7
会社を出たところで、後ろから声を掛けられた。
「佐々木さん」
たまたまらしい。生村さんが小走りで追ってきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ。駅までご一緒していい?」
「もちろんです」
生村さんに頼らなければいけないことも、最近はとんと減っていた。懐かしい気持ちがして、さっきまでのどす黒い感情はどこかに行ってしまったようだった。
生村さんは、会社の最寄り駅から、私とは反対方向の電車に乗る。駅まで歩くあいだ、最近の仕事やら、社内の誰それがどうしたとか、他愛のない話をした。
「そういえば、最近、木嶋さんが早く帰るんですよ」
その話題を口に出したのは、私のほうからだった。
ほんの雑談のつもりだった。へー、びっくり、という軽い返しを予想していた。生村さんの表情が急激に曇った。あれ、私、何かまずいこと言った?
「うん、うちのフロアでも噂になってるよ」
階を隔てても木嶋さんのことが話題になっているのか。
彼女とかできてたりして。同期との会話が頭を掠める。聞く勇気が萎みかける。それでも、このまま悪い想像をしてしまうよりはましかもしれない。聞いてしまおう。
「生村さん、理由とか知ってますか」
「佐々木さん、ほんと木嶋くんのこと好きだねえ」
返ってきたのは問いへの答えではなく、そんな一言だった。どきりとした。
「え、ええ、まあ」
否定する必要はない。木嶋さんのことは好きだ。尊敬している。人として。先輩として。
「うーん……実はこれ、まだ内緒なんだけど」
生村さんは、不穏な前置きをした。私は少し身構える。身構えておいてよかった。そうでなければ耐えられなかったかもしれない。ほかの人に言わないでね、と生村さんは私に口止めをして、
「辞めるんだって、木嶋くん」
――え?
まさか、と思った。冗談だと思った。ひょっとしたら生村さんは、私が木嶋さんのことを好きだと思って、カマをかけているのかもしれない。まったく、趣味が悪い。
同時に、生村さんがそんな冗談を言う人ではないこともわかっていた。
「……どうして……」
「うーん、実は、俺も本人から直接聞いたわけじゃなくてね」
というか、まだ部長と人事ぐらいしか知らないと思うよ、と、生村さんは言った。
「俺は、部長に何か理由とか知らないかって聞かれて――俺もびっくりして、初耳ですとしか答えられなかった」
生村さんが何も知らないんじゃ、私が知らないのも無理はなかった。別に私は、木嶋さんの何でもないのだから。たまにプロジェクトが一緒になるだけの、たくさんいる後輩のひとり。
「転職活動するから今までみたいに残業できないって言われたらしくって、けど、そもそもあんなに残業しろなんて命令誰も出してないしね」
それはそうだ。止められる人は誰もいない――それはわかっている、けれど。
「止めてくれたらいいのに」
「止めてるんだよ、部長も。だからその材料を俺に聞きに来た。どうやら木嶋くんの意志は固いらしいんだけど」
どうして急に、辞めるだなんて。思ってもみなかった。だって、仕事が嫌いだったら、あんなに自主残業していない。誰かとトラブルになっているという話も聞かない。そもそも人と喧嘩するような人じゃない。
「まあ、来月になったら全体に通達あるだろうし、そのあとで木嶋くん本人に聞いたら」
「……わかりました」
そこからの記憶は正直、なかった。
夜ごはんを食べた記憶もない。お風呂に入った記憶もない。ただ、朝いつもの時間にベッドで目覚め、その瞬間、急激な吐き気に襲われた。狭い独り暮らしのアパートなので、お手洗いに行くあいだにキッチンが視界に入ったけれど、別にお酒を飲んだ形跡もなかった。二日酔いの気持ち悪さは経験したことがあったけれど、明らかに違った。お手洗いでえづいても何も出てこなかった。時計の針がいつも家を出る時間を通り過ぎていく様を、私はただ見つめていることしかできなかった。リーダーと部長に午前休の連絡をしたら、心から心配されたのが逆に苦しかった。体調不良でお休みをいただくのははじめてではなかったけれど、情けなくて家で独りで泣いた。木嶋さんと過ごす残り少ない日数をこうして無駄にしていることが悔しくて、午後の始業に間に合うように、重い体を引き摺って仕事に向かった。
お昼休み真っただ中にデスクに着くと、みんな出払っていて、木嶋さんが相変わらずコンビニパンを咥えながらひとりで作業をしていた。
顔を上げた木嶋さんと目が合った。
「あ、佐々木さん、おはようございます。体調大丈夫ですか」
大丈夫じゃないです。あなたのせいで。
吐き気はまだ収まっていなかった。
「ご心配お掛けしました。もう大丈夫です」
社交辞令だけ何とか口にして、木嶋さんから目を逸らしながら、自分の席に鞄を降ろす。ええと、今日の作業は。
「あんまり顔色が優れないように見えますが……」
あなたに言われたくありません。そんなクマつくっておいて。
「無理しないで、しんどかったら休んでくださいね」
「そっくりそのままお返しします」
心の声が、漏れた。
小声だったけれど、静まりかえった部屋でははっきりと届いていた。
はっと気づいたときには遅かった。
「ごめんなさい」
慌てて謝って顔を上げると、木嶋さんは、驚いた表情をして、そして、はにかむように笑った。
「僕――無理してるように見えました?」
だって、無理してるじゃないですか。そんなにクマつくって、今だってお昼休みなのに作業進めて。毎日遅くまで、ああ違う、今はもう、早く帰る木嶋さんになったんだったっけ。それなのに疲れた顔をして、転職するなら有休取ればいいのに、どうして休まず働いているんですか。疲れているはずなのに、どうしてこんなに優しい笑顔を浮かべているんですか。どうして辞めるんですか。どうしても辞めるんですか。
本当にいなくなっちゃうんですか。
じんわりと視界が滲んできて、咄嗟に顔を伏せる。泣いちゃだめだ。私が彼に言えることなど何もない。部長でも生村さんでも止められないことに、私が口を出せることなどない。そもそも私はまだ知らされてもいないはずだ。
じっと顔を伏せて、涙が乾くのを待つ。必死で耐えている間、キーボードの音はしなかった。木嶋さんは何も言わなかった。待っていてくれたのかもしれない。作業を止めてしまって、申し訳ない。早く帰りたいから、お昼休みを削っているんだろうに。
もう少しでこらえきれそうだったのに、
「あれ、佐々木さん来てる」
部屋の入り口から、よく知っている声が、信頼している声が聞こえてきて、だめだった。
「午前休取ったって聞いて、心配で来たんだけど、大丈夫――」
大丈夫じゃないです。
私は顔を伏せたまま身ひとつで、生村さんのいる、部屋の入り口に向かう。限界だった。
「佐々木さん?」
私は彼の脇を擦り抜けると、部屋から出た。
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