雑踏ロンド

重なる。

言葉が重なって聞こえる。

早かったり、遅かったり。

今だけは時間が神様の手で

左右に揺さぶられているような気分だった。

偏頭痛と言うには脳内がごたつき、

大人数での談笑というには静かすぎた。

まるで森の奥深く、

1軒でいい、1人でいい、

人を、人ののいた痕跡を、

篭れる家を探しながら

歩き回っているようだった。

木々は常にざわめき、

陽はいつまでも登ってこない。

真っ暗な中足元はおぼつかず、

時折倒れている大木に行手を阻まれ、

細々とした蔦のような植物が

泥と共に足を絡める。


ぱき。

踏み出すごとに何かが折れるような音がする。

何かが割れるような音にも等しかった。


木々のざわめきがやがて

人の言葉となって降りかかる。

言語だと認識できてしまう。

何か言っている。

他愛のない話、褒められた話。

それ以上の罵詈雑言。

紙をくしゃくしゃに丸めては

もう戻らないように、

私がさっき踏み抜いた枝のようなものも

もう2度と元には戻らない。

元に戻るようにと

駆け寄ってつぎはぎしようとすらしなかった。

その時点で諦めていることに変わりはない。


服から植物の匂いが漂う。

右往左往しているうちに何度も転び、

やがて動けなくなった。

泥に座り込む。

元より足掻けば足掻くほど

引き摺り込まられる底なし沼だった。

猛獣が潜んでいるかもしれない。

それを乗り越えるためにも

近くにあるものを

ひっきりなしに掴もうと手を伸ばす。

空を切る。

何もつかめなかった。


やがて腰、胸と泥に浸っていく。

これなら早いうちに

靴を脱いで逃げるべきだった。

闇夜のせいで見えなかった、

そんなことを言い訳にして

確かにあった触感を無視した。

ざわめきのせいだ。

諦めたのも、優柔不断のまますぎたのも、

泥の中に入ってから足掻いたのだって

全て森が覆い隠すから。

夜とつるんで私を隠したせいだ。


やり直せやしないか。

幼ながらに切に願う。

近くにはかつて綺麗だったはずの花束が

日付を経て茶色く変化して

泥から離れた草の生い茂る陸に

ぽつんと置かれている。

刹那、理想と願いを

見事なまでに履き違えたのだと思い知った。


私がいたからこうなったのだ。

大切に抱えていたはずの鞄も

ずっと一緒だったぬいぐるみも

ここで捨て去って仕舞えばいい。

そう思っていた時。


森の奥の奥の奥深く。

決して届かない場所から

ぽ、と光が漏れ出した。





°°°°°





「おーい。」


古夏「…。」


額を、頬を淡く照らす。

視界が初めて呼吸をするように揺らぎ、

湿った目に乾燥の角がやってくる。


そこには髪をひとつにまとめて

パジャマからは着替えているものの

家からでなさそうな

ラフな格好をしているお姉ちゃんがいた。


茜「朝ごはんできたよ。」


古夏「…。」


上半身を起こすと

妹は起きたと見なしたようで、

お姉ちゃんは「先行ってるね」と

部屋から裸足の音を鳴らして

リビングへと向かった。

ゆっくり床に足をつける。

正面にある窓から光が漏れている。

珍しい。

晴れていた。


リビングに向かうと

既にお姉ちゃんはご飯に手をつけており、

お母さんはまだキッチンに立っていた。

「おはよう」とお母さんが言う。

私はそれにひとつ

頷きを返すだけだった。


食卓に出された目玉焼き。

それに箸を通す。

割れる。

魂のように漏れてゆく黄身が

今日見た夢を彷彿とさせた。


ほぼ毎日夢をみる。

そのほとんどが悪夢と呼ばれるものだった。

一昨日は何かに追いかけられる夢。

昨日は人が沢山死ぬ夢。

今日はまだありありと記憶に残っている、

小さな子供が近所のママを

たまたま不注意で殺しかける夢。

人が死ぬ、殺す以外の夢では

自分が闇屑になって消えたり、

現実味のあるものだと

認知症になり場所が飛ぶ夢も定期的にみる。

