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 ある日、木嶋さんが定時で帰った。二月のはじめ、今回のプロジェクトの締め切りは三月末だったから、締め切り二か月前だった。

「すみません、今日はお先に失礼します」

 そう言って、誰が呼び止める間もなく出ていった。みんなちょっと驚いた顔をしていたけれど、そういう日もあるだろうと、あまり気に留めていなかった。

 周りがざわつき始めたのは、二週間ほど経ったころだった。木嶋さんは、二週間連続で、毎日定時とはいかないまでも、七時半より前には帰路についていた。一度だけ、タスクボードの組み換えをしたので見ておくようにとリーダーに言われたことがあった。木嶋さんの仕事を減らしたのかもしれないけれど、人の分まで仕事の分担を記憶しておく余裕などない私には、よくわからなかった。少なくとも私の仕事は増えてはいなかった。人事のお姉さんが、逆に心配になったのか部長と話しているところを見た。

「木嶋さん、どうしたんだろうね」

 同じフロアにいた同期の女子に、声を掛けられた。彼女はもう帰るところで、荷物をまとめていた。フロアにはもう数人しか残っていなくて、私たちの会話が聞こえるところに人はいなかった。彼女の言葉に、私はさっき閉じられたばかりの扉を見た。夜七時、ちょうど木嶋さんが帰ったところだった。まだ扉の向こうに木嶋さんがいるような、そんな気がした。

「木嶋さんより帰るの遅いなんて、やだぁ」

 同期は冗談めかしてそう言った。いや、恐らく半分は本気で悔しがっていた。

「びっくりだよね」

と、私は、それ以上の返しはできない。

「まあ、今までが異常だっただけなんだけどね」

「それはそう」

 同期はくすくす笑って、

「ようやく健康に気を遣い始めたのかな」

「……だといいけどね」

 そこは正直、あまり楽観視はできなかった。毎日八時前に帰っているのに、木嶋さんのクマが最近、残業が続いているときと同じぐらい酷くなってきた気がしていた。前に木嶋さんは、家に帰ってもやることがないんだと言っていた。じゃあ、家に帰ってやることができたのだろうか。楽しい趣味とかならいいけれど――もっと大変なことが、例えばご家族の病気とか――木嶋さんのそのあたりの事情をぜんぜん知らないのが悔やまれる。かといって、別に木嶋さんに聞けるほど私は仲が良いわけでもない。私が一方的に木嶋さんのことを尊敬しているだけで――

「彼女とかできてたりして」

 同期のそのハッピーなはずの仮説に、家族の病気と同じぐらい抵抗感を抱いてしまった自分がショックだった。

「まさか、あの仕事人間が?」

 咄嗟に否定するようなことを言ってしまった自分が嫌だった。

「確かにー。私ならもっと早く帰ってくる夫がいいな」

 婚活中らしい彼女はそう言って、じゃあ私もお先に、と帰っていった。

 吐き気がした。木嶋さんが早く帰るようになった理由をつい憶測してしまう自分も、同期の言葉を咄嗟に否定してしまった自分も、木嶋さんですら帰っているのに、こんな時間までだらだらと残業している自分もぜんぶ、ぜんぶ嫌だった。

 独りでいると、考えてはいけないことを考えてしまってよくない。

 さっさと終わらせて私も帰ろうと思うのに、誰もいない斜め前の席が気になってしまって、作業は遅々として進まなかった。私がオフィスを後にしたのは、結局九時を回ったころだった。

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