第4話

 帰ろうとした七海を呼び止めたのは、担任の平岩だった。


「おう薮崎、ちょっと待てや」


 まるで呼び出してカツアゲでもせんばかりの言い回しだが、これが彼の平常運転だ。七海は鞄を肩に担いだまま、教卓の平岩を見る。ちょいちょいと指を招くから、七海は渋面を隠して優等生然と彼の方に寄った。


「その呼び止め方、カツアゲされるみたいでなんか嫌ですね。何のご用ですか?」

「視聴覚室に提出物のノートを忘れたから取りに行ってくれないか。俺はこれから職員会議があってな、しばらく手が離せん」


 渋面を出した。三年の教室は二階、視聴覚室は三階。


「終わってから取りに行けばいいじゃないですか」

「暇だろ?」

「暇は嫌いじゃありませんので。無賃労働よりはずっとマシです」

「じゃあ進路希望調査、お前の分はこっちで上手く処理しておいてやるよ」


 七海の返答など決まっているも同然だと言うように、平岩は教室を出て行こうとする。


「いいんですかそれ、教師として」

「お前は頑固だけど馬鹿じゃない。どうせ上手くやるだろう」


 信頼しているのか放任しているのか、判断に難い発言をして平岩の背中は消えていく。


 「どんまい」「頑張れー」と話を聞いていた数名のクラスメイトが肩を叩いて出て行くから、七海は天井を仰いで嘆息した。進路調査票の空欄は既に埋めており、後は提出するだけの状態だったのだが――迷惑を掛けている自覚もある。七海は渋々と薄給労働に勤しむことにした。


 二階の三年生教室から三階へ。軽い足取りで帰宅する生徒や重い足取りで運動部に向かう二年生たちとすれ違いながら東端に向かうと、そこに『視聴覚室』のネームプレートが見えた。そこまで歩いた七海は、ふと足を止める。「鍵」と呟く。そう、鍵だ。盗難防止などの観点から生徒達の出入りしない教室には施錠をされているのが普通で、無論、七海は持っていない。


 一階の職員室に向かえば手に入るだろうが、空いている可能性もある。


 しばらく立ち止まって考えた後、七海はそのまま一縷の望みに賭けて横着をした。


 視聴覚室前に立ち、その押戸に手を掛ける。ドアノブを徐に捻ると、意外にもノブは終端まで淀みなく回転した。七海は「不用心な」と呟きながら扉を押し開けた。


 本来施錠されているべき扉が開いていた時点で考慮するべきだったが、視聴覚室には先客が居た。それは七海がここ数日で何度か目にしては苛立っている憎き女だった。


 どこか浮世離れた信念を感じさせる綺麗な面立ちと、見られることを意識し続けてきた人間特有の凛とした佇まい。無造作に無頓着に切っている七海の髪と違い、定期的に美容室に行っているのだろうなと思わせる真っ黒な髪が清楚な印象を与えた。


 視聴覚室に居たのは、周藤恵奈だった。


「私の特技は――」


 恵奈は視聴覚室のテーブルに置いたスマートフォンに向かって、そう語りかけていた。


 しかし、入室した七海に気付くと「え」と、目を見開いて硬直する。次いで、我に返ったように「あ、三組の……」と七海を呼んだ。思い返すとこちらの名前を名乗った記憶はない。


 しかし、七海は返事をすることも自己紹介をすることもせず、視聴覚室を見回す。


 絨毯仕上げの床に三人掛けの机が幾つも並んだ特殊な教室。


 どうやら自己PRの動画を撮影していたらしいことは分かる。


 防音性のある部屋を選んだのは悪くない。


 だが、と天井を見上げて照明の半分程度が点いていないことを確かめた後、出入口付近のスイッチを見る。教職員向けにどの程度照明を点ければいいのかをラベルプリントが示しているが、それに倣ったらしい。そのせいだろう。部屋は薄暗い。


