歪めて苦しい笑みを浮かべる。


 ――妬ましいから。だから、お前に現実を思い知らせてやりたくなった。


 そんな言葉を吐けるほど性根が腐り果てている自覚もない。七海は粘土を捏ねるように苦しい笑みを一般的なそれに作り変えた後、全てを曖昧な言葉で片付けた。


「大した理由じゃないよ。ただの気まぐれ――暇だったから」


 「ふーん?」と、恵奈は釈然としないながらも、疑う理由はなく納得した。


 周藤恵奈は凄まじい女傑だ。周囲の一切合切を歯牙にもかけずに夢を追い、未熟を自覚して他者を頼る器量もある。その上で、七海の目には俳優としての実力も兼ね備えているように思われる。妬ましく、羨ましく、疎ましい存在だった。


 心の駄目な部分が熟れ、そのまま腐り果てていくのを知覚する。


 ――どうか現実を知った時、彼女が私と同じ場所に堕ちますように。


 そんな情けない願望を腐った心に片付けて蓋をして、冷めた顔をする。


「この後、データを持ち帰って映像の最終確認をするよ。軽いカット編集も加えるけど、まあ一日で終わる。ただ内容を確かめたいから、諸々含めて一週間で見てほしい」

「オッケー、期日までは余裕があるし、薮崎さんのペースでお願い」


 快諾を受け、七海は手早く片づけを済ませる。


 ふと、七海は恵奈に釘を刺すように予防線を引いた。


「あと、あくまでも今回の撮影は見栄えの部分を改善しただけ。本質の部分は何も変わってないから、結果が出ることは保証しないよ」


 我ながら情けない言い訳だと七海は自分が嫌になるが、恵奈はそれでも快活に笑う。


「ううん、それでも一人だったら難しかったと思う。だから、ありがとう」


 その言葉には、七海が約束を反故にするなどの懸念は一切含まれていない。


 丁寧に頭を下げる恵奈を見て、七海は自分の矮小さを悉く痛感させられた。


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