第2話

「さて、薮崎。呼び出された理由は分かっているか?」


 遠くに生徒達のバカ騒ぎが聞こえる空き教室で、二人の人物が机を挟んで向き合っていた。


 一人は三年三組の担任教師、平岩である。無精髭がやや不潔な印象を与えるが、生徒想いで主に男子から人気のある男性教師だ。


 そしてもう一人が、今年で十八歳を迎える薮崎七海だった。無頓着に、無造作に伸ばされた黒髪が外見への関心の薄さを示しているが、顔面が美形に分類されるだろうことは自他共に認めるところである。背丈は中背で細身、出不精故に夏服の袖から出る腕に日焼け跡は無い。


 七海は肩肘を椅子の背もたれに、もう片方の手で頭を掻いて半笑いを浮かべた。


「私、素行も成績も良い方だと思うんですが」

「馬鹿言え、そんな話じゃねえよ。もう高校三年の夏だ、分かるだろ?」

「青春しろ、と。青い春どころか、生憎と今は茹だるような夏でして――」

「――いい加減に進路を決めろって言ってんだ」


 七海の軽口に平岩の呆れた返答。バン、と机に真っ白な進路調査票が叩きつけられた。


 高校三年の七月頭。夏休みを目前に控えたある日の昼休み、七海は進路調査票を空欄三つで提出したことを理由に担任から呼び出されていた。後から変えることもできるのだから、適当な単語で埋めてしまってもよかったのだが、失敗した。胸中で嘆息する。


「やー、すみませんね。色々と悩んでいたら決めきれなくて」


 殊勝に詫びると、平岩も強くは言えない様子で七海の成績表を見た。


「……成績は良い。必要最小限の社交性もある。クラスでも輪の内側に居る方だ。そこら辺の大学なんて自由に選べるだろうし、このまま就職しても上手くやっていくだろう。専門学校だって悪くない。選択肢が多い分だけ悩んじまう気持ちは、俺にも理解できる」

「でしょう?」

「でも、そろそろ焦った方がいいぞ」


 平岩は成績表を置き、ジャージのポケットに手を突っ込んで危機感を煽ってくる。


「三年にもなると既に目指す大学を決めて、勉強に取り組んでいる奴が大半だ。医大を目指して今から死に物狂いなヤツも居る。隣のクラスにはな、女優を目指してオーディションを受けてるような奴だって。周りが歩いている以上、立ち止まった分だけ差は開くんだよ、薮崎」


 ご高説もどこ吹く風か。七海は「女優っすか」と愛想笑いを浮かべた。


「皆すごいですね、夢を持っていて」


 平岩は露骨に渋面を作って嘆息を吐いた後、ポケットから引き抜いた手で無精髭を擦る。


「なあ、薮崎。お前、何かやりたいことは無いのか?」


 七海は細めた瞳を窓の方に逃がす。昼休み、中庭でゆったりと昼食を嗜んでいる一年生の美形カップルが遠くに見えた。随分と手が早いもので、どんなラブロマンスがあったのか、映画の題材にしたら面白そうだなどと未練がましく思った後、適当な嘘を吐き出した。


「……無いですね。強いて言うなら、働かずに食べていきたい」


 平岩は匙を投げて首を横に振り、ずい、と進路調査票を突き返してきた。


「だったら汗水垂らして働いて、不動産でも買うといい。ほら、次までに決めとけ」




 教室に戻ると、前の席の女子生徒が三白眼をこちらに投げてきた。黒髪が制服の肩先に触れており、気だるげな雰囲気が威圧的な雰囲気を感じさせる。粗野な口調から初対面の人を寄せ付けない節のある、七海の親友にして幼馴染の澄田真白だ。


「おう、何の話だった?」


 七海は溜息と共に自席に座り、進路調査票を置きながら答えた。


「進路。そろそろ決めろって急かされた」

「あー、平岩さんは生徒想いだからな。お前もそろそろ身の振り方を考えとけよ」

「分かってるよ。もう決めた、その辺の大学に行ってその辺の企業に就く」


 げんなりした調子で言いながら、七海はスマートフォンでその辺の大学を調べて適当に空欄を埋めていく。「まったく……」と真白の三白眼が呆れに細められる。


 適当な動機と内容で調査票を埋める幼馴染を横目に見た真白は、頬杖を突いた。何かを思い出して懐かしみながら語り掛けてくる。


「お前との付き合いも長いけどさ、覚えてるか? 小三の頃」

「……九年前? 何かあったっけ」

「映画だよ。二人で観に行っただろ」


 七海はしばらく手を止めて進路調査票を見詰めた後、「……ああ、あったね」と呟く。呟いて、そのまま記入作業に勤しんだ。真白は構わず続ける。


「あの映画を観た帰り。お前が私に言った言葉、覚えてるか?」


 七海は再び書く手を止める。そんな七海の一挙手一投足を真白は真剣に見詰めた。


 網膜に焼き付いて離れないあの時の鮮烈な光景と、それに灯された胸の奥深くの映画に対する情熱。忘れる道理はない。だが、その全てから目を背けた七海は、何も見えないフリをしてとぼけようとした。そこに、クラスメイトからの声が飛んでくる。


