9
木嶋さん辞めるのやっぱりやめないかな、と淡い期待をしていたけれど、そんなことが起こるはずもなく、木嶋さんはあっさり退職していった。名残を惜しむ声は多くて、ほらね、と私は誰にともつかないドヤ顔をしながら、三月最後の金曜日、木嶋さんの最後のプロジェクトが無事に納品された午後三時、彼がいろいろな人に挨拶をして回るのを眺めていた。
彼のデスクは片付かなかったので、明日の土曜日、密かに休日出勤して片付けの続きをするそうだ。あの日の馬鹿みたいな冗談が、本当になってしまった。
心の整理をつける時間は充分にあった。みんなが帰ってしまってもなお独りで片付けを続ける木嶋さんに、ささやかだけれどプレゼントを贈った。生村さんの煙草の香りにあやかって、ベルガモット、アールグレイのティーバッグ。わざわざカフェインレスを探してきたのは、ちゃんと寝てくださいという私からの圧だと伝わるといいけれど。
「佐々木さん、お体だいじにして頑張ってくださいね」
その木嶋さんの台詞が、これでもうお別れだと言っているみたいで――もう週明けの月曜日にここに来たら、木嶋さんの席は空っぽになっていて、木嶋さんはもういなくて――
「そっくりそのままお返しします」
それだけ言って部屋を出た。こらえたと思ったけれど、部屋を出たところでばったりと生村さんに会って、その瞬間、涙がぽろぽろと零れてきた。
生村さんが大きなため息をつく。
「木嶋くんも酷い男だよな」
たぶん木嶋さんに別れの挨拶を言いに来たのだろうけれど、生村さんはそのまま引き返して、いつものように、喫煙所で私に付き合ってくれた。
「……すみません」
最後まで、本当、お見苦しいところを。
「木嶋くんの連絡先、聞かないの?」
「聞きません」
それはもう心に決めていた。聞いてしまったら、たぶん、話し掛けてしまう。頼ってしまう。
「佐々木さん、結局何なの、木嶋くんのこと好きだったの?」
「好きですよ」
残業中、木嶋さんが同じ部屋にいるのが嬉しかった。彼が頑張っている限り頑張ろうと思った。同じプロジェクトにいても、いなくても、いつ何の用事で話し掛けても柔らかな彼の笑顔に救われていた。
本当に、木嶋さんを尊敬していて、憧れていて、好きだった。
「でも、もういいんです」
あの木嶋さんが、どこまでも優しい木嶋さんが、自分のための選択をした。それが心から嬉しくて、応援したくて、もちろんいなくなるのは悲しいし寂しいけれど、でも、どちらも本心だ。
そして、こんなに好きなのに、私が木嶋さんのために何もできなかったのも本当。
彼は出ていく。どうか、私の知らない世界で、幸せになるといい。
「まあ、木嶋くんと連絡取りたくなったらいつでも俺に言いなよ」
生村さんは夜空に向かって紫煙を吐く。もうすっかり、春だった。
「木嶋くんのほうは、そわそわしてるみたいだけどね」
どきりとするひとことだけ残して生村さんは、
「落ち着いた?」
「え、あ、はい、」
「じゃ、行こうか」
生村さんは、私を五階のエレベーターまで送ってくれた。
「生村さんは、辞めませんよね」
生村さんも、思えばずいぶん残業している。私が話し掛けるといつもいるのだから。
「辞めない辞めない。辞めたくなる前に、ちゃんと帰るから」
天職だと思ってるしね、とウインクする生村さんにほっとして、頭を下げて私はエレベーターに乗り込んだ。
木嶋さんのいなくなった職場に、私はあとどれくらい留まれるだろうか。まだわからないけれど、木嶋さんに頑張ってくださいと言われたのだ。しばらくは頑張ってみよう。私は唇を噛みながら、いつか木嶋さんと並んで歩いた駅までの道を、ゆっくりと辿った。
ベルガモットの踊り場 森音藍斗 @shiori2B
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます