3
外階段、五階と六階の間の踊り場、そこは喫煙所の役割も兼ねていた。幸い誰もいなかった。生村さんは胸ポケットから煙草を出して火をつけた。十月末、もうすっかり外は涼しくなっていた。
「……すみません」
私は生村さんが自販機で買ってくれたホットコーヒーを握り締めながらそう言った。外階段を利用するのはもともと喫煙者ぐらいだし、この時間帯であれば、隣の階にちょっと用事という人は少ない。みんな屋内のエレベーターで一階に降りて帰るばかりだ。たぶんそれを狙って生村さんは、煙草を吸わない私をここに連れ出した。
「謝ることはないよ」
街の明かりに薄く照らされながら、生村さんの口元で、煙草の火が赤く灯っていた。
「仕事、しんどい?」
「……いえ」
しんどいなんて、人前で言えるわけがなかった。周りの先輩方は、もっと難しいことをやっている。同期だって頑張ってる。そして何より、生村さんにあれだけ丁寧に仕事を教えてもらったのに。
「その……ちょっと、焦っちゃって」
「ご迷惑掛けるね。コード汚いでしょ」
ああ、そういえば、木嶋さんもそうだけれど、生村さんもこのシステムの開発のときのメンバーだったんだっけ。
「いえ、ご迷惑をお掛けしているのは私のほうで」
言葉にしたら、また涙が溢れてきた。こらえようとする私を生村さんはゆっくり待ってくれて、そしてゆっくり話を聞いてくれた。
あんなにいろいろ教えてもらったのに、ぜんぜん一人で仕事ができないこと。木嶋さんにすごく質問をしてしまって、そのせいで木嶋さんの作業を止めてしまって、木嶋さんがすごく残業していること。それなのに、木嶋さんは私には優しくしてