プリマドンナ・プロパガンダ

4kaえんぴつ

第1話

 小学三年のある日、とある映画を幼馴染と一緒に劇場で観た。


 現代、映画好きなら大半が名前を知るような大作に至った、有名SF映画だ。終末を迎えようとしていた地球を脱し、居住可能な異なる惑星を探す宇宙飛行士達の愛の話である。


 幼い少女には物語の崇高さや愛情の尊さなんてものは理解できなかったが、合計五百もの席が並ぶ巨大で薄暗い映画館のスクリーンに投影された、目を見張るような無数の星々と、緻密な考証の末に真に迫る説得力を得た宇宙の表現に圧倒された。


 観終えてしばらく、席を立てなかった。


 帰り道に幼馴染は言った。『面白かったね』と。


 だが、少女は――薮崎やぶさき七海はこう言った。『私も、アレを作りたい』と。


 驚く幼馴染に、七海はこう重ねて告げた。


「私、映画監督やってみたい」




「お父さんってどんな仕事してるの?」


 事件の発端はその一言だった。


 当時十歳、小学五年生になった七海は、『家族の仕事』という課題作文を書くため、父親の雄二にそう尋ねた。その晩は珍しくビールを飲んで上機嫌な赤い顔を晒していた雄二は、愛娘からの純粋無垢な質問に困った笑みを見せる。「ああ……」リビングからチラリと脱衣所の方を見て妻が次女と入浴中であることを確かめた後、声を潜めて質問に答えた。


「お父さんな、実は監督をやってるんだ」


 七海は一瞬、呆けた顔を晒した後、驚きに満ちた声を上げる。


「監督⁉」


 目を輝かせる七海。雄二の口元に笑みが浮かんだ。


 今まで彼の仕事を聞いたことがなかったが、まさか憧れの仕事だったとは。


 七海はあの映画を観て以降、映画監督の勉強を始めた。それは雄二も知るところだったが、父親は今まで業界人だということを僅かも仄めかしたことがなかった。


 だが、思い返してみればやけに業界事情に詳しかった気もする。そういうことか。


 娘の羨望の眼差しに気分を良くした雄二は、歯止めを失って朗々と語る。


「そうだ。もちろん、スポーツの監督じゃないぞ。映像だ。綺麗な女性を撮る仕事でな、男の人がよく観るんだ。お父さんはこう見えてその界隈ではかなり有名なんだぞぅ。七海に渡したカメラとか資料も、実は買ったんじゃなくて前まで仕事で使っていたものなんだ」

「そうだったの⁉」


 七海は声を弾ませながら手元のノートにメモを取り始める。


「なんで言ってくれなかったの?」

「お母さんに口止めされてたからさ」


 七海は納得して頷いた後、こう続けた。


「私、お父さんの映画、観てみたい」


 そんな七海の真っ直ぐな願いに、雄二は再び困った笑みを覗かせた。


「それはちょっと難しいかもなあ。お父さん、映画の監督じゃないから」

「そうなの?」


 七海が眉根を寄せて表情を曇らせた。


「お父さん、映画監督じゃないの? 何の映像なの?」


 当然の疑問だと雄二は唸る。しかし、まだ小学五年生の娘にそんなことを教えてもいいものか。雄二は酔いの回った頭で「んー、どうだかなあ」と考え込む。


「これもお母さんに言うなって言われてるんだよ」

「えー! お願い、お母さんには内緒にするから教えてよ!」


 小学生の『内緒』をどの程度信用していいのかは、雄二はよく知っているつもりだった。


 だが、彼は七海が本気で映画監督を目指していることも知っている。七海が今後、こちらの業界に羽ばたいていくつもりなら不適切であっても名前くらいは教えてあげるべきだろう。何よりも、それで生活をしている人も居る、立派な仕事なのだ。疚しいところはない。


 ――などと色々と考えたが、結局のところ、雄二は酔いが回って口を滑らせた。


「しょうがない。お母さんには内緒だぞ?」


 七海が元気よく頷くから、雄二はだらしなく笑いながら告げた。


「お父さんの仕事はな――」


 そうして父の口から出たその言葉を、七海は丁寧にノートに書き記した。




 思い返すと、自分も父もあまりにも説明が足りていなかった。今になって七海はそう考える。


 もしも七海が何のために質問をしているかを事細かに説明していれば、或いは雄二が中途半端に仕事の中身を伏せないで語っていれば、回避できた悲劇だろう。


 あの夜の内緒話から一週間後。


 小学五年生の教室の後方に、保護者が微笑ましそうな面持ちで並んでいた。その日は授業参観だった。授業の内容は国語で、直近数コマを費やして生徒達が書いた『家族の仕事』を題材とした作文の発表を目的としたものだ。担任が、成績が良く受け答えのしっかりしている生徒を何名かを選出して、その場で読ませるというもの。


 二人の優等生が作文を読み終えて場も温まった頃、満を持して七海が指名された。


 七海は意気揚々と立ち上がった。授業参観に両親が来ていないことは知っている。


 父は仕事。母には、父との約束があるから来ないでくれと頼んだ。無論、理由は伏せて。


 誰も家族は居ないが、それでも、自分の憧れた映像関係の仕事に父親が就いていると知った七海は、その詳しい仕事の内容は知らずとも、胸を張って、大勢の保護者が耳を傾けて静まり返る中、作文の一行目を読み上げた。




「私のお父さんは、AV監督です!」




 途端、騒然とする保護者達。疑問符を浮かべる同級生。顔を強張らせる担任。


 騒がしくなった教室に七海が顔を上げると同時、廊下を走ってきた何者かが慌てた様子で教室の扉を開ける。保護者の皆々様も顔を合わせたことくらいはある、薮崎七海の保護者。


 全身に色々な汗を浮かべた薮崎雄二だった。同情の眼差しが一斉に突き刺さり、それで概ねを理解した彼の顔に、深い絶望が浮かぶ。――七海がだいぶ後から聞いた話だが、彼はこの日、『授業参観がある事』『作文を読むこと』『母には来ないでくれと頼んだこと』、諸々を母親の口から聞かされて全てを察し、慌てて駆け付けてきたらしい。


 そうして、誰も止めることができぬまま、七海は無事に作文を最後まで読み終えた。


 翌日には『薮崎七海の父親がえっちな動画を撮っている』という事実が学年中に広まっていた。その話は当然のように中学校まで続き、高校に入学しても、同じ中学出身の生徒が吹聴したせいであっという間に拡散され、ついに消えることはなかった。


 周囲からの冗談や軽口が収まることはなく、事あるごとにその話題が上がるようになる。


 そしてそれは、七海が映画監督の夢を語った時にこそ顕著だった。


 夢を語る度、誰かの軽口が雪のように積もっていく。


 かくして、映画監督を志していた一人の少女は、その夢を誰かに語ることをしなくなった。そんな日々が続いて、いつしか、抱いた夢すら忘れていた。


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