8

 喫煙所になっている踊り場は、隔階だった。五階と六階のあいだの喫煙所には、お昼休みでもちらほら煙草を吸いに人がやってくるけれど、五階と四階の踊り場には人がいないだろうという私の予想は当たっていた。四階の人たちは四階と三階の間の喫煙所を使う。この三年間、何度も外階段に出ていたのだ、間違いなかった。

 想定内だった。生村さんが追ってくること以外は。

「佐々木さん」

 後ろから掛かった声が誰のものかはすぐにわかった。私は咄嗟に声のほうに背を向けた。人に見せられる顔ではなかった。

「大丈夫?」

「大丈夫です」

 大丈夫にするので、もう少しだけ、待って。

「その……ごめんね。不安だよね、木嶋くんいなくなるの」

 不安、か。

 それはあまり考えていなかった。でも確かに、いつ何を聞いても優しく相談に応じてくれる先輩がいなくなるのは、不安かもしれない。うん、確かに不安だ。

「不安は不安、です。けど」

 けど、それだけではなかった。

「すみません。ただ、私が木嶋さんのこと好きなだけなんです」

「……あー、うん」

 その反応に、やっぱり知っていたんだろうとわかる。

 生村さんは何も言わず、私の隣で踊り場の手摺りに肘をつくと、こちらを見ずに、黙って私が落ち着くのを待っていてくれた。かつて私がよく生村さんに話を聞いてもらったのは、定時後、もう暗くなってからが多かった。明るい踊り場は新鮮だった。そんな別のことを必死で考えて、割り込んでくる悲しみを必死で頭から追い出して、私は何分も掛けてようやく呼吸を整えた。きっと涙でぐちゃぐちゃなので、顔は上げられないけれど。

「すみませんでした」

「……落ち着いた?」

「はい」

 うん、と生村さんが体を起こす。

「生村さん……木嶋さんに、理由を聞いて来ていただくことってできませんか」

 返事はすぐにはなかった。私は顔を伏せたままなので、生村さんがどんな表情をしたのかわからなかった。だめですか、どうして、と私が重ねる前に、生村さんが言った。

「うん、本人、いるんだよね、実は」

 思わず後ろを振り返った。

 自分の顔がどう見えるかも忘れて、顔を上げてしまった。踊り場まで降りてきた生村さんと、それから五階のドアのすぐ傍で立ち止まったままの木嶋さんが、バツが悪そうに頬を掻いた。

「……鬼ですか、生村さん」

 まさか、木嶋さんを連れてくるなんて。

「ごめんて。こうなるとは思ってなかったんだよ」

 生村さんは胸ポケットに手を伸ばしかけ、ここは喫煙所ではないと思い出したようですぐにその手を引っ込めた。

「すみません、来ちゃって」

 木嶋さんが、ゆっくりと降りてくる。私はどうすればいいかわからなくなって、生村さんの後ろに隠れた。

「僕が来たかったから来たんです。実は、生村さんと佐々木さんが僕の転職のこと知ってるって、今朝生村さんから伺いまして」

「ごめんね、昨夜の佐々木さん、あまりにも心配で」

 よっぽどうわの空だったのか……変なことを口走っていないといいけれど。

 いや、今になって木嶋さんのことが好きとか何とか言ってしまったから、それ以上の妄言はないか――あれ?

 私、さっき、言っちゃった? 言っちゃった、よね?

