第3話

 映画監督になりたいと父親に明かした際、彼は嬉しそうに様々なものを七海に買い与えた。


 その中の一つが、自室に置かれた大きなテレビだ。学生の一人部屋に置くには過ぎた代物。そして、その対面には一人掛けのソファまで置かれている。


 今はどちらも、双方にとって罪悪感の象徴だ。


 周藤恵奈からの打診があったその日の放課後、七海は年季の入ったソファに制服のまま座し、大きなテレビに映る映画をぼんやりと眺めていた。


 年季の入ったDVDプレイヤーで何度も観てきた映画だ。


 画面の中では老人のインターン生が、年季によって積み重ねられた知識と経験により敏腕女性社長の信頼を獲得している。老若の差異、登場人物のジェンダー的価値観の対比などが脚本の妙を感じさせるが、それらのテーマを過不足なく観客に送り届ける構成や撮影技術も学ぶべきだろうと舌を巻く。


 そして、女社長がパートナーとの不和を解消するために外部CEOを雇用する決断を下す。


 ――夢を追い掛けていた人間が、外敵要因でそれを放棄した。


 七海はそこに自分の姿を投影してしまい、眉根を寄せる。


 それから十数分ほど視聴を継続するが、段々と映画の内容が頭に入らなくなってきた。純粋に映画を楽しむことができず、溜息を吐いて立ち上がる。


 DVDプレイヤーからディスクを抜いてパッケージに戻し、それを棚に。


 そのまま、何も考えずに笑えるようなコメディ映画でも観ようと棚を物色していると、最上段右端のタイトルが目に留まる。終焉を迎えようとする地球からの移住先を探す宇宙飛行士達を描いた洋画で、邦題はカタカナ八文字。宝物は埃を被っていた。


 昼間の、真白の言葉を思い出す。九年前に彼女と一緒に映画を観た帰り、分不相応に映画監督を目指したいと口にしたものだが、今となっては苦い思い出だ。


 七海は宝物に引っ掛けた指を、そのままコメディ映画の方へと滑らせた。


 その時、卓上のスマートフォンが鳴動した。


 確認すると、クラスメイトからの遊びの誘いであった。


 今からカラオケに行くがお前も来ないか、という誘いだ。気は乗らなかったが、それでも気分転換をしたかったという気持ちが半分と、どうやら珍しく真白も来ているらしく、幼馴染と過ごす時間はそう嫌いではないという、もう半分の理由で承諾を返信する。


『行くよ。先に入ってて』


 スマートフォンを置いた七海は、そのまま制服を私服に着替える。


 ふと、起動しっぱなしのノートパソコンが目に留まる。


 展開されたエクスプローラーのウィンドウには月単位で動画編集ソフトのプロジェクトファイルが分けられており、フォルダの最後の月は一年前の春だった。黙ってマウスを動かしてウィンドウを閉じた後、そのままスリープモードに移行。


 着替えを済ませて家を出た。




 『クラスメイト達あいつらのこと、どう思ってるんだ?』と真白から聞かれたことがある。


 クラスメイトの多くが父親の職業について軽口を叩く。


 七海は彼らとは喧嘩を起こさず、かといってへり下らず――生徒人気のある生徒想いの教職員をしても『上手くやっている』と評される程度に、上手い関係を築いている自負があった。だが、腹の内を知る幼馴染は、心の底から無垢に友愛を賛美できるような関係だと思っていないことも、理解してくれているようだった。――返答は単純で、『嫌いじゃないよ』だ。


 そう、嫌いではない。馬鹿みたいな時間を何も考えずに過ごせるのはそういう友人達が居るからで、確かに彼らの発言に腹を立てることもあるが、それは真っ当な人間関係であればどこでも起こり得るもので、集団心理と同じように、どうしようもないものだ。


 それ以上に言及するようなものはない。


 そんな彼らとの楽しい時間を終えた七海は、真白と共に繁華街を駅の方へ歩いていた。


 他の面々は二次会と称して別の店へ向かったが、そこまでは付き合いきれない。


 夏といえども二十一時の空は真っ暗だ。雲のない夜空を星々が覆っているが、繁華街のカラフルな照明が煌びやかに夜を染め、自然光が色褪せている。風が吹けば夏の香りがして、七海はパンツのポケットに指を引っ掛けながら肺の中の空気を入れ替える。


「そういや、珍しいね。真白がこういう誘いに来るの」

「そうか?」

「普段はバスケの練習で断ってるし、インターハイも近いんでしょ。どうした?」


 澄田真白は女子バスケットボール部の所属だ。それも、予選を勝ち抜いてインターハイへの出場が決まっている強豪のレギュラーを務めている。普段はこちらが心配になるほどの練習漬けで、七海からすれば今日の彼女の参加は意外だった。


 真白は夏の繁華街の酒臭い空気を吸って、嘆息。


「色々考えることがあるってのが半分と、練習が休みだってのが半分」

「この時期に」

「顧問に休めって言われたんだよ。オーバーワークだ」


 真白がスマートフォンで地図を確かめるから、七海も話題を変えて覗き込む。


「道、こっちで合ってんの?」

「疑うなら自分で調べろよ。私だって初めて来たんだ」


 やがて、確信を得たらしい。彼女はスマートフォンをポケットに戻す。


「合ってる?」

「合ってる」

「なら信じよう。間違ってたらホテル代は真白が出せよ」

「終電まで三時間あるんだぞ。繁華街舐めるなよ、どんな方向行ってもどっかしらの駅には着くだろ。着かなかったらそこは繁華街じゃない」


 そんなもんか。七海は口の中で呟く。


 歩く度に誰かと肩がぶつかりそうになり、雑多な照明が数え切れぬ数の影を作る。遠くに電車の駆け抜ける音が聞こえた七海は、夜を背景に高架橋を走る列車が見たくて、一瞬だけ背伸びをした。見えるのは歩道橋だけで、鼻を鳴らしながら踵を付ける。


