相互齟齬
彼方「…だる。」
朝起きてひと言目がそれだった。
というのも昼夜逆転の生活をしているせいで
午後に目が覚めると
その頃は既に暖かくなっていて
寝汗が気持ち悪くて仕方がないから。
寝転がったままスマホを見る。
ベッドが緩やかに軋む。
すると、眠る直前に意識朦朧ながら
LINEを返していた跡が残っていた。
いろは『ありがとう!じゃあ気ままに向かうね。』
よくわからない彼女特有の
顔文字をつけていて、
面倒くさくなってすぐに画面を消した。
裸足のままフローリングに足をつけ、
ベッドに腰掛けたまま深く息を吐く。
大きい窓から差し込む日差しが
怠さをさらに誘っている。
埃がきらきらと微細な光を
纏っているように散っていた。
木製のナイトテーブルの上に置かれた
家でしか使わないメガネをかけて
いつでも髪を纏められるようにと
髪ゴムを腕に巻く。
襟元や裾にレースの装飾がされた
丈の長い真っ白なネグリジェが
はだけているのをそのままに
自室の扉を開いた。
吹き抜けの2階は午後になっても
まだ光を取り入れていた。
1階から2階まで届く大きな窓のおかげで
温かみのある家とやらになっているのだろう。
数年前までは閉じ切っていたけれど、
最近ではなんとなく開くようになった。
1階に降りる時、不意にうち以外の声が
響いていることに気づく。
階段からリビングを覗くと、
窓の近くにあるガラス天板のローテーブルに
紙を広がっている。
L字型のソファには
弟の大地と昨日連絡をくれていた彼女、
いろはが座って話していた。
彼方「たーいち。」
大地「あ、姉ちゃん!」
大地は落ち着いた様子で
顔を上げて「おはよう」と言った。
中学3年生になった彼は
もう大人と言っても過言ではないほど
身長は伸びて顔つきは男の子らしくなった。
それでもまだ幼さの残る動作で
こちらに向かって小走りで来てくれた。
大地「西園寺さんが1時間くらい前に来てくれて、勉強を教えてもらってたんだ。」
彼方「そうだったの。進んだ?」
大地「うん、でもまだまだだから頑張らないと。」
彼方「大地はいい子ね。すごくいい子。」
頭を撫でる。
お風呂上がりなのかふわふわとした髪が
指に絡むようで春を感じた。
同じシャンプーを使っているはずなのに
何故か一層いい匂いがする。
制服に着替え終えていることを見るに
今日は学校だったろうかと疑問に思う。
彼方「学校?」
大地「うん。ちょっと勉強しに。受験生だし。」
彼方「お利口さんだね。頑張って。」
大地「うん。行ってきます。」
うちが起きるまで待っててくれたのだろう、
玄関先にはすでに荷物が置かれており
手を振って出発していった。
毎回、もしこれが最後の会話だったら
どうしようなんて思いがよぎる。
それほどまでに大地は
大切な存在他ならなかった。
いろは「朝から勉強しててすごいねー。」
彼方「でしょ。大地はうちと違って偉いから。」
いろは「弟さんのこと大好きだねー。」
彼方「そうだけど。んで、紅茶飲む?」
いろは「わ、いいの?」
いろはは嬉しそうに声を上げると
はっとして「つまらないものですが」と
前置きをした上で
クッキー菓子をキッチンまで
持ってきてくれた。
いろは「お邪魔してます。」
彼方「勝手ながら。」
いろは「昨日言質はとったからね。」
彼方「今更すぎない?好きに上がってよ。」
いろは「あー、どっかに鍵あるんだっけ?」
彼方「裏庭の花壇のとこ。重なったバケツの中にあるって。」
いろは「でも本人がいるなら変に驚かせたくないしなぁ。」
彼方「不法侵入ラッキーとか思わないんだ。」
いろは「私は思わないんだよね。」
「普通は」と言わず「私は」と言う
彼女には好感を持っていた。
彼女は主語を大きくして話すことは
あまりしなかった。
春休み、午後に起きて
来ていた友人に紅茶を入れて
適当なお皿にお菓子を並べる。
いろはにも手伝ってもらって机に置き終え
ソファに座るとまた眠気が襲ってきた。
元より眠気など撤退していなかったのだろう。
机の上には数学だろうか、
式が並べられている紙が目につく。
