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 木嶋さん辞めるのやっぱりやめないかな、と淡い期待をしていたけれど、そんなことが起こるはずもなく、木嶋さんはあっさり退職していった。名残を惜しむ声は多くて、ほらね、と私は誰にともつかないドヤ顔をしながら、三月最後の金曜日、木嶋さんの最後のプロジェクトが無事に納品された午後三時、彼がいろいろな人に挨拶をして回るのを眺めていた。

 彼のデスクは片付かなかったので、明日の土曜日、密かに休日出勤して片付けの続きをするそうだ。あの日の馬鹿みたいな冗談が、本当になってしまった。

 心の整理をつける時間は充分にあった。みんなが帰ってしまってもなお独りで片付けを続ける木嶋さんに、ささやかだけれどプレゼントを贈った。生村さんの煙草の香りにあやかって、ベルガモット、アールグレイのティーバッグ。わざわざカフェインレスを探してきたのは、ちゃんと寝てくださいという私からの圧だと伝わるといいけれど。

「佐々木さん、お体だいじにして頑張ってくださいね」

 その木嶋さんの台詞が、これでもうお別れだと言っているみたいで――もう週明けの月曜日にここに来たら、木嶋さんの席は空っぽになっていて、木嶋さんはもういなくて――

「そっくりそのままお返しします」

 それだけ言って部屋を出た。こらえたと思ったけれど、部屋を出たところでばったりと生村さんに会って、その瞬間、涙がぽろぽろと零れてきた。

 生村さんが大きなため息をつく。

「木嶋くんも酷い男だよな」

 たぶん木嶋さんに別れの挨拶を言いに来たのだろうけれど、生村さんはそのまま引き返して、いつものように、喫煙所で私に付き合ってくれた。

「……すみません」

 最後まで、本当、お見苦しいところを。

「木嶋くんの連絡先、聞かないの?」

「聞きません」

 それはもう心に決めていた。聞いてしまったら、たぶん、話し掛けてしまう。頼ってしまう。

「佐々木さん、結局何なの、木嶋くんのこと好きだったの?」

「好きですよ」

 残業中、木嶋さんが同じ部屋にいるのが嬉しかった。彼が頑張っている限り頑張ろうと思った。同じプロジェクトにいても、いなくても、いつ何の用事で話し掛けても柔らかな彼の笑顔に救われていた。

 本当に、木嶋さんを尊敬していて、憧れていて、好きだった。

「でも、もういいんです」

 あの木嶋さんが、どこまでも優しい木嶋さんが、自分のための選択をした。それが心から嬉しくて、応援したくて、もちろんいなくなるのは悲しいし寂しいけれど、でも、どちらも本心だ。

 そして、こんなに好きなのに、私が木嶋さんのために何もできなかったのも本当。

 彼は出ていく。どうか、私の知らない世界で、幸せになるといい。

「まあ、木嶋くんと連絡取りたくなったらいつでも俺に言いなよ」

 生村さんは夜空に向かって紫煙を吐く。もうすっかり、春だった。

「木嶋くんのほうは、そわそわしてるみたいだけどね」

 どきりとするひとことだけ残して生村さんは、

「落ち着いた?」

「え、あ、はい、」

「じゃ、行こうか」

 生村さんは、私を五階のエレベーターまで送ってくれた。

「生村さんは、辞めませんよね」

 生村さんも、思えばずいぶん残業している。私が話し掛けるといつもいるのだから。

「辞めない辞めない。辞めたくなる前に、ちゃんと帰るから」

 天職だと思ってるしね、とウインクする生村さんにほっとして、頭を下げて私はエレベーターに乗り込んだ。

 木嶋さんのいなくなった職場に、私はあとどれくらい留まれるだろうか。まだわからないけれど、木嶋さんに頑張ってくださいと言われたのだ。しばらくは頑張ってみよう。私は唇を噛みながら、いつか木嶋さんと並んで歩いた駅までの道を、ゆっくりと辿った。

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ベルガモットの踊り場 森音藍斗 @shiori2B

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