第4話 小さな竜の子は夢をみていない(後編)

 金網に魚が乗って火にあぶられていくのを、来羽と宵月は椅子に座って囲んで眺めていた。

 マナカは折りたたみの小さなテーブルにコップを置いてお茶の用意をしている。

「今朝の漁獲はなかなかのものだったんだよ。見せたかったくらい。漁師の皆もいつになく笑顔になっててね、作業を手伝う私もにこにこなんだ」

「マナカさんも船に乗って海に出るんですか?」

 という宵月の質問に、

「私は留守番していて、船が帰ってきてからが本番かな」

 ちらりと目を向けて答えるマナカ。三つのコップにお茶を注ぎ終えると、自らも椅子に腰かけた。

「家が元々漁業の仕事でね、学校を卒業してから私も本格的に手伝ってるんだよ。体力仕事だけど、幼い頃からずっと見てきていて慣れてるし、親からも望まれてたらじゃあやるかなみたいな」

「愛着みたいなのがあるんですか?」

「そうだね。愛って言葉は言い過ぎかもだけど、この仕事は自分と親しい関係って感じ」

 親しい関係。来羽は話を聞きながら自問していた。

(あまり考えたことなかったのだ)

 果たして自分は、竜として海の底にいて人間から崇められる役目に、愛着のようなものを感じているのだろうか。

 感じているといったら多分嘘になる。

 そんなことを思いながら、マナカと宵月の会話を聞いている。

「天職なんて存在しないと思ってるけど、頑張りに見合うリターンの多く得られる仕事をしたいな。それが例えば、お金でも、やりがいでも、人間関係でも職場環境でも何でもいいけど」

 マナカは焼いている魚を箸で裏返して、

「ところで二人は旅行中とか? 社会勉強?」

 正面から聞かれた宵月は、少し目線を来羽に向けた。

「勉強というとそうかもです。お出かけして、もっといろんなことを知りたくて。人間のこととか、あと、おいしい食べ物のことか」

「若いのに偉いね。でもこの魚を食べ終わったら、親御さんのところには早く戻ってあげてね。心配してると思うし」

(そっか、わたしたちは幼い子どもの見た目なんだったのだ)

 来羽は妙に納得していた。今日のここまでの道のりを思い返して、その行動の一つ一つがまるで成っていない未成熟な子ども、そんなようにも思えてきた。

 途端に恥ずかしくなってきて、縮こまってしまう。

「ああ、魚もいい感じかな。紙皿にとるね」

 マナカが金網から魚を取って、皿に乗せた。箸を添えてテーブルに置く。

 来羽と宵月は「いただきます」と言い、焼き跡のある魚の身をほぐし始めた。

 口に入れると、熱くてふわりとした食感。そのかおりも心を解いていくような優しさがあって、来羽は心がじーんとした。

「食べながらでいいんだけど、この海には、守り神みたいな存在がいるみたいでね。私たちは長い時代ずっと見守られているんだ」

 来羽はむせた。

「だ、大丈夫?」

「へ、へへ平気です。何だか素敵な話だなって思って」

「うん。私たち漁業の信仰、というと大げさだけど、日々の心の支えになってるんだよ。それで定期的に町でお祭りをしたりしてる」

「う、うぅ……」

「感謝の気持ちは忘れちゃいけないなって。本当に神様がいるかどうかはともかく、もしもいたらって思うことで勇気にもなるから。こんな話も、二人がこの社会を知る勉強になるかなって思って話してみた」

 そう言い終えたマナカは、はにかんだ。

 来羽は言い得ない感情があふれてきていた。

(認められたのかも、わたしが今までしてきたことが)