またこいつはコピー用紙を
持参してきたらしい。
彼方「大地に教えてたの?」
いろは「うん、少しだけ。」
彼方「また紙持ってきてんの無駄じゃない?」
いろは「コピー用紙なら常に持ち歩いてるからね。」
彼方「うちで買っとくよ。」
いろは「ううん。家にまだ1000枚くらいあるから消費させてよ。」
彼方「ありすぎ。何で?」
いろは「衝動買い。」
彼方「安く済むんだね、あんたの衝動。」
多くの人はここで「あ、うん」みたいな
1歩引いた反応をする。
いろはを試すようなつもりで口にすると
彼女は「大体600円くらいかなー」
「ポテチ5袋分くらい」と
机の上に散らばった紙をまとめ始めた。
いろは「見てみて、大地くんもう中学3年生の夏頃の内容は解けるようになってるよ。」
ほら、とまとめた紙を見せてくる。
それがどうにも気に入らなくて
彼女の手を叩くと、
びっくりしたのか途端に手を引っ込めた。
咄嗟に力を入れたのか
紙は散ることなく手におさまっている。
その時どうでもいいことに
ネグリジェがはだけていることを思い出し
ため息と共にそれを正す。
いろは「見ないの?」
彼方「見てもわかんないしいい。」
いろは「そんなことないと思うよー。2年前の内容のはずだし。」
彼方「あんたは1年、1ヶ月でどれだけ人間が忘れるのかわかって無さすぎる。」
いろは「えへへ、確かに。」
これあげるね、と
大地と彼女の文字はそのまま机に置かれた。
そこにうちの筆跡がなくて、
大地といろはしかいなかったことを
示すようなそれが気に入らなかった。
横にいる当の本人はけろっとしていて
別の用紙を取り出しては
シャーペンを握り動かし出した。
お菓子や紅茶にゴミが飛ばないようにと
手前で描いているのが見える。
邪魔そうなのが目についてそれらを
奥へとやると、集中力が切れたのか
珍しく彼女は顔を上げた。
彼方「ずらしなよ。」
いろは「ん?ああ、ありがとう。」
このやりとりも何度も行った。
それでも彼女は繰り返した。
忘れっぽいにも程があるのだ。
ある意味全く学ばず
ある意味全てが新鮮に映るのだろう。
近くにはいなかった感性と性格の持ち主で
一緒にいるにはあまりに奇妙な心地だった。
西園寺いろはとは
出会ってから1、2年経たかどうか。
大地が犬に噛まれて
腕を血みどろにしながら帰っていたところ
いろはが見つけ
そのままうちへ送り届けたのだ。
すぐに病院へと同行し何事もなく終えたのち、
1度ふらりと大地の様子を心配して
家まで顔を出してきた。
°°°°°
いろは「大丈夫そうならよかった。じゃあまたね。」
彼方「どっかいくの。」
いろは「うーん。探し中。どっかいいところないかなって。」
彼方「何それ徘徊じゃん。」
いろは「違うよ、絵を描きたいんだけど図書館でも家でも描きたくなくて。古書店みたいなところ探してたの。」
彼方「図書館と変わんないじゃん。」
いろは「わかってないなあ。」
彼方「新しい場所が欲しいだけなら上がっていいよ。本はないけど。」
いろは「え、本当に!」
°°°°°
本当は冗談のつもりだったけど
まさか受け入れるとは思わなくて
そのまま流されてあげた。
同じ学校でもなかったのに
彼女は家に居座るようになった。
気が向いたらきて、気が向いたら帰る。
自分の家かと思うほど
窓辺で寝転がって1日を終えたり
勝手にテレビをつけて
動画サイトに接続して音楽を流したり、
今思えばやりたい放題だ。
人間らしくない気ままさが
「私は人間と思わなくてもいいよ」と
言っているようで、
心置きなくそのままの自分でいれた。
絵が上手い人とは思えないほどに
紙をぐしゃぐしゃに塗りながら
顔をこちらに向けることなく彼女は放った。
いろは「そうそう、あの映画、私は好きだったよ。」
彼方「あの映画ってどれ、それに感想は好きってだけ?」
いろは「一昨日送ってくれたやつ。なんかねー、法的にいけないことでも感情的には正しいことをしてると思うんだよね、あれ。」
彼方「あーね。」