 まずい、だって、生村さんはもう知ってるだろうと思って、だって、木嶋さんが聞いているなんて思わなくて――

「違うんです木嶋さん、好きって、その、変な意味じゃなくて」

 生村さんの後ろから必死で弁明する。

「あ、変な意味じゃないですか」

 木嶋さんが笑い、左胸のあたりに、手を当てる。

「ちょっとどきどきしたんですけどね」

「何? 俺、帰ったほうがいい?」

「いてください!」

 生村さんがいなくなったら、私が隠れる場所がなくなってしまう。

 しかし、鞄だけ置いてコートのまま出てきてしまった私と違って、ふたりはスーツのジャケットすら脱いで、ワイシャツ姿だった。

「すみません、寒いですか……?」

 一応聞いてみるけれど、

「いや、俺いつもこの格好で煙草吸ってるから」

「僕は体温高いんで大丈夫です」

 木嶋さんは腕まくりすらしていた。

「木嶋くんが俺には聞かれたくない話するなら、外すけど」

 生村さんが、今度は木嶋さんに向かって聞く。

「いえ、大丈夫です。聞かれて困るようなことなんて僕にはないですよ」

 木嶋さんは踊り場まで降りてくると、私と生村さんから少し離れた手摺りに凭れて、理由かあ、と斜め上を見た。

「佐々木さん、前に、僕に聞いたじゃないですか。早く帰りたくないのかって」

 確かに聞いた。木嶋さんの答えは、早く帰れるに越したことはない、だった。

「やっぱり、まあ、何というか、心が荒むんですよね。残業が続くと」

「荒んで……た、んですか」

 そりゃ、確かに、そう言ったけれど。木嶋さん本人が、そう言ったけれど。

「そんなの」

 聞いてない。だって、いつも優しくて、平気そうな顔をして、それが当たり前になっていて――

「気づけなかったな」

 私の呟きは、木嶋さんまで届いていたかはわからない。けれど、生村さんには聞こえていた。

「木嶋くん、顔に出さないからな」

 気づけなかった。こんなに木嶋さんのことを見ていたのに、見ていたつもりになっていただけだった。これで好きだなんて、烏滸がましい。

 けれど、きっと、所詮私には無理だったのだ。部長や生村さんや、もっと付き合いの長い人にだって気づけなかったのだから、私程度が、眺めているだけじゃ、きっと。

「しんどいなら……辞めるほどしんどいなら、帰っちゃえばよかったのに」

 せめてもの抵抗のつもりで、私はそう言った。木嶋さんは顔色を変えなかった。

「続けてると、感覚が麻痺してくるんですよね。慣れというか、癖というか。まだできる、のハードルがどんどん下がっていくというか」

 しかし、慣れたからといって、楽になるわけでは――ない。

「ちょっとこのままじゃ……環境ごと、がらっと変えなきゃだめだなって」

「別に辞めることないんじゃないの。ほかに手段あったでしょ」

 生村さんがそう言って、そうだ、と思い至る。リーダーと部長に協力してもらって強制的に帰るとか、まとまって有休を取ってみるをとか――

「これ以上迷惑掛けられないじゃないですか」

 木嶋さんの笑顔はいつもどおりで、それが無性に悲しかった。

「迷惑なんて」

 木嶋さんに掛けられた迷惑は、そりゃないとは言わないけれど、けれど、木嶋さんにもらったもののほうがずいぶん大きい。それは、私だけじゃなくて、きっと、みんな。

「どうしても、辞めるんですか」

 その問いは、問いの形をした私の身勝手な希望は、ぽろりと出てしまった。

「すみません」

 木嶋さんを苦しめるだけなのに。

「いえ、こうやって別れを惜しんでくれるなんて、佐々木さんぐらいですよ」

「その冗談は笑えないな」

 生村さんが反撃してくれたので、私は溜飲を収める。木嶋さんがたまに自虐的な冗談を言うのは、彼の優しさだ。私はやめてほしいけれど。

「木嶋さんって、入社したときからずっとこうだったんですか?」

「こうって?」

「だから、その、残業とか……」

 私の質問の意図が呑み込めた木嶋さんが、迷うようにちらりと生村さんを見る。生村さんが頷いた。

「わかってるよ。悪かったね、守れなくて」

「いや、生村さんが守るとかそんな。僕が馬鹿だっただけなので」

 どういうこと? ふたりのあいだでは承知らしい話についていけなくて、私はふたりの顔を見比べた。生村さんが、頭を掻いた。

「佐々木さんが最初に触った社内システムあったでしょ」

 覚えている。木嶋さんと一緒に機能の追加とコードの整理をした、あのシステム。

「設計で揉めたって話はしたと思うんだけど――その、いろいろね」

「いろいろでしたねえ」

「何ですか、いろいろって」

 ふたりだけで意味深に笑わないでほしい。

「当時の人事部長がねえ――あ、今の人じゃないよ。佐々木さんが入社するよりの前に退職した人なんだけど」

 そうか、クライアントと揉めた、と、あのとき生村さんは言ったけれど、社内システムだから人事部長になるのか。

「システムのことわからないのに口出してくる面倒くさいおじさんでさあ」

 生村さんの言葉を選ばない言いかたに、いやいや。上下の喫煙所で聞かれてたらどうするんだ。

「木嶋くんがキレて大変だったよね」

「いやいや、そこまでじゃないですよ」

 木嶋さんが豪快に笑う。木嶋さんが? キレる? そんなこと、ある?

「あいつ、管理者アカウントは人事だけでいいとか、かと思えば設計終わってから、チームリーダーも管理できるようにしろとか」

「チームリーダーにメンバーの残業を管理させるつもりだったんでしょうねえ」

 それがつまり、どういうことを意味するのか、恥ずかしながら、社会人を三年もやっているのに、そういう規定とか規約っぽいものに明るくなかった。私がわかっていないことを察したのか、尋ねる前に木嶋さんが答えを教えてくれた。

「メンバーの残業が多いとリーダーの査定が下がるんです。たまたま僕を抱えさせられたってだけで給料が減ったら、たまったもんじゃないですよね」

「それは木嶋くん、君が早く帰れば問題ない」

 生村さんの苦言を木嶋さんは笑って受け流した。それができなくて辞めると言っている人だ。今さら言ったって仕方がないだろう。

「あと、残業と有休を事前承認制にするとかね」

 有休の事前承認制?