「お、カントク戻ってきてんじゃん!」


 カントク――七海の父親がAV監督であるという事実に由来するあだ名だ。一歩間違えればいじめに発展しかねない呼称だが、七海は平然とした素振りでそちらを見る。


 そこには、学食から戻ってきたクラスメイトの男女数名が居た。その中の一人、七海をカントクと呼んできた坊主頭の野球部――斎藤が口を開いた。


「ヒラケンなんて言ってた?」


 平岩担任のあだ名だ。七海は楽しくない真白の話題から逃げるべく応じる。


「進路希望、早く出せって急かされた」

「なにお前、まだ出してなかったの?」

「適当に書いて適当に出すよ。大した話じゃない」


 七海はうんざりした顔で肩を竦めるが、斎藤は妙案を思い浮かんだとばかりに手を叩く。


「迷ってんならAV監督とかどうよ! 親父さん、監督なんだろ? そこに就職させてもらえばいいじゃん。お前が撮った奴なら俺もちゃんと買うよ」


 級友たちが笑い声を上げるから、七海は肩を竦めた。


「やらないよ。斎藤は仕事を舐め過ぎ」

「あ、そう? やっぱ難しいの?」


 父親のことは尊敬しているし、その仕事を小馬鹿にするつもりも七海にはない。だが、それはそれとして、こう何度も軽口を叩かれては嫌気が差すというもの。七海の眉根には自然と寄っていた。七海はこっそりと手の指で額のそれを伸ばし、呆れ混じりの笑みを浮かべる。


「興味があるなら自分で撮ってみれば? 父さんに話くらいは付けるけど」


 斎藤は目の前で大きくバツ印を作る。


「いや、それはいいかな。自分でやりたくはない」

「あー、そう。お前はそういう奴だよね。どっかいけ」

「どっかいきまーす。ぶーん」


 斎藤は言うや否や両手を広げて飛行機のように自席空港へ着陸した。七海は書き殴った進路調査票を机の中に突っ込み、ストレスを逃がすように天井に溜息を吐く。


 その内、後ろの席の女子が「薮崎さん、お昼ご飯は食べられたの?」と心配そうに尋ねてくる。園芸部の遠藤だ。大人しそうな雰囲気の小柄な女子で、この教室では数少ない、七海をあだ名以外で呼ぶ人物でもある。七海は後ろ手に手を振った。


「食べたよ、心配してくれてありがとう」

「そか。……進路、大変だと思うけど、人生一度きりだから。後悔しないようにね」


 良心という言葉が似合う人物だったが、荒んだ感情の七海の喉元には『余計なお世話』という言葉が浮かびあがっていて、七海は懸命に言葉を呑んで「んー」と生返事を返した。


 ――考えたくない将来を考えて、どっと疲れた。


 七海は仮眠を求めて腕を組んで目を瞑り、狸寝入りに耽ろうとした。


 盛夏の候、昼下がりの快晴が冷房の効いた教室に陽気を運ぶ。


 真白のせいで思い出してしまった無数の星々が脳裏から離れないまま、どこか心地よい微睡に身を委ねようとしたその時だった。


 教室後方の扉が、何者かによって開けられる。七海はその音を聞いた。


 それは何の変哲もない、普段からよく耳にする、誰かが出入りする音だ。


 それが変哲を有したのは、昼休みの教室で自堕落な時間を過ごす者達の視線を浴びた来訪者が、言葉を発した瞬間だった。




「あの、このクラスに映像関係に詳しい人が居るって聞いたんだけど……」




 七海は徐に目を開くと、声の方を見る。


 教室後方の扉を開けた場所に立っているのは、隣のクラスの女子生徒だった。


 名前は知らないが何度か見たことがある。そして、人の顔を忘れやすいと言われる七海でも、彼女の顔はよく覚えていた。


 万人が振り返るような美貌と、絹糸を思わせるセミロングの黒髪。社交的な愛想の良い笑みは対人折衝において大いに有効だろうことを窺わせる。実際、彼女の言葉を聞いたクラスメイトの大半は、特に理由を尋ねることもなく、心あたりのある人物へ一斉に視線を送った。


