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 私のデビュー戦だったそのプロジェクトは、最終日には他のチームの手も借りたものの、何とか締め切りに間に合わせることができた。私と木嶋さんにはその日のうちに次の行き先が告げられて、二人きりのチームはあっさりと解散した。

 次のプロジェクトの皆さんの近くに席も移動して、その後、木嶋さんとは挨拶ぐらいしかできない距離になったけれど、同じフロアにずっといた。

 あれから三年。いろいろわかったことがある。

 木嶋さんは誰にでも優しい。どんなに作業が詰まっていて、どんなに疲れているときに話し掛けられても、冷たくあしらったりしない。締め切り直前の残業は誰にでもあることだけれど、木嶋さんは少なくとも一か月前には――半年ぐらいの長期プロジェクトになれば三か月は余裕で、毎日十時まで残る。そういう長期プロジェクトに参加したときは、法で定められた残業時間の上限にあっという間に達してしまうので、最後の月には人事のお姉さんが二週目ごろから木嶋さんの横にぴったりくっついて、口うるさく今月あと何時間だとか言っている。それでも木嶋さんが月末まで平気で残業しているのは、たまにタイムカード上で休憩を挟むことで誤魔化しているんだと、以前こっそり教えてくれた。人事部では木嶋さんはもうとっくの昔にブラックリストに入れられているので、タイムカードを切ってまだ残っているのが見つかると、強制的に退室させられてしまう。休憩を挟みつつ残業可能時間を残しておけば、そういうときに言い逃れできるらしい。言い逃れしてまで働きたいと思う意味がわからない。木嶋さんをもう三か月以上のプロジェクトに当てないでくれと、うちの部長が人事部長に泣きつかれているらしいという噂を同期伝てで耳にした。

 木嶋さんがそんなに残業をして何をしていたかは、一か月一緒に作業をしていた私には、だいたい察しがついた。丁寧に作っていたのだ。不必要なぐらい綺麗なコードを。膨大な何百行の中では些細なたった一行の、読み込み時間カンマ一秒の短縮を。

 木嶋さんのデスクのお引っ越しはとても目立つので、木嶋さんの居場所とプロジェクトの切れ目は、簡単に把握できた。なんせ、どこからか持ってきた段ボール箱にデスクの上の紙をぜんぶ詰めて、新しいデスクではすぐには広げずにしばらく横に積んであるので、通りかかれば木嶋さんが引っ越したんだとすぐにわかるのだ――段ボール箱を脇に積んだまま、数日後にはまた元どおり、デスクに地層ができあがっているから不思議なのだけれど。

 平気でサビ残する木嶋さんだけど、疲れが来ていないわけではないらしく、残業期間が一か月ほど続くと目の下のクマがすごいことになる。自分が木嶋さんと残業していたころは、自分のことでいっぱいいっぱいでちっとも気がつかなかった。私がとあるプロジェクトの締め切り直前でどたばたと残業していた日に、木嶋さんとたまたま帰りが一緒になったことが一度だけあった。

「木嶋さん、新しいプロジェクト始まったばかりじゃなかったでしたっけ……?」

「はっはっはっは」

 帰ってきたのはそんな絵に描いたような笑いだけだった。休憩を挟む“裏ワザ”を教えてもらったのも、このときだった。

「佐々木さんこそ、最近忙しそうですね」

「えーと、まあ。でも、今週で終わりです」

「おっ、終わる見込みが立ってるなんて、優秀ですね」

 それが当たり前だ! とは思っても言わない。

「最近は、自分の分担が終わらなくて、ほかの人に回してもらうことも減りました。……まあ、完成しなかったらどうしようってそわそわすることは、今でも結構あるんですけど」

 一年目のころは、自分の分担を自分の与えられた時間内にこなせなかったことが何度もあって、そのたび怒られる覚悟を決めて、震えながらリーダーに報告していた。諫められたり、改善策を一緒に考えてくれることはあれど、思えば怒られたことは一度もなかった。本当に、いい会社に入ったと思う。