 海底にひたすらじっとしていて、たまに人間に眠りを邪魔される、あの煩わしい思いばかりの役目が全て報われたような、そんな喜びが湧き上がる。

「ありがとうございます……教えてくれて! とても勉強になりました!」

「そう? よかった」

 マナカはきょとんとしていたけれど、不意に空を見上げて、

「そろそろ私、休憩も終わりだ。二人もごめんだけど急いで魚食べてね」

 日の傾きは始まって間もない頃合い。

 マナカには午後にも仕事があるのだろう。

 来羽と宵月はきれいに魚を食べ終わると、

「おいしかったです! ありがとうございました」

 二人して勢いよくお辞儀をした。

「いいよ。また遊びに来てね」

 マナカはテーブルの上を片づけ、椅子をまとめて担ぎ、にっと笑顔を向けると建物の奥へと歩いて行った。

 その背中を見送って。

 宵月は満たされた表情でお腹をさすった。

「いい人間だったね」

「優しい人だったのだ」

「おいしいものも食べられた」

「ものすごく感動したのだ。自分が海の底でしていたことには意味があったんだなって思って……」

「うん」

 来羽は体を震わせる。打ち震えていた。

 そんな来羽の手を、宵月はそっと握った。

 宵月もきっと同じ気持ちだったのだ。



 来羽と宵月は港を出てから、陸と海の境目に沿って歩いていた。

 日はまだ高いけれど肌をなでる風は涼しくて、このお出かけも終わりの時間を思わせて、来羽は寂しい気持ちを否定できなかった。望んだ外出とは言い難かった来羽は、しかし潮風に髪を揺らめかせるこの瞬間すら愛おしさを感じるようになっていた。

「ちょっとだけ、人間をいいなと思ったというか、受け入れられそうな感じなのだ」

 ふと浮かび上がったかのような来羽の独白に、隣を歩く宵月は頷いて、

「そうだね。私も同じ気持ち。不思議な心地よさでいっぱい!」

「勝手な想像だけで誤解してたのかも」

「実際に会ってみないと分からないことあるんだなって、マナカさんと話していてそう思ったよ」

 足取りも軽やかだった。

 海沿いのきっちり舗装された道を二人は浮足立ったように進んでいた。

 住宅もお店も減って寂れているけれど、妙に地の固まっている道。

 二人のにこやかな表情は、遠目で見えてきたそれによって、次第に曇り始めた。

「宵月ちゃん、あれって何なのだ……?」

 聞かれた宵月も、答えられない。

「なんだろ……変に殺風景なところに建つ何かの作業場かな」

「工場かも?」

 そう意識し始めると、鼻先に錆びついたようなにおいが漂ってくるような、そんな気がしてくるのだ。

 さらに歩を進めると、道脇にしっかりとした土台の立て看板が目に入った。

 宵月が顔を近づけて読む。

「『この先は関係者以外立ち入り禁止』だって。やっぱり何かの工場があるんだね。作業員しか出入りできない場所みたい」

「そうなのだ? 何を作ってるんだろ」

「海に近いから造船とかかも」

 そこで不意に声がかかった。

「ここで製造しているのは、海底調査の機械だよ」

 来羽と宵月が顔を上げると、件の工場から若い男性が見えた。無骨な風貌の彼は、荷台のついた一輪車を押してゆっくりとやってきた。

 思わず体が固まってしまう二人に、

「ごめん、驚かすつもりはなかった。俺はこれから港まで軽食を取りに行くところなんだ。一番の下っ端なんでね」

 そう言ってから、続けて、

「名前はコウ。こんな汚れた作業服を着ているが、決して怪しい奴じゃない。お二人は工場で働いているどなたかのお子さんとかかな?」

 コウの声音に優しさはなかったけれど、話しぶりは実に穏やかだった。相手が聞き取りやすいように努めているのだろう、ゆっくりと確実な喋り方をした。

 宵月が姿勢を正してぺこりとやや頭を下げ、

「すみません、遠出であちこち散策していて、ここまで迷い込んできてしまって」

 そして硬直中の来羽の分も一緒に名乗った。

「宵月さんと来羽さん。こんな小さいのにしっかりしてて偉いな。俺がそれくらいの年の頃は、昼寝と遊びと悪戯しかしないガキだったからなあ……」

 コウが一輪車を地につけて、頭をかいた。

 その小休止に来羽がようやく動けるようになった。

 とても不穏な事柄を耳にしたことが、あまりにも衝撃的だったのだ。

 だから来羽は、怖いけれど聞かなければならない。

「あの、工場では何を作っているとおっしゃいましたか……?」

「海底を調査するための機械さ。まだまだ試作段階だけど」

「ぅ……っ」

 声が出なくなった、それどころか来羽は息ができなくなったかと思ったくらいだ。

(まさか、ほんとなのだ?)