いろは「法律だからで片付けちゃ駄目な部分、他の普通の人なら苦渋の決断だろうと結果的に切り捨てるところを切り捨てなかった。一般的な人間より人を守れる人でもあるのかなって。」
彼方「わかる。うちとおんなじ意見でよかった。」
いろは「でも、その円の外の人はとことん蹴り落とす感じなのが、外側にいる見ているだけの私たちには嫌悪感なんだろうね。」
彼方「そこがいいんじゃん。」
いろは「それより。彼方ちゃんが人と同じでよかったって言うなんてー。」
彼方「何?」
いろは「人と同じ意見なんてごめんだね、とか言いそうなのに。」
彼方「人と一緒すぎるとキモいしくそだけど、円の内側の人と意見が合うくらいは人並みに、まぁ。」
いろは「なるほどー。」
彼方「っていうよりかは「人を傷つけるなんて」とか「こんな家庭ありえない」とか、「すぐに支援団体に」「ルールを守れないなんて人としてどうなのか」とか正論ぶちかましてくるやつじゃなくてよかったの方が正解。そういうやつが1番想像力が足りなくて無理。ぬくぬく温室育ちが正しいと勘違いしてる自分の考えを、偉大だと言わんばかりに押し付けてくる。さぞ気持ちいいことでしょうよ。」
いろは「まあね、同じような痛みを抱える同士でしか寄り添えないときもあるよねー。」
それはそうとして少し言い過ぎだね、と
いろはは顔を上げてすっきりとした
微笑みを浮かべて言っていた。
今年高校2年になるうちと
今年高校1年として
同じ学校に入るいろは。
年下のくせに文句やら説教やらしてきて
内心手が逆立ちそうになることはある。
何様のつもりで、と思うと同時に
今ここでこの人と離れるのは
惜しいと思ってしまう。
こうしてあってもなくてもいいような午後に
してもしなくてもいい話をして
時間を溶かすことは
嫌いじゃなかったから。
いろは「それとあれ、讃えて讃えてみたいな曲。」
彼方「ああ、昨日送ったやつだとラモーを讃えて?」
いろは「そう。あれね、いいね。」
彼方「あんたはいつもうっすい感想をジャブで入れるよね。」
いろは「まずはよかったことを伝えたくて。」
彼方「ドビュッシーはいいんだって。」
いろは「流石推し。」
彼方「んで?どう。」
いろは「私の感覚だとね、基本日曜日って感じしたよ。」
彼方「日曜日?」
いろは「そう。まず夢の中。起きて窓を開けてわっと広がる雲が見えて細々とした光を取り入れるの。それで外に出かけて、途中教会に寄ったのかなとか思ったりして。」
彼方「へえ、びっくり。」
いろは「どうして?」
彼方「全く違うから。あんたの解釈だと途中の強い不協和音っぽいところはどうなんの。」
いろは「うーん、あんまりそこは意識してなかったけど雨が降ったとか財布を落としたとか、何かしらのアクシデントって捉えるかな。最後はまた最初の方の…窓を開けたっぽいところと同じ音がくるからさ、結局同じように時間は回るって感じだと思うんだよ。」
彼方「それは共感。また戻る感じがね。」
いろは「彼方ちゃんは?」
彼方「躁鬱病の1ヶ月。」
いろは「あー。」
彼方「今日はなんでもできるって日と布団から1歩も動けない日があって、んで頭の中であれこれ言葉が勝手に交わされすぎるとしっちゃかめっちゃかになる。けど、どれほど無駄な時間を過ごそうと1日は過ぎてく。そんな解釈。」
いろは「なるほどね。」
彼方「考え方暗過ぎとか思ってんでしょ。」
いろは「いいや?全く。なるほどなあって。」
彼方「まんまじゃん。」
いろは「本当にそう思っただけなんだよね。そんな解釈もあったかーって。」
彼女は飽きたのかペンを止めると
机の上に転がした。
紅茶を吸う口飲んでから
体に悪そうなことに
すぐ窓辺に行き寝転んだ。
曇りが故微かながらの光となったが
それでもお腹の上に手を重ねて寝転がる彼女は
白雪姫のようなプリンセスにも見える。
いつもの2つ結びにされた髪ばかりは
雑に床に広がっている。
いろは「そう解釈できるのは自分がそれと同じ境遇もしくは似たような境遇を経験したから出てくる発想だと思うんだ。」
彼方「あながちそうでしょうね。」
いろは「本当にだめだってなった時何日も動けなくなるものなの?」