 私の残業は、周りと比べればまだまだ多かったけれど、それでもかなり平均に近づいた。締め切り直前でもないのにフロアで最後の一人になるなんてことは、滅多になくなった。

「大丈夫ですよ、完成しないってことは絶対にないですから。一人で作ってるんじゃないですからね」

 木嶋さんの言葉は、かつて生村さんから聞いた台詞と似ていた。

「ちゃんと進捗は共有できてるんでしょ?」

「それは、まあ」

 作業の遅れを含め、何かトラブルが発生したとして、黙ってこっそり解決できる能力も、責任を取る能力も、私にはまだないことは承知している。

「報連相だけはちゃんとするようにしてます」

「えらいですね。うん、それで完成しなかったら、リーダーと部長の責任ですよ」

 木嶋さんの言葉に、逸っていた心が凪いでいくのを感じた。気持ちが逸っていたことを、それではじめて自覚した。時間ぎりぎりに慌てて会社を出てきたから、まだテンションが昂っていたのだろう。

「心のほうは、大丈夫ですか?」

 木嶋さんの問いに、私は思わず彼を見た。

「私、大丈夫じゃなさそうに見えました?」

「いえ、そういうわけじゃないですけど。佐々木さん、真面目だから」

 うーん、それは、あなたが不真面目すぎるのでは……とは思っても、言わない。

 いや、仕事に対して不真面目なわけではないのだ。成果物のクオリティに対しては誰よりも誠実で、だからこそ、締め切りに関しては不真面目。

 そして、それは会社員としてはきっと間違っている。

「まあ、自分がチームの足引っ張ってんなって思うときは、ちょっときついですね」

 怒られないのが逆につらい……ときもある。

「でも、今のところ大丈夫です。リーダーも優しいし、話聞いてくれる人もいるので」

 同期とも、この数年で何回か飲み会をして、気軽に愚痴を言い合える人も一人二人できた。――それから、

「生村さんとよく話してますよね」

 私がその名前を出す前に、木嶋さんから言われたので驚いた。けれど、よく考えたら当然のことだった。木嶋さんは、私が入社したときの研修係が生村さんだったことを知っているし、生村さんとは仲が良い。私が生村さんに話を聞いてもらうのは定時以降と決めているけれど、木嶋さんは私よりずっと残業をしているのだ。私が生村さんを廊下で呼び止める姿を見られていても無理はない。

 私がへこたれずにやっていけているのは、ほとんど生村さんのお陰と言っても過言ではなかった。あれから廊下で会うたびに気に掛けてくれて、しんどくなったらいつでも言いなと言ってくれるので、たまに話を聞いてもらっている。生村さんとはプロジェクトが噛み合わなくて、なかなか同じフロアにならないけれど、自分がいかに仕事ができないかという話を聞いてくれる先輩と、普段の作業で関わりがないというのはやっぱり逆によかったと思う。生村さんは休憩のついでだから気にしないでと、いつも外階段の踊り場で、煙草を吸いながら私の話をひととおり聞いて、よく頑張ってるよと言ってくれる。

「生村さんは優しいですよね」

 木嶋さんが言った。そろそろ駅の入り口が近づいてきた。

「はい。もう、お兄ちゃんだと思ってます」

「生村さんは、確かにいいお兄ちゃんって感じですよね」

 木嶋さんも頷く。

「木嶋さん、生村さんと仲良いですよね」

「まあ、そうかもしれないですね」

 木嶋さんはなぜかふわっとした言いかたをした。そこに深く突っ込んでいいのかわからなくて、私は流した。

「恵まれてるなと思います。先輩方も、リーダーも、同期もみんないい人ばかりで。はじめのプロジェクトが木嶋さんとだったのも」

「僕は手本としては駄目な先輩だと思いますけどね」

 自覚はあるのか……。

「そんなことないですよ。私、木嶋さんが、修羅場になってもすごく落ち着いているところ、尊敬してるんです」

 それは本心だった。はじめてのプロジェクトがきつかった記憶は今もしっかり残っている。けれどそれを上回る鮮明さで、完成したときのほっとした感覚と、木嶋さんがいつだって優しかったことを覚えている。

