第3話 小さな竜の子は夢をみていない(前編)
〈アーカイブ〉シーサイドカフェテリア
【宵月】
まずここで薬をのみます
【来羽】
のみます
【宵月】
作用が効いて心が人間になるまでの経過時間内に人里近い山林に移動します
【来羽】
します
【宵月】
大丈夫そ?
せーのでのむよ
せーの
【来羽】
のんだ!
【宵月】
私も!
【宵月】
行くよ!
【来羽】
おけ
何か気配がする。
ずっと気になっていたけれど、お出かけという重要な用事があるので頑張って無視して寝ていた。
アーカイブで待ち合わせを終えた来羽が、目覚めて即座にしたことは体をぴんと伸ばすことだった。
頭から首、長い背を通して尾の先まで、なだらかな曲線が描かれていく。
来羽はうろこがきしむ音を久しぶりに聞いた。
日の出から日没までの時間くらいは平気で身動きもしない来羽だから、その小さな体はほとんど固まっている。
(宵月ちゃん、どれくらいで来るかな。というか本当に待ってて大丈夫かな。わたしも秒で出られるようにしとかないとなのだ)
来羽は一度大きく口を開けた。
妙な気配が邪魔をしたせいで眠りが足りていないのだ。
(先代にはあのあと連絡しておいたから大丈夫だとして、わたしの今日がいったいどうなるか不安でしかないのだ)
来羽が海中とを遮る膜に顔を寄せていると、
「来羽ちゃん! 来たよ」
「え、……あ!」
「背後を取られるとは来羽ちゃん油断しすぎ!」
すぐ後ろから底抜けに明るい宵月の声が飛んできた。
「どこから入って来たのだ!」
「くふふ、よく眠ってたもんね! 寝入る来羽ちゃんの隙を狙って、夜中に私がこっそりと忍び込んでいたことを」
「なんでそんなことしたの! せめて起こしてほしかったのだ! じゃ、じゃあ同じ場所からアーカイブに入ってたってこと?」
「そだよ」
あっけらかんと言う宵月。
来羽は心がどくどくするのを感じた。ものすごく驚いたからだ。
でも、そんな宵月のことがたまらなく愛しく感じられた。来羽にとって、世界で一番大好きな親友だから。
「宵月ちゃん、おはよなのだ」
「おはよー来羽ちゃん」
「人のいるところってどこを目指すの?」
「まずは私の住処の近くに行こうよ! 土地勘はあんまないけど興味は山のようにあるからさ、来羽ちゃんといろいろ見て回りたいんだー」
「わかったのだ!」
「一緒においしいもの食べようね」
「うん!」
宵月がドームの膜から海側へと手を差し込む。するとその肌が白銀のように輝いた。
まるでコーティングがされているものを水中に入れたときのように。
環境から体を守ってくれるベールだ。
宵月は体躯が海に包まれると来羽のほうを向いた。笑むように目を細めると、すっと手を差し出した。
来羽はその手をそっと掴む。
するとそのまま、ぐいっと海中へ引っ張り込まれた。
(ああ、緊張するのだ)
宵月の強引なやり方がいつだって好きだ。触れ合っている手には委ねられる確かさがあった。
(人間っていうと、いつも周りで騒がしい迷惑なやつら……だけど、実際はどんななのかなって思うのだ)
来羽は結ばれた手をぎゅっと握った。
(ドキドキするのだ)
高鳴る気持ちを表すように浮上を加速させて、ついに海を飛び出した。
*
人目を避けて急峻な崖下へ着いた来羽と宵月は、お互いをまじまじと見つめ合っていた。
体の調子がおかしいのだった。
「何だかむずむずするんだけど、これが薬の効果なのかなあ」
「ちょっと浮足立つような感覚なのだ」
「悪くはないし、少し待ってみる?」
「ん……この場所はアレかもなのだ。とりあえずどうやって崖を上るのだ……」
「確かにねえ。人になっちゃう前に移動しよう」
「うん」
ふわりと浮かび上がる宵月。
それに続こうとした来羽だったけれど、姿勢を保てずふらふらしている。
右へ左へと揺れ動きながらもなんとか上昇し、崖の上の草地を踏みしめることができた。
来羽はへとへとだった。
「飛ぶってこんなに難しかったかなって思ってるのだ」
自信をなくして肩を落とす来羽。
しょぼんとした瞳で辺りをぐるりと見回す。