「じゃあ、今日の私みたいに突然休んだらどうなるんですか?」

「欠勤扱い。給料が減る」

 ……なるほど。それは厳しい。

「体調不良なんて事前にわかるわけないですよ」

 そうであってほしい。そうでなくちゃ困る。

「それで……結局どうなったんですか」

「最初は部長もリーダーも粘ってたんだけど、工期がどんどん足りなくなってきて、もうとりあえず言われたとおりに作って、作り終わってすぐに修正の交渉を始めようって話になったんだけど……木嶋くんだけ納得してくれなくて、人事部長に直談判に言った」

 うわ、と思わず声が漏れる。

「すごいですね……」

 木嶋さんがまだ新人のころの話だと言っていた。私よりは仕事ができる新人だったであろうとはいえ、会社というシステムも、社会の中で渡り歩いていくための諸々も、まだわかっていなかったはずだ。私だったら、自分より年上で経験もある先輩方がイエスというのならイエスなのだろうと、従ってしまうだろう。そうでなくても、先輩方が覆せなかったものを、自分がどうにかできるとは思えないだろう。

「本当は事前に根回しとかするものなんでしょうけど、僕はそこんとこ上手くなくて……」

 愚直というか、馬鹿というか。

「それで自分が間違ってたらとか、責任取るの怖いとか、思わなかったんですか」

「何も考えてませんでしたね。意外と我が強いんですよ、僕」

 それは確かに意外、いや、意外でもないのか。あんなに部長とか、そのときどきのプロジェクトのリーダーとか、人事部から人まで派遣されて口酸っぱく言われて、ここまで残業をやめないのだから。

「あのときから人事部は嫌いですね」

「木嶋くん、もしかして人事部が嫌いだから残業してたの?」

「いや……そういうわけじゃないですけど」

 木嶋さんが、過去を思い出すように目を伏せる。

「僕が工期遅らせたのわかってたんで、できるだけやろうと思って、タイムカード切らずに作業してたら、それがだんだん当たり前になってきて……感覚が麻痺しちゃって」

「そのシステムは、結局どうなったんですか?」

 答えたのは生村さんだった。

「木嶋くんの主張が一部認められた、ぐらいかな」

「あ、いや、こないだの佐々木さんとのリメイクで全面認められました」

「まじ? おめでとう」

「ありがとうございます」

 その木嶋さんの顔は、とても晴れ晴れとしていて、ああ、この人は辞めるんだなと思った。実感が追いついてくるのが涙より後というのも変な話だけれど――木嶋さんはいなくなるんだ。自分の意思で。

 それでいいと思った。だって、大好きな木嶋さんが決めたことなのだ。悲しいけれど、寂しいけれど――私は木嶋さんのことが好きだった。

「木嶋くん、有休消化しないの?」

「このプロジェクト終わったら、四月一日から新しい会社行くんで、そんな余裕はないですねえ」

 もう、次に行く場所決まってるんだ。辞めるんだから、途中でプロジェクト抜けたって、一か月有休を取ったって、知らんぷりしてしまえばいいだけなのに。止める権利は誰にもないのに。木嶋さん一人が抜けて、システムが完成しないということはないはずだ。残された人で、他のチームの手も借りて、必死で作り上げる。それが、組織というものだから。

 私にかつてそう言ったはずの木嶋さんが、有休を取らないというのは、ただ、彼が優しいだけだった。

 机片付けてる時間もないかも、と木嶋さんは相変わらず笑う。

「机片付けるために休日出たいって言ったら部長怒りますかねえ」

「それは怒るだろうな」

 今の冗談は面白かった、と生村さんが言うのが可笑しくて、私も目を腫らしたまま、ふふっと笑った。

 午後の始業のチャイムが鳴った。

「やば、戻らなきゃ」

 木嶋さんが手摺りから体を起こす。生村さんが私を振り返った。

「佐々木さん、タイムカード切った?」

「いえ、まだです」

「あちゃー、遅刻になっちゃったな。どうする? 今日もう休みにする?」

 有休はどうせ使い切らないし、遅刻で給料が削れるよりも、一日有休だったことにしてしまったほうが損をしない。吐き気もまだ喉のあたりに残っていた。けれど、

「いえ、出ます」

「そう? 無理しないでね」

 木嶋さんと同じ空間に座っていられる時間を、少しでも抱き締めていたかった。

「あ、それより私、タイムカード上は休みってことにして作業しようか……」

「それはやめたほうがいいですよ。僕みたいになります」

 木嶋さんがすかさず口を挟んだので、お前が言うなと思ってちょっと笑った。もちろん口には出さなかった。

「うん、じゃあ、どうせ遅刻になるんだし、部長には言っとくから落ち着いたら来なね」

 生村さんの声は、いつになく優しかった。たぶん私が相当酷い顔をしていたのだろう。素直にお言葉に甘えて、私はお手洗いでお化粧を直してから、木嶋さんに遅れて執務室に入った。道具がないので、崩れたところを拭うぐらいだけれど。

 心配する部長とリーダーに対して大丈夫ですの一点張りで押し通すところを、木嶋さんは見ていたはずだけれど何も言わなかった。

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