 次に、撮影機材。スマートフォンを使用するのは悪くない。だが、置き方が最悪だ。


 テーブルに置いて筆箱に立て掛け、その近くに立って撮影をしている。


 角度と場所のせいで腰から下は見えず、加えてローアングルだ。


「どうしてここに?」


 オーディション用の動画を撮影している場面を見られて平然としていられる者は多くないだろう。恵奈は少し恥ずかしそうに、七海の来訪動機を問う。


 関わるべきではない。そう思ったのに、あれだけ全力で夢を追い掛けている彼女が、こんな腑抜けたやり方をしているのがどうにも気に入らなくて、気付けば七海は苦虫を噛み潰したような表情で、質問には答えず口を挟んでいた。


「――美術品のカタログ撮影って、どうやるか知ってる?」


 急な話題の振り方に、恵奈は戸惑いを隠せない。


「美術品? えっと、美術は少し疎くて……」

「作品を置いたら、それ以降は殆ど照明とかレフ板を動かし続けるんだ。カメラマンは作品の凹凸に良くない影ができない最適な位置を探して、一番映えるカタログを作ってくれる。人間も同じ、照明の色や光量、角度一つで大きく印象が変わる。明る過ぎは問題だけど、自己PR動画で薄暗くて良い事はほとんど無いでしょ。顔を見せる映像なんだから」


 七海は矢継ぎ早に問題点を指摘しながら視聴覚室の照明を全て点ける。一瞬、部屋全体が白く染まった。恵奈は七海の指摘に面食らった様子で「す、すみません」と詫びる。


 七海はそのまま彼女の方に歩み寄ると、筆箱に立て掛けられたスマートフォンを見下ろす。


「撮影機材は悪くない。むしろ、下手にプロ仕様に手を出すよりは良い」


 安堵する恵奈に「ただ」と付け加える。


「言葉を選ばずに言うと、撮り方が酷い」

「ひ、酷い……?」


 恵奈の顔が引き攣った。


「百歩譲って不安定な固定方法はいいとして、ほぼ上向きの角度でカメラを置くのはよろしくない。画角的に腰から下が隠れる。売り物は周藤の身体でしょ。顔もスタイルも良いのに、魅力を隠してセールスする営業担当がどこに居るんだよ。で、ローアングルが与える印象も自己PR動画に一般的には適さない。可能な限り顔面、せめて胸元が正面中央に来るようにした方がいい。コスパの良いアーム教えるから、それ使いなよ。三脚買えとまでは言わないから」


 七海はお節介を自覚しながら、スマートフォンでカメラ固定用のアームを探す。


 すると、恵奈は七海の横顔をまじまじと見詰める。その表情は意外だとでも言うような、或いは感心するようなそれでもあった。七海は目を細めて睨み返す。


「……何?」

「あ、いや、やっぱり詳しいんだね。君」


 胸元で両手を振りながら弁明する恵奈。その言葉尻が引っ掛かった。


「薮崎七海」


 彼女に名乗っていないことを思い出し、七海はそう自己紹介をする。恵奈は満足そうに頷いた後、微笑みながらその名前を口で覚えた。


「――薮崎さんか」


 話題は本題に戻り、七海は手厳しく恵奈を評する。


「話は戻るけど、別に私だってこういう技術に詳しい訳じゃない。人よりちょっと知識を齧ってるだけで、体系化された専門知識を学んできた本職の人には及ぶまでもないよ。今私が話したのなんて、映像関係の基礎も基礎、調べればすぐに出てくる知識だから」