 自分を苦しめているものを作っているだなんて。

 言葉を失った来羽の代わりに宵月がおそるおそる言葉を継いだ。

「ちなみに、海底調査の理由をお聞きしても、いいですか?」

「未知の探求っていうのがお題目だな。人間が未踏の地へと探検調査に赴く、それと同様のことが大海原にも始まっているんだ」

「そ、そうなんですか」

「俺はあんま乗り気じゃないけどな。先祖代々、海と共に育った俺らからすると、海は恵みの海なわけで、そのまま大切にしておきたい。本音はな」

「と、いうと」

「仕事がないと生きていけないんだ。俺は兄弟の末っ子でな、海で生計が立てられなくなったら困るって家の事情で、工場へ追いやられたんだ」

 コウは大きく息をはいた。

「まあなんだかんだ、この仕事自体は嫌いじゃないからいいんだ。製造目的は気が進まないが、そんなわがままをいちいち言ってたら何もできないしな」

(もう、何も言わないで)

 耳をふさぎたい。

(ダメ)

 世界がひっくり返るような感覚。

(ダメかも)

 そう思ったら、ダメになった。

 来羽は震え出した。

 小刻みがだんだんと激しくなっていって、止まらない。

 来羽の心がどくんどくんと叩くような鼓動を始めた。それがすごく痛い。胸の辺りを手で押さえるけれど、心は体の内側にあって何の意味も持たない。

 来羽は自分を取り囲む空気が、四方八方から刃を向けてきているような、追い詰められた気分になっている。

(視界が)

「来羽ちゃん! 分かる⁉ 私が分かる? 宵月だよ‼」

「――」

「こは……ちゃん! きこ……てる⁉ ……っ、……」

 気づけば、来羽はひとりだった。

 縋るものもなく、守られていない、孤独に小さく丸まっている幼い竜だった。



 そのあと、来羽が意識を取り戻したのは港で、風の通りがよい日陰だった。

 何かを胸に抱えるように体を丸めて眠っていた。

 来羽が目覚めて最初にしたのは、自分が竜か人間かどちらになっているかの確認だった。

(よかった、人間の姿なのだ)

 来羽が体を起こすと、そばに腰かけ海を眺めている宵月がいた。

 衣擦れの音に、宵月はすぐ気づいた。

「来羽ちゃん! よかった、本当にどうしようかと思って、と、とにかくまず、体の具合は大丈夫⁉」

「うん、なんとか」

「ふらふらして倒れちゃったんだよ! 怪我もしてないよね、痛いところとかない?」

「大丈夫、なのだ。どうやって、ここまで来たの?」

「コウさんが、来羽ちゃんを荷台に乗せて運んできてくれて、そのあとをマナカさんに引き継いでね、ここで休ませてもらってるんだ!」

 ちょっとマナカさんに報告してくると言って、宵月は建物内に駆けていった。

 港に打ち寄せる波の音が、不思議と自然に耳まで届く。長らく聴力が衰えていたかのような感覚だ。

 来羽はあのつらかった瞬間、竜に戻った気がしていた。

 でも、そのことに触れられていないということは、ただの心理的な動揺に襲われただけで人間のまま倒れたのかもしれない。

 間もなくして宵月とマナカがやってきた。

 マナカは水の入ったコップを手渡ししてきて、

「すぐに目を覚ましてよかったよ。今日はいい天気で日射しも強かったから日射病かもしれない。一応、もう少し休んでいてね」

 心配そうな微笑みを向けてきた。

 迷惑をかけてしまったことを、来羽は痛みとして心に感じた。きゅうっと上から押し込められるような痛痒感だ。

「マナカさん、ありがとうございます。いろいろご迷惑を……」

「全然気にしないで。この近辺では暑さにやられる人はわりといるんだよ。私もあらかじめ注意喚起をしておくべきだったなって反省してる」

 申し訳なさそうに頭を下げるマナカに、来羽は恐縮しかなかった。

 宵月は目線を来羽に向けてまばたきを繰り返してから、マナカに向き直った。

「お仕事中に駆けつけてくださってありがとうございました」

「いいよ。といってもすぐに戻らなきゃだから、ここでお別れかな」

 マナカは苦笑いして、

「来羽ちゃんが寝ていた下のシートは丸めてから玄関口に置いておいてね。それじゃ、ごめんだけど仕事に戻るよ。また遊びに来たときは声をかけてね!」

 にっと笑い、手を小さく振ってから、マナカは建物へと走っていった。

 風情も何もないお別れに、来羽と宵月はお辞儀を繰り返すことしかできなかった。

 シートにお尻をつけたまま、来羽は空を見上げる。調子を崩したあのときと比べ、太陽は傾きを増していて、建物に遮られて生まれる影もその範囲を広めていた。

(もうそろそろ帰り時なのかも)