周りは雑木林といったふうで、人気は全くない。緑の木々のざわめきと、鳥の甲高い鳴き声と、切り立った崖に強くぶつかる波音が混ざり合っている。
(人里までは遠そうなのだ)
宵月がそばに寄ってきて、来羽の肩に触れた。
「来羽ちゃん……」
「何なのだ?」
「に、人間になってきてるよ……!」
来羽はきょとんとした。
ひとしきり目をぱちくりさせたあと、自らの足を見て、次いで両手を見つめ、最後に宵月に目を合わせた。
「なってるのだ!」
「ははあ、人間は服が必要なのか……」
「ど、どうするの?」
一糸まとわぬ幼い女の子姿の来羽は、自身の体をぺたぺたと触っては慌てふためいている。
そんな来羽を見ていて、まだ竜の体を保った宵月は周囲をきょろきょろし出し、
「こ、この辺りは私の住処付近だから、人も住んでないしなあ」
「このままじゃ、裸の女の子が二人で迷子になってる構図になっちゃうのだ……」
「とにかく何か着ないとダメなんだけど」
「そういえば宵月ちゃんの住んでる所って、そこまで人里離れてないんじゃ……?」
「そうだけど、買いに行くには時間が足りなさすぎるよ」
「どうしよう……」
来羽は内股になり両手で体を抱くようにしている。
「このままじゃ寒くてつらいのだ! ここは緊急的にどこかで拝借するのだ」
うるんだ目で来羽は訴えかけた。
宵月もほかによい策が思い浮かばない、どころか自分もゆっくりと人間になろうとしている最中だった。
「わかった。人が住んでそうな辺りまで行こー」
宵月が手を伸ばし、来羽の手を握る。
もう二人は人間だった。
林を分け入るように進む。素足で尖った小石を踏んでは悲鳴を上げ、生い茂る草の擦れる音にびくつきながら、山間の獣道を下っていく順路を取った。
誰にも見つからないようにして。
日が高くなり始めた頃、足元に注意して歩き続けていた来羽が立ち止まった。
「ね、宵月ちゃん。これ人間の足跡じゃないかな」
すぐ隣で人影に気を付けながら歩く宵月も下に目を向けた。しゃがみ込んでまじまじと見る。
「ぬかるみを踏んだ靴跡みたいだね。少し前にこの近くにいたのかも」
「じゃ、これをたどればいいのだ……?」
「もうすぐのところまで来てるのかも!」
その靴跡は小さく、子どもか女性かおおよそ小柄な人物と予想がついた。
「急ぐよ!」
「早く、早く!」
はやる気持ちから自然と早足になっていく二人。
が、焦りすぎてしまった。
「あ――」
来羽は地面からせり出していた太い根に足を引っかけてしまった。体が傾げていく。
手を繋いでいた宵月も巻き添えを食ってしまい、二人一緒に前のめりに倒れ込んでしまった。
「痛すぎるのだ……」
「裸だからね……」
涙目になりながら来羽は這うような姿勢から泥と草のついた頭を上げた。
前を見た。
首をかしげ、目を少し細め、そして気づいた。
「よ、宵月ちゃん! 林の終わりが見えるよ!」
「どこ?」
「かがむと足跡の続きが見えて、ちゃんと舗装された道へたどってるのだ!」
宵月も隣で顔を並べて、しっかりと確かめて、
「ほんとだ! よかったあ……!」
転んだ痛みでしかめていた表情をやわらげた。
二人はかさこそと草木をかき分けて慎重に進み、踏み固められた土の舗装道の物陰についた。
この格好を誰にも見つかってはいけないのだ。
物陰を出たら大木の陰に潜み、流れるようにして次へ。
そうして最後に隠れた場所は、年季の入った物置だった。間違いなく人の手による建造物だ。
「ああ、人里に下りてきたんだ……なんというか感慨深いよ、私」
「宵月ちゃん、声を潜めてほしいのだ……っ」
宵月が少し声を震わせていた。
(きっと宵月ちゃんは長年の興味を果たせるときが来ていて嬉しいんだろうな……)
竜たちはその姿を人間に姿を見られることが禁忌であるために、行動をなるべく控えて鎮座していなければならなかったのだ。
「ごめんね来羽ちゃん。ちょっと感動してた」
「うん。わかってるのだ」
宵月は周囲に目を走らせて、
「この近くに家があって、そこで服をせしめるってことだね」
「上手くいくといいけど」
「とにかくこっそりと見て回ろう」
二人は物置の反対側にじりじりと移動する。
そこで目にしたのはすぐそばと遠くに橋渡しされた細い棒と、そこに並んで干されている衣服だった。