「そうかな」

「そうだよ。だから、二回も落ちてるなら自分で調べるくらいの努力はするべきだ」


 途端、恵奈の顔が赤く染まる。自分の行動を恥ずかしがるような、少し怒るような。恵奈は不貞腐れて唇を尖らせると、不満を訴えるように目を逸らした。


「……頑張ってる、つもりだよ」

「プロ野球選手を目指してる奴がサッカーの練習を頑張っても『頑張ってはいる』でしょ。努力したと主張するなら目的に対する適切な方法を実行するべきだと思う」


 その言葉は自分にも突き刺さる。七海は言っていて段々と苦しくなってきた。


 我が身を顧みなければ観点次第で正論とも取れるような苦言に、恵奈はぶすー、という擬音が似合いそうな表情で顔を背けた。


「薮崎さんって、結構ハッキリ言うんだね」

「……悪い、言い過ぎた。余計なお世話だったら慎むよ」

「や、まあ、助かるけど」


 言い終え、七海はネット通販で見付けた、コストパフォーマンスに優れたスマートフォン用のアームを彼女に示す。連絡先を交換していないのでリンクの送受信も面倒だったろうが、恵奈は「ありがと」と言いながらその画面を撮影した後、ブラウザで検索もかける。


 口では不満を言いつつ、アドバイスを素直に聞き入れる姿勢は持っているらしい。


 七海はしばらく彼女の様子を眺めた後、いつまでもこうして周藤に時間を浪費するべきでないと判断する。平岩のおつかいを済ませてしまおうと教卓側のノートを目で探して帰ろうとするが、足取りがやけに重くて、一歩だけ踏み出して、すぐに止まった。


「ねえ」


 七海の声。この教室には二人しか人間が存在しない以上、名前を呼ばずとも自分を呼んでいると判断できた恵奈は、眉を上げて七海を見た。「なあに?」と綺麗な声。


「本気で女優になれると思ってるの?」


 恵奈は一瞬、ムッとした顔を見せた。夢追い人の背中に投げつけられる常套句だった。


 だが、七海の顔を見た途端、彼女は驚いたように怒りを消す。そして、神妙な顔をした。


 七海からの言葉には、今まで恵奈が受けてきた嘲笑の数々とは決定的に違う点があった。それは、言葉を吐いた人間の表情だ。嘲笑うのではなく、小馬鹿にするのではなく、ただ、切実に。或いは夢を追う恵奈よりも真剣に、まるで苦しむような顔で七海は恵奈を見詰めていた。


「顔と実力があればなれる仕事じゃない。運も必要だ。それも、芸能界に踏み入るときだけの話じゃない。そこから先、それで食べていけるかどうかにも運が関わってくる。つまり、自我と私生活を殺して、欲求に頭ごなしの蓋をして初めてスタートラインに立った後に、博打をするんだ。積み重ねた努力が報われる保証は無いし、遠からず後悔をするかもしれない」


 今まで恵奈を揶揄してきた人間と七海で明確に異なるのは、それが、業界を多少知った上での懐疑である点。七海は俳優業というものに人より少し近いから、それ故の疑念を持っていた。


「本気になっても報われるとは思えない。どうして、現実を見ないの?」


 普段の恵奈であれば苦言を返したその言葉も、何か救いを求めるような声に聞こえたから、恵奈は冷静に口を噤んで考え込む。数秒ほど返答を考え、返答ではなく反論をした。


「世間一般で堅実とされる職業って、たぶん公務員とか大手会社勤めとかだと思う。でも、そういう仕事だって『私、公務員になりたいです』って宣言した人みんながなれる仕事じゃない。例えば警察官の場合、明文化はされていないけど身辺調査が入るだろうし、身内の前科が就職活動に影響を来すかも。そういう意味では、堅実な仕事に就くのだって運が関わる」