 そう、AV監督を父親に持つ薮崎七海へと視線が注がれたのだ。


 眉根を寄せて猜疑心を隠そうともしない七海の視線と、来訪者の視線が交錯する。


「誰?」


 相手に聞こえない程度の小さな疑問に、応じたのは真白だ。


「四組の周藤すどうだ。周藤恵奈、女優目指してるって有名だぞ」

「……ああ」


 ちょうど平岩から『女優を目指してオーディションを受けている人間が居る』と聞かされていたばかりだ。彼女のことだったか。七海はすんなりと相手の素性を理解した。


 次いで恵奈がどんな厄介ごとを運ぼうとしているのか、探ろうとその風貌を眺めるが、七海が結論を出す前に彼女は窓際へ歩き、七海の席の傍に立った。


 静まり返った教室、二人が至近距離で見詰め合う。


「あの、貴女が映像に詳しいって人?」


 否定するか否か悩ましかったが、七海より先に遠くの斎藤が口を挟んだ。


「そいつのお父さん、AV監督!」


 七海の顔がひっそりと歪むと、真正面に立った恵奈だけがそれを視認した。恵奈は斎藤と七海を順番に見た後、物言いたげな表情で最後に斎藤を見て、そっと彼から視線を切る。七海を見詰めて「えっと、詳しいってことで間違いないかな?」と念押したから、肯定した。


「……人よりはマシ程度だけど」


 詳しいと自負できるほどではないと七海は自認する。


 カメラワーク、演出、音響、脚本、照明、道具。知れば知るほど先の世界が見えてくる奥深い映像の世界を、十代後半の小娘が知り尽くしているなどとは口が裂けても言えない。


 すると、恵奈はパッと明るい表情を覗かせる。


「あの、実は折り入ってお願いがございまして……」


 砕けた口調から一転、畏まった言い回し。良い予感はしない。かといって出合い頭に暴言を叩きつけられるほど協調性や社会性、社交性を欠いた人間だという自覚もない。


 七海は後ろ髪を掻いて逡巡した後、苦い顔を隠さずに思案する。それを見た恵奈の顔が一瞬だけ強張り、忌避感が正しく伝わったのを確かめてから七海は返した。


「まあ、聞くだけ聞くよ……場所変える?」


 怯んで帰ってくれれば御の字だったが、彼女の意思も固かった。


「ううん、大丈夫。えっと、私、四組の周藤。実は女優を目指してるの」


 少し恥ずかしそうに切り出す恵奈に、七海は知ってるとは言わないでおく。


「へえ、それは凄いね。立派だ」

「それで、オーディションを何度か受けてるんだけど。その……」

「上手くいっていない訳だ」

「そういうこと。――というのが前提で、ここからがお願い」


 丁寧な前置きだ。七海は欠伸を噛み殺す。


「君に、オーディション用の自己PR動画を撮ってほしいの」


 耳を疑って目を見開いた。聞いた話に驚いているのに目を剥くとは、人間の人体はどういう風にできているのだろうか。そんな思考に逃げたくなりつつ、七海は眉根を寄せながら聞き間違いである可能性に賭けた。


「なんだって?」

「だから、オーディションに送るための自己PR動画を、撮ってほしい」


 自分でもどういうお願いをしているか、その意味は理解しているのだろう。厚顔無恥ではないようで、恵奈は少々恥ずかしそうに顔を赤く染めている。こんな話を静まり返った教室でするとは、よほど被虐嗜好があるか、或いは覚悟が決まっているのか。七海には度し難い。


「……自己PRでしょ? 他人が撮ってどうするんだよ」


 同じような疑問を持っていたのか、無言で真白が頷いていた。


 恵奈は困り果てた顔で経緯を語る。


「ご指摘はご尤もなんだけど、もう二回も自己PR動画の選考で落ちてるの。全部同じ事務所の二次選考。倍率三十倍の書類選考は、懲りずに毎回通してもらえるのに」

「……カメラ映りが悪いんじゃないの?」

「それは――――まあ、否定はできないけど」


 できないのかよ。七海はそう言いそうになった口を懸命に閉ざす。


 しかし、と七海は改めて恵奈を見る。渋谷を一日歩いてもそうそう見つけられない程度には容姿は整っている。スタイルは抜群だ。発声も充分。意思疎通も問題なし。有名事務所だろうと書類選考を通るのは納得できる。むしろ、動画選考で落ちる理由が分からない。