彼方「動けないし死ぬことしか考えらんないよ。」
いろは「ご飯は?お腹空かないの。」
彼方「寝てるだけだし空かない。空いてもだるくて嫌になる。てか寝ようと思っても寝れない。寝転がってるだけで頭は動いてんの。植物人間だけど意識ははっきりあるみたいな気持ち。最悪だよ。」
いろは「目を閉じてたらいつか眠れたりしないの?」
彼方「ずけずけとデリカシーのない。」
いろは「気になっちゃって。私も絵のことで相当迷ったことがあって全部投げ捨てたことがあるんだけど、それでもお腹は空くし眠かったから。」
彼方「病むことにもいろんなパターンがあるでしょうよ。先に心にガタがくるか、体にくるかの違いでしょ。」
いろは「そっかぁ…。いろいろ聞いてごめんね。」
彼方「あんたなら別に。」
その先を言わなかったけれど、
いろはは心地よさそうに笑みを浮かべて
そのまま一睡していた。
1人でいる間ソファにもたれて
何をするわけでもなく
短い動画を無意識にひたすら見た。
彼女がフローリングの上で
眠っているのをよそに
1人優雅にお風呂に浸かって戻ってきても
まだ死んだように眠っていた。
何もする気が起きないなと思っている間に
黄昏時が近づいてくる。
夜になる前に彼女はのそっと起き上がり
「帰んなきゃ」とのろのろ
帰る準備を始めた。
ついでにとテーブルの上にあったお皿を
下げるところまでしてくれる。
彼方「帰んの?」
いろは「うん。そろそろね。」
彼方「ふぅん。」
いろは「またね。お邪魔しました。」
眠たげな目を擦り
玄関から遠のく彼女の姿。
毎回惜しげもなく家を出ていくせいで
鍵を閉めるのが少し遅れる。
彼方「…。」
この家はどうにも広すぎる。
1人になって一層実感した。
家なんて小さくていい。
でかけりゃいいってもんじゃない。
大きくたって人がいなきゃ
ただただ寂しい牢獄でしかない。
仕方なしに大地との2人の生活が始まって
早もう何年かになるらしい。
彼方「…はーあ。」
ソファに寝転ぶ。
大窓のカーテンが閉まるようスイッチを押すと
室内の電気を落としていたせいで
思っている以上に真っ暗になる。
目が悪くなると知りながら
その中でスマホの光を注ぐと
何やらTwitterがひどくうるさいことに気づいた。
彼方「…!」
見てみれば、勝手にアイコンは
自分の顔に変わっており、
本名だって晒されていた。
どうしてと思い
フォロワーに聞こうとしたら、
うちがフォローしていた人は
ほぼ全員解除されていた。
そこには、藍崎七、羽元詩柚に
高田湊、津森一叶の4人の名前。
彼方「……は?」
納得できない。
まず初めに思ったのはそれだった。
まず、あまりに知り合いが多すぎること。
まどろっこしいが
元彼の元カノだった藍崎七に
修学旅行で同じ班にさせられた高田湊。
津森一叶は言わずもがな。
そもそもどうしてこいつもいるのか
てんでわけがわからなかった。
知り合いのTwitterを見ると、
1日に1人こうして巻き込まれていて
どうやら最終的に9人になるらしい。
その5人目、とのことだった。
彼方「……だる。」
日常は面白くない。
生活も糞。
それでも変化を求めて日々生きてない。
こんなのいらない。
いらない。
そう思ったとしても自然のうちに
巻き込まれていくものなのだろう。
不意にぞく、と背筋が震えた。
今とは正反対に
生活が苦しくて苦しくて
自分を切り捨てて成り立たせていたあの時と、
抜け出したくても延々と抜け出せず
長い長い廊下を走り続けさせられているような
あの時のことを思い出す。
あぁ、救われたさ。
救われたけど考えられないくらい苦しかった。
けれどうちの根底は変わってない。
大地が無事であって
そして不便なく暮らしていけたらそれでいい。
彼方「……。」
それが守られるのなら
うちはどうなったっていい。
彼方「…嫌すぎ、キモ。」
子供のような言葉を吐く。
それでもまだ夜の帳は下ろされたばかりだった。
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