「でも、そういう道の方が比較的安定した生活を送れるだろ」


 やや詭弁を含むも、七海は、確かに俳優ばかりが不安定な職だと主張するのには無理があるようにも感じられてきた。しかし、実際のところそれで生活できる者は一握りだろう。


「確かに、副業不可の公務員と違って、俳優業をしている人の多くは副業やアルバイトをすることになる、って聞くね」


 「でも」と恵奈は続ける。


「そもそも君と私は物事の価値基準がまるで違うんだと思う」


 恵奈は二つの手でそれぞれ親指と人差し指を伸ばし、物差しを作る。そして、架空の物差しを擦り合わせるようにジェスチャーをした。


「博打を打たずに無難に生きて、およそ真っ当と言われる範疇で正社員雇用をされて安定した生活を送るのも一つの幸福だとは思う。その道はきっと老若男女が真っ当だと称するだろうし、今の私みたいに後ろ指を指されることもない。それは否定しないよ」


 恵奈は微かに頬を緩める。


「不安定な仕事なのは理解している。演技だけやって生きていける保証はない。大勢の人に支えられながらじゃないと、私は役者にはなれない。――でも、だからどうした」


 七海が目を見張る。恵奈は自分の胸元を手で押さえながら、言い切った。


「私の幸福は私の夢を成就すること。そのために毒を飲む必要があるなら、飲むよ」


 嘲笑も、将来も、苦悩も。全てひっくるめて毒を飲んで、彼女はその道を歩むと言ったのだ。


 根底からの覚悟の違いを痛感した七海は、眩しいものを見るように目を細め、歯を食い縛る。


「――薮崎さん、私は女優になるために頑張ってるんじゃないの」


 使ったことも見たこともないような、フィルム映写機の回る音が聞こえた気がした。


 視界がセピア色になるような錯覚を覚える。胸の奥底、嫌いなもの全てから匿った小学三年生の頃の炎が少し、勢いを増したような感覚。あの頃、真白と入った映画館のポップコーンの香りがして、瞑った瞼の裏側に鮮やかな宇宙の景色を見た。


 カメラを持っていたら構えただろう。監督だったら、この機を逃させない。


 目の前に、憎いほど美しい女が居た。だから、七海は顔を歪めた。


「夢を諦めきれないから、頑張るしかないんだ」


 恵奈がそう屈託なく笑うから、七海は彼女との違いを痛感した。


 徐に目を瞑って、時間をかけて開き、頭を下げる。


「……ごめん。狭い了見で、周藤の幸福を決めつけた」

「いいよ、謝らないで。薮崎さんにも思うところがあるのは、なんとなくわかる。ただ頭ごなしに馬鹿にされてるって訳じゃないのは感じたから」


 懐の広さも七海とは比較にならないほどだった。


 七海は、今度は天井を仰ぎ見た。


 天井を見たかったのではなく、星が見たかった。そして、彼女から目を背けたかった。


 周藤恵奈に対する七海の感情は複雑だ。この女の主張を認めるのは、自分の今までの人生を否定するのと同義だ。認めるほど自分が憐れで滑稽な存在であることを自覚することになる。恵奈を、そして恵奈の生き様をどう受け止めればいいのかは分からない。


 だが、今ここに、強い欲求を抱いた。


 ――どうかこの女が間違っていてくれますように、と。


 そして、それを理解させるためには、恵奈に現実を見せなければいけない。だから、


「やるよ」


 口を衝いて出たのはそんな言葉だった。


 脈絡の消え失せた宣言に、恵奈の顔が間抜けな疑問符を浮かべる。


「――え?」

「この前の話、やっぱり引き受ける。やるだけやってやる」


 そう改めて伝えると、ようやく言葉足らずだった七海の意図が届いたらしい。


 恵奈は口を一文字に結んだまま目を丸くする。段々と、雪が解けるように口元に笑みが見えた。爛々と嬉しそうに輝き出した恵奈の眼差しに、仄暗い七海の視線が衝突した。


「私が、周藤のPR動画を撮るよ」


 目を細めて笑った恵奈の返答は、もはや聞くまでもないだろう。


 最後の動画編集は一年前の春。勉強用となり果てたノートパソコンに七月用のフォルダを作成しなければ、なんてことを七海は考えた。


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