 そこまで考えた七海は、はたと思考を止める。


 どうして彼女のために自分が頭を悩ませなければいけないのか。


「仮に通ったとして、周藤はそれに納得できんの?」


 そう話題を転換すると、恵奈は苦笑をした。


「自分が手段を選べるほど優れた才能じゃないことは、理解してる」


 苦笑を浮かべる彼女の双眸に、決して揺るがない不屈の意思が垣間見えた。七海の背筋に軽い鳥肌が立ち、一瞬、その穏やかな表情に宿る気迫に気圧された。


 過剰な自信を含まない自己分析と、それに基づく割り切り。そして、どんな手段であろうとも目的を達成しようとする強い意志を目の当たりにした七海は、仄かな苛立ちを感じた。それは、自分が持ち合わせなかったものを持つ者への嫉妬の念でもあった。


「でも演技の方には自信がある。何かあっても、受かったらそっちで黙らせるよ」


 そう続ける彼女に、七海は苛立ちを隠せずに歯を食い縛る。感情に任せて追い返してやりたい衝動に駆られるが、それではただの八つ当たりだと自制する。


 そこに、斎藤の声が飛んだ。


「いやー、やめといたら? 映像ってもAVの技術だぜ? 脱がされちゃうかもよぉ」


 下世話な声が飛ぶと、男女含む数名の失笑が教室から上がった。


 それなりの付き合いを経た今なら、悪意ではなく冗談の延長線上の軽口であることを教室中の大半が理解しているだろう。それでも流石に度が過ぎたか、不快そうにする者も数名居る。


 しかし、声は一つも上がらない――クラスメイトからは。


 声は意外にも部外者から上がった。


 恵奈は徐に振り向いて真っ直ぐに斎藤を見詰めると、苦言を呈す。


「あの、そういうの、聞いててあんまり楽しくないからやめてほしいな」


 ぴしゃりと伝えられた言葉に、斎藤は真顔で口を噤み、軽い汗を浮かべた。失笑していた者達も慌てて我関せずのアピールを始める。


 彼らから視線を切って、恵奈は過ぎた真似を詫びる。


「差し出がましかったら、ごめん」


 真正面に恵奈に見据えられた七海は、言い得ぬ苛立ちを感じていた。


 ――集団心理。極端な喜怒哀楽や衝動的な言動などが例に挙げられるそれに対して、個人の力というものはとても無力だというのが七海の見解だ。故に、父親の職業が発覚し、それが年頃の多感な少年少女の耳に入った時点で、今の斎藤のような言葉は出てきて当然のもので、七海もそれは甘受する方針で過ごそうと考えていた。なぜなら、全て無意味だから。


 そう考えた七海の思考を真っ向から否定したのが、目の前の女だ。


 七海が容易く夢を手放したのに対して、彼女は死に物狂いで追いかけ続けて。


 当てつけか。そう言いたくなる悪感情を一生懸命に腹の内に隠す。血液が沸騰するような熱に、微かな汗を手の内側で握る。歯噛みして、どうにか感情を押さえ込んだ。


 生憎と、燻るこの胸の感情を何と呼ぶか、七海は知っていた。


 劣等感だ。


「……いや。ありがとう」


 善意であることは分かっている。間違っても文句は言えない。


 恵奈は安堵の笑みを浮かべた後、凍てついた教室を無視して七海を見詰める。


「それで、どうかな。もちろん、お代も出来高報酬で支払うよ」


 報酬という言葉に惹かれるものが無い訳でもないが、既に七海の答えは決まっている。この一瞬の間に形成された彼女への苦手意識も勿論だが、大前提、金銭以外のメリットが無い。


 七海は緩やかに首を横に振った。申し訳なさそうな表情のオプションを付けて。


「事情は分かった。誰かを頼る判断も正しいと思う。でも、他を当たってほしい」


 声を絞り出すのには苦労した。


 恵奈は一瞬だけ悲しそうに瞳を伏せた後、人前で露骨に落ち込むことがどういう意思表明であるかをよく理解しているように笑みを浮かべ、頷いた。


「そっか――うん、わかった。急に押しかけてごめんなさい、聞いてくれてありがとう」


 「じゃね」と言い残して、彼女は自身の教室に戻っていった。


 後に残された七海は胸の内側で渦を巻く嫌悪感を飼い慣らすのに苦労して、怒られた面々は落ち込んだり陰口を叩いたりと忙しそうだった。


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