 でも、来羽は心の落ち着きがまだ万全ではなかった。

「ね、宵月ちゃん。わたし、竜になってたのだ……?」

「ほんのちょっとの間だけ……。ただ、コウさんはその瞬間を見てなかったみたい。あの人間はその一瞬、うつむいてため息ついてたから、だからたぶん大丈夫だよ。気づかれてないよ」

「それなら、いいのだ。宵月ちゃん、あの、ごめんね」

「いいって! 波乱も思い出だよ。来羽ちゃんはすごくつらかったと思うけど、私に関してはたくさんの充実感を得られたお出かけだったよ」

 宵月が明るい声で伝えてくるたびに、来羽はかえって胸が苦しいのだ。

 だから、もうこれでこのことはおしまいにしようと思った。

 来羽はそろそろと立ち上がった。体が長い硬直から解けたばかりのような、ぎくしゃくとした動きになってしまった。

 まだ立てることが、自分としては不思議なくらいだ。

 宵月はその様子を見守っていたけれど、おそらく大丈夫だと踏んだようだ。

「じゃあ、帰る時間にする?」

「うん」

「来た道を戻ろう。この服も返さないといけないし」

「うん」

「ん……」

 シートを片づけ、帰路に就く二人。

 海辺と港をとぼとぼと離れて。

 品ぞろえ豊かなお店を横目に過ぎ去り。

 子どものいなくなった公園には目もくれず。

 やや上り坂となる住宅地まで戻ってきた。

 その間、会話は生まれなかった。寿命の迫る灯火のように二人は歩いた。

 そして朝に訪れた物置に舞い戻ってきた。

「服、汚れちゃったのだ。せっかく綺麗にして干してあったのを、勝手に持ち出したりして、わたしは何をしてしまったんだろうって思うのだ」

「自分のことしか考えてなかった。身勝手なことをしたね……」

「謝りたいけど、それをすることが、わたしにはどうしてもできないのだ。怖くて。人間が怖くて」

 来羽は震えがぶり返してきた。

 取り付く島がどこにもなくなったかのような、強烈な心細さ。

 そして、先ほどとは違う結果が出た。

 来羽は竜へと戻ったのだ。

「人間化が、解けたのだ。薬の効果が切れたのかも」

 着ていた服が、体の変化と共に全部脱げて地面に落ちた。

 こうしてみると最終的に、服は汚れ切ってしまう運命だったかのようだ。

 来羽は竜の手で衣服を掴みつつも、言葉が何も思い浮かばなくなっていた。もはや自分にできることは、この人里には残されていないのだ。

 まだ人間を保った宵月が、自分の着用していた服と一緒に来羽の分の服を拾い上げて不器用にたたんでいく。

「きっと今が、魔法が解ける瞬間だね」

「薬をのんで使えるようになる魔法って、ちょっとイヤなのだ」

「でも薬を作った長老は喜びそう」

 来羽と宵月は顔を合わせ、くすくすと笑い合った。

 ほどなくして宵月も体を竜へと変えていく。

 たたみ終えた服を返しに行くこともできなくなった。せめてもの思いで、物置の狭いひさしの下にそっと寄せて置く。

 竜と人間とでは、できることとできないことがまるで違っていて。お互いを分かつものは大きかった。

「きっと、ずっと思い知らされてたのだ。人間になってみることに、意味なんてなくて……」

 来羽のそっと呟いた言葉が、夕焼け空に浮かび上がって消えていった。

 来羽と宵月は、山林地を竜の姿で器用に低空飛行し、朝方に訪れた崖下まであっという間にたどり着く。

 ひと時のお別れだ。

「宵月ちゃん、今日はありがとう! じゃ、またねなのだ」

「うん! 会えて、お出かけできて、盛りだくさんな日だったよ! また今度ね」

 宵月が山奥へ向けて浮かび上がり、来羽は海の中へと下りていく。



 この日ばかりは、来羽も宵月も、アーカイブのどこにも姿を見せなかった。

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