 駅の改札をくぐり、ホームに入ると、タイミングよく電車が来た。二つ並んで空いている席が見つかり、木嶋さんがすんなりと座ったので、私も隣にお邪魔する。木嶋さんの肩に触れないように体を小さくしながら。

「木嶋さんも、怒らなかったですね」

 今の私から見ても、あのときの私は使えないにも程があった。今も仕事ができるとは口が裂けても言えないけれど。

「佐々木さんは優秀でしたよ。就職するまでぜんぜんこういうの触ってなかったのに、あそこまでやってくれて」

 優しい。

 私は、木嶋さんが優しいってことを言いたかったのに。切り返されて困る。

「でも、私、残業が続くと結構いらいらとかしちゃって」

「それはみんなそうですよ」

 みんな? 果たして、みんな、だろうか。

「木嶋さんは、ぜんぜんいらいらとかしないですよね」

「そうですかねえ」

 木嶋さんは天を仰いだ。

「僕、結構短気ですけどね」

「えー、うっそだあ」

 思わず軽口が出た。

「木嶋さんが怒ってるとことか、ぜんぜん想像できない」

「いやいや」

 木嶋さんは笑い、そして、

「でもやっぱり、人より鈍いんだろうなとは思ってますけどね」

 鈍い、か。

 そんな一言では片付けられないほど、私は木嶋さんを、尊敬しているけれど。

 尊敬というか、――憧れ、というか。

「……木嶋さんは、その」

 ずっと気になっていたことを、聞こうかどうか迷って、まだ駅に着かない無言の気まずさも手伝って、私はとうとう聞いた。

「早く帰りたいとか、思わないんですか?」

「早く帰ってもやることないですしねえ」

 木嶋さんの答えは冗談だか本音だかわからなかった。

「でも、まあ、早く帰れるに越したことはないですよね」

「えっ」

 思わず声が出て、私は慌てて口元を抑えた。

 早く帰りたいとか、そういうことを思わないから、これだけ一人きりで残業していても、平気なんだと思っていた。

 だったら早く帰ればいいのに、適当なところで切り上げればいいのに、どうせ完璧なんて存在しないのだから――

「けど、まあ、だから、鈍いんでしょうね」

 果たして、鈍い、の一言で片付けられるものだろうか。多少体が強いとか、多少心が強いとかそんなもので。

「……ちゃんと寝てくださいね、木嶋さんも」

 私が言うことじゃないけれど、後輩に言われたくないだろうけれど、言わないではいられなかった。

「お気遣い、ありがとうございます」

 木嶋さんは相変わらず穏やかに言った。

「優しいですね、佐々木さんは」

 木嶋さんに言われたくない、と思った。

 ここで、私の降りる駅に着いた。木嶋さんの家はもう少し遠い。私もまだ乗り継ぎがあって、家が近いというわけではないけれど、木嶋さんの家のほうが遠かったはずだ。新人のころからずっと同じ家に住んでいるらしい。

「すみません、ここで失礼します」

 変なところで会話が切れてしまったけれど、電車を降りないのはもっと不自然だ。私は頭を下げて立ち上がった。

「お気をつけて」

「木嶋さんこそ、お気をつけて」

 疲れてるでしょうし。

 もしかしたら、通勤は貴重な睡眠時間だったりしたかな。付き合わせてしまったのだとしたら申し訳ない。

「お疲れ様でした」

 私は電車を降りた。名残惜しい気がして電車を振り返ると、流れていく車窓から、木嶋さんと目が合った。

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