来羽と宵月は黙ったまま顔を合わせた。
隣接する家屋に人影はない。
無言のまま同時に頷くと、人の気配に注意を向けつつ、風にふわりとたなびく服の回収を始めた。
心に迫る罪悪を覚えながら。
見つからないように、気づかれないように。
縁側に並ぶサンダルも一緒に持っていく。
そうして再び物置の陰へと帰還し、目的を達成した二人は浮かない顔をしていた。
「仕方なかったのだ、たぶん」
「あとでちゃんと返しに来ようね」
来羽と宵月は手に入れた服を早速着こむ。半乾きの大きなシャツにだぼっとしたズボン。着慣れていないうえにサイズが合ってなくて不格好だった。
でも人心地がついた、と来羽は思った。
これで二人は大手を振って道を歩けるのだった。
並び立つ緑の木々と、ちらほらと点在する家々の緩やかな坂道。
ぐんぐんと足を踏み出していく宵月に、少し覚束ない足取りの来羽が歩いている。傍目からは姉妹に見えないこともなかった。
道を行く二人の脇を、人間がすれ違っていく。
「よ、宵月ちゃん……、こ、こわ怖いのだ」
来羽の消え入りそうな弱々しい声に、前を進む宵月はくるりと振り向いた。
宵月は大きな瞳でこちらを見やると、にぱっと笑顔になった。
「もうずっと、すごくわくわくしてるの! 来羽ちゃんもおどおどしてると損だよ」
駆け寄ってきて、
「ほらっ」
と震える来羽の手を握った。宵月の柔らかい手は温かな熱でしっとりしていた。
そんな二人を、前方から歩いて来た人間がちらりと見ては過ぎ去っていく。
「堂々としていないと逆に怪しく見えちゃうよ?」
「そ、そうなのだ?」
「うん。だからほら、私たちは何しに来たんだったっけ?」
来羽は目をぱちくりしたあと、
「おいしいものを食べる」
「そ!」
「そういえばお腹空いたのだ」
「うんうん。ご飯を求めてもう少し歩くよ!」
手を引いていく宵月に連れられて、来羽はおそるおそるの気持ちで歩き出すのだ。
ここはまだ住宅の多い地域のようだ。
いわゆる店構えをしている建物は、あるのかないのか二人には判断ができなかった。時は正午前。どこからか現れては去っていく人間の行き来だけが目に入る。
おいしいにおいはまだしてこない。
また少し歩いて、なだらかになっていた坂道が終わった。
来羽も余裕がだんだん出てきた。右を眺めてみて、左をチラ見してみて、
「公園があるのだ」
と、隣の宵月に声をかけた。
視線の先には、十代に満たない子どもたちが追いかけっこをしていた。仲間内で飛び交うその元気な声が空に響いている。
来羽は立ち止まると興味津々に見つめ出した。
宵月も並んでじっと見る。
「子どもたちが遊んでるねー。背丈は私たちよりも若干大きめかな」
「……思ったんだけど、わたしたちの格好、かなりみすぼらしい感じかもなのだ」
「こうして比較すると確かにそうかもねー……」
「この服、どうしたらいいんだろ」
来羽は体をくねらせては自分が着ている服をじっくり見下ろしていく。
シャツのえりが広くて肩先が見え隠れする首元、ズボンの裾を何度も折り合わせて何とか体裁を保つ膝下。サンダルは散歩にも履かないような安っぽい代物。
「うーん」
目を細めて思案げにうなる来羽。
宵月も傍で首をかしげていて、そこで気づいた。
「というか私たち、お金持ってなくない?」
棒立ちの二人の間を涼しい風が駆け抜けていった。
「も」
「も?」
「もうダメなのだー!」
来羽は天を見上げ、慟哭した。
公園を駆けずり回る子どもたちがそろって動きを止め、ふっとこちらを見た。道行く大人たちも通り際に目を向けた。
来羽は周囲の人間たちの目を集めてしまっている。突然騒がしくなった女の子を、奇異なものを見るかのような視線だ。
来羽は遅れてそれに気づく。
「あ! ああ、いや、えと、何でもない!」
「こ、来羽ちゃん、歩きながら作戦会議でもしよ?」
「う、うんっ!」
(完全に失敗したのだ……ここは気ままなアーカイブじゃなかったのに。穴があったら入りたいのだ……)
辺りに渦巻きだした不審を振り払うようにして、二人は歩みを再開させた。
広くない通りの端を来羽と宵月はのろのろと進んでいく。