 真白は七海の一連の行動を眺めた後、夜風に言葉を乗せるよう口を開く。


「なあ、よかったのか?」


 脈絡のない質問。七海は視線を返さずに応じる。


「何が」

「周藤恵奈の件だよ」


 その名前で真白の言いたいことを全て察した七海は、はー、と溜息を吐いて頭を掻く。


「またそれか」


 ぶっきらぼうな物言いに、真白は呆れた笑みを浮かべながら肩を竦めた。


「まあ、お前が嫌なら言及しないでおくが」


 真白は世辞や建前といった、本心と口上が乖離したそれらを基本的に好まない。故に、冗談の類でないのなら、彼女が口にした言葉は全て本心であると考えていい。事実、真白はそう言ったきり、完全にその話題を口に出すことはせず、黙々と駅への道を歩いていく。


 七海は安堵する。だが、それ以上に気分が晴れない感覚を覚える。――例えるなら小骨が喉に詰まっているような、彼女の言葉を半端な場所で遮る行為に対して身体が警鐘を鳴らすような、そんな不快感。眉根に寄った皺も隠さず、七海は前髪を掻き上げる。


「……聞くよ、何?」


 真白は鼻で笑うと、それを察していたかのように淀みなく話を切り出す。


「お前、映画監督を目指してんだろ? もし周藤の頼みを手伝えば、アイツがデビューした時に立派なコネができる。そうでなくても良い経験になる。引き受けるのも悪くないだろ」

「軽く言ってくれるね。映画撮影と自己PRのお手伝いじゃまるで要求スキルが違うよ」

「通ずる部分はあるんじゃないのか? どっちもモノを撮って人に届けるんだ」

「……本当に、簡単に言ってくれる」


 確かに、一切の意味がない行動だとは言わないが、気は乗らない。


「そもそも、いつの話をしてるんだよ。私が監督を目指してる? 間違えないでほしいんだけど、過去形だよ。目指して『た』んだ。中学二年生の世迷言、本気じゃない」


 沸々と湧き上がる感情を殺して、努めて淡々と彼女に語る。


 対する真白も淡々と応じた。こちらは本当に冷静だろうと思われた。


「小学三年生の頃だろ。クリストファー・ノーランに憧れたんじゃないのか」

「現実を見たんだよ。私がこれからどう頑張れば、二百億の予算と著名な科学者の監修の下で宇宙を撮影できる? あんなの目指す場所じゃない。分を弁えるのが賢い生き方だろ」


 少し語気が強くなりそうだった。苛立つ感情を抑えて続ける。


「本気でやったって報われるとは限らないし、夢を追ったって嘲笑の的になるだけだ。教室を出て行く周藤の背中を誰がどう見ていた? 誰か尊敬していた?」


 少なくとも薮崎七海に対しては、冗談の皮を被った嘲笑の矢が幾度となく放たれてきた。


 それを知っている真白は、反論の言葉が思いつかない様子で口を噤む。


「努力だけじゃ何もできない。才能や環境が必要だ。それも理解せずに……馬鹿げてる。周藤だってどうせ、本気じゃないよ」


 七海は苛立ちの感情が恵奈への悪態へ繋がりそうだったから、苦々しく不満を切る。


 「難儀だな」と馬鹿にするでも同情するでもなく、目の前の文章を読むような調子で事実を呟いた真白に、七海は唇を噛んで冷める気配のない苛立ちを抑え込む。


 その時だった。


 七海と真白の進行方向にある建物の一つが、徐にそのガラス扉を開けた。開いた口から一人の少女が出てくる。


 それは、今まさに二人が噂をしていた人物――周藤恵奈であった。


 半袖にハーフパンツという私服姿に、制服とはまるで異なる印象を受ける。だが、整った横顔や夜にも紛れない艶やかな黒髪が、彼女が間違いなく周藤恵奈本人であることを示していた。


 七海は驚く間もなく、思わず店の影に身を潜ませていた。真白も、空気を読んで何を言わずともそれに付き合ってくれている。数秒、二人で丸い目を見合わせた。


 ただ数分言葉を交わした程度で、特別に親しい訳でない故、声を掛けることはしない。


 恵奈が慣れた道を歩くように迷わず駅の方に向かっていき、その姿が群衆に掻き消された頃合いを見計らって、七海と真白は影から身を出して歩き出す。そして彼女の出てきた建物の看板を見ると、そこには『青木俳優養成所』と書かれていた。


「アイツ、こんな時間までレッスンやってんのか」


 時刻は二十一時。さしもの真白も感嘆するように呟く。


 七海は立ち止まり、しばらく呆然とその看板を眺め続ける。苛立ちが自分の胸の中に湧き上がってくるのを感じながら、歯噛みして、その後に目を瞑る。周藤恵奈を見ていると、自分の矮小さを悉く痛感させられる。彼女はこちらを見向きもせず真っ当に生きているだけなのに、彼女の一挙手一投足が自分を苛立たせ、後ろ姿すら、心の痛い部分を刺激した。


 七海は「なんなんだよ」と掠れた声を絞り出す。


「で、周藤が何だって?」


 勝手知ったる仲だ。線引きを弁えた上で茶化してくる真白に、七海は苦々しい顔で十秒、じっくりと躊躇った後、歩き出しながら吐き捨てた。


「………………さっきの言葉は、撤回するよ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る