みるものがないらしい時は

決まって森の奥深くで1人

暴れて悲しんでいる気がする。


どうして夢をみるのだろう。

浅く眠っているから。

ならば、どうして悪夢をみるのだろう。

きっと何かしらのストレスが

かかり続けているから。


古夏「…。」


私が声を出せないことだって

ストレス性とされていた。


お皿を水に浸して部屋に戻る。

多くの時間を自分とお姉ちゃんの部屋で

静かに過ごしていた。

春休みも出かける用事がなければ

ずっと部屋に篭っている。

リビングにいることはなかった。

音が多く、人の話し声が多かった。

落ち着かない。

心のざわめきが不安を煽るせいで

自然のうちに人の少ない方へと

引き寄せられていった。


声を出せないことだってストレス性。

しかし、現状ストレスに思っていることを

挙げてみなさいといわれても

正直ぴんとこない。

学校でいじめられているわけではない。

声が出ないこともあり

特別教室のような別室登校を

する時も少なくない。

家庭環境が悪いわけでもない。

家族はいつだってリビングの

テレビの前で集まっておらず

各々好きな時間を過ごしているが、

これと言って喧嘩することはあまりない。

姉妹間で扱いの差があるわけでもなく、

勉強も特段困っていない。


古夏「…。」


丸いローテーブルを前に

潰れてきたクッションに座る。

物心つく前後には

既に声を失っていた記憶がある。

病気であれば納得ができるのだが

かれこれ10年前後にまで及ぶ。

話すこと自体は

もうとっくに諦めているけれど、

何がストレスなのかは知ってみたかった。

同時に知りたくなかった。

ストレスの根を知ってしまったら

その理由の浅さに失望するかもしれない、

容易に乗り越えて仕舞えば

それまでの人生を

潰してきた意味がまるでない。

自分が自分でなくなってしまうようで怖い。


部屋の扉が開く。

洗濯物の山を抱えたお姉ちゃんがいた。


茜「古夏、ちょっと手伝って。」


古夏「…。」


ひとつ頷く。

それを見ずとも妹は手伝ってくれると

踏んでいたのだろう、

その山をローテーブルの脇に置いた。


洗濯物も光に染まって

春の香りがするようだった。

眩い。

今カーテンを閉じれば

その仕事ぶりが窺える。


茜「明日から3年生だね。」


古夏「…。」


茜「お母さんがね、受験も就職も好きに選びなさいって。」


古夏「…。」


茜「今のところどうしたいとかあるの?」


手を止めて手話で

まだ迷っていることを伝える。

家族は手話を読むことはできた。

私のためだけに練習してくれた。

けれど後天的に声が出なくなり

耳は正常に聞こえているので

家族が手話て話すことはなかった。

お姉ちゃんは「そうだよね」と

服を1枚たたみ終えて手を休める。


茜「うちもそうだったし。なんなら受験なんて部活引退してから考え始めたからね。推薦?知らなかったよそんなもん。」


「それはどうかと思う」。

すると「うるさいなあ」と

お姉ちゃんは洗濯物の山を割った。

半分以上が私の方に積んである。

「部活楽しかった?」と聞けば

青春はやってきた、と言う。

お姉ちゃんは高校3年間陸上をした後

4年制の大学に進学、

今年から2年生になる。


茜「でも陸上がっつり3年間やってもう運動部は一旦休憩かな。それで大学生になってからは軽音始めたし。」


古夏「…。」


茜「いきなりベース買って帰ったら流石にお母さんびっくりしてたよね。あの顔今でも忘れらんない。」


相槌を打つ。

ベースを相談もなく

家に持ち帰ってきた時は私も驚いた。

気分が良くなったのか

服をいくつかたたみ終えたうち

私の方に積んであった山の半分を

引き受けてくれた。


茜「そういえばこの前から古夏の友達って言ってた子が塾に来たよ。」


古夏「…?」


茜「あの子、可愛い名前の。…陽奈ちゃんだっけ。」