お金がないというのは実に由々しき事態だというのが目下の議題だ。
服はおろか、お腹が空いても食べ物を買えない。おいしいものを食べたくて来た道程、何も食べられないまま帰るのはあまりにも悲しいことだ。
「買わなくても食べ物を手に入れる方法はあるんじゃない?」
「物乞いするのはイヤなのだ」
「そうじゃなくて、配っているものをもらうとか」
「おいしいものを自分で食べずに周りに配るっていう発想、謎なのだ」
「これおいしいよって広めたい気持ちならわかるよ!」
テンポよく足を踏み出す宵月が瞳をきらりとさせた。
反対に来羽は歩幅が小さく、ちょこちょことした歩みぶりだ。考え考え、自然と手を口元に寄せた。
「ううん……、長老も人間になれる薬を広めたかったりしたのかな」
「薬をのんで人里に来て、今こんなに困ってるのにねー」
「人間になるって、やっぱり勧められないことだったのか……わたしには何もわかんないのだ」
来羽はアーカイブで知り合いと話をしたことを思い出していた。
お母さんをはじめとした反対派のこと。
そして、人間になることを「いいんじゃない?」と笑顔で言った先代の言葉が、来羽にははてなでいっぱいだった。
来羽に今わかることは、お腹空いたという切実な思いだけだ。
しばらく歩くうちに活気のある区域に出た。
おいしいにおいが漂ってくる。
塩気があってべたつく感じの潮風に、ここは海辺の町なのだと来羽は理解した。
賑わいを見せる人間たちの話し声。
隣で宵月は「おー!」と気分をさらに高めているようだったけれど、来羽は少し呆然としていた。
空を仰げば太陽は南天を過ぎた頃。地を見れば人通りの多い道、その隅で猫が体を丸めている、いたってのどかな陽気だ。
ガラスのショーケースに飾られた可愛らしい洋服。
魚の焼ける香ばしいにおいが流れてくる料理店。
特産物を平棚にたくさん並べている土産物屋。
普段馴染みのない彩りのある光景を二人は興味深く見ていく。
常に不安なのは、薬の効力が切れてはいないか。こんな往来のど真ん中で、竜に戻りつつあったりしないか。
自身の姿の人間ぶりを確かめては、ほっとし合う来羽と宵月。
何かと店舗の多い区画を過ぎて。
それでも歩き続けて。
二人は大海原に面した小さな港に出た。
昼下がりの港では、七輪を囲んで魚を焼いている漁師たちの姿があった。とてつもなく良いにおいが風に乗って流れてくる。
来羽と宵月は足をとめて、しかしただ眺めることしかできない。
「お魚いいな……」
「わかるよ……」
そんな無防備な二人の背後に向けて、
「ほんといいにおいだよね。ちょっと食べてく?」
突如として聞こえてきた声に、ぱっと振り向く二人。
そこにいたのは、にこやかな笑みを浮かべた若い女性だった。
「この時間はね、買った魚とか獲れすぎちゃった魚を持ち寄って、よく仲間内で食べてるんだ」
女性は片手に調味料をぶらさげていて、
「これは酢。焼き魚にかけるとさっぱり感が丁度良くておいしいんだよ」
来羽と宵月はこくこくと頷くことしかできない。初めて話す人間という存在に緊張感が凄まじかった。
「魚は好き? 小骨とか苦手な子も多いけど大丈夫かな。よければごちそうするよ」
宵月がようやくのことで、
「あ、ありがとうございます! 食べたいです」
と背筋を伸ばして答えると、
「お腹空いてたので嬉しいですっ」
来羽も慌てふためきながら、何とか返事をすることができた。
女性は長袖長ズボンのシンプルな作業着を腕まくりして身につけている。一仕事終えたあとの気の抜けた雰囲気がどこか優しかった。
「じゃあ一緒に食べよう。私はマナカっていうの。よろしくね」
来羽は心が解けていくのを感じていた。
二人がおずおずと名乗ると、マナカは微笑んで、
「来羽ちゃんと宵月ちゃん。素敵な名前だね」
その落ち着いた声音と言葉に、来羽は内心で舞い上がっていくのを自覚していた。
(いい人間、なのかもなのだ)
人里に来て初めてなくらいの、心地よい高揚感だったのだ。
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