古夏「…っ!」


茜「同い年なんだよね?」


首を縦に振る。

いつもより過剰に、大きく。


茜「そっか。どこか受験するんかな。」


古夏「…。」


そうなんだ、と短く息が漏れる。

陽奈ちゃんは前進している。

彼女は去年の梅雨時、

夏前の湿気った空気が蔓延する頃に

突如声が出なくなったと

時折私のように特別教室や保健室に

登校するようになった。

初めは自分と同じような

境遇の人に出会えるとは思わず驚いた。

続けて、それが陽奈ちゃんであることに驚いた。

陽奈ちゃんはかつて

何かしらのボランティアで

関わったことがあった。

それ以降、時折話しかけにきてくれて

気にかけてくれた。

行動の節々では自信なさげだけれど、

強い子だと思った。


そんな子が、声を亡くした。

手話は多少できるようだけれど、

全てを話せるほど得意ではないようで、

スマホや紙とペンを使用して

会話を試みているようだった。


彼女は必要に駆られて

話そうとしているようには見えなかった。

会話したくてしているように見えた。

その姿は、話すことを

諦めたかったのに

いやいや覚えて話していた自分とは

大違いだった。


声を失っても、

むしろ声を失ったほうが

より強い子だと思った。


進学も就職も考えられないと

自然と脳裏をよぎり、

洗濯物を畳む手が止まる。

1年後どころか半年後さえ

私は何をしているのだろう。


茜「うちはさ、本当に何者にもなれなかったけど、何者かになったことのある古夏なら大丈夫。また何にだってなれるよ。」


お姉ちゃんは服についた塵を

ゴミ箱に入れながらそう言った。


午後になると20℃を超えた。

外を歩くだけで汗ばむ季節になった。

何もする気が起きず

ベッドに寝転がる。

天井が一層無機質に感じた。


スマホを手に取って

ぼうっと眺める。

1年以上前、好きだった映画のことを

共有できる仲間が欲しくなり、

衝動的にTwitterのアカウントを作成した。

けれど、意識の内部が揺らぐたび

そのアカウントからは

距離が離れていった。

好きだったはずの映画だが、

見るたびに脳が締め付けられる気持ちがした。

意味もなく喉の奥が詰まった。

自然とツイートする回数は減る。

結局は言葉の海なのだ。

静かに見守るにも

いらない言葉も入ってきて、

好きなものだけに囲まれるには

外の世界は邪魔だと思う日もある。


映画で交わす会話は

楽しいはずだった。

何故だろう。

見れば見るほどわからなくなった。

楽しいはずが、負の感情とも言い難い

動揺がのそのそ歩いてくる。

それこそ、森が歩いてくるようで。


古夏「…っ!?」


刹那、スマホを放り投げていた。

幸いなことに布団に埋もれる。

が、画面はこちらを向いていた。


自分の顔、名前になっている。

フォローしていた人はほとんど外れている。

何を確認するまでもなく

咄嗟にその画面を消す。


古夏「…!…。」


明らかにおかしい。

見間違い…ではない。

変わっていた。

変わっていた。


声が。


…。


声が聞こえてくるようだった。


古夏「…。」


耳を塞ぐ。

一層人の声が近くなった気がする。

布団に潜る。

お姉ちゃんや誰かに

相談すべきだろうか。

相談すれば。


過去を辿るだけだろうか。


そうだ。

何も言わなければ良い。

現実でもネットでも。

何も言わなければ

何も知らなければ。

何もしなければそれは

ないことと一緒だ。

いずれ忘れる。

私がいたことすら忘れてもらえる。

時間は特効薬だから。


その日はスマホをつけることなく

布団の中で夜を過ごした。

羽毛布団で暑かったのに

得体の知れない何かのせいで

冷や汗が止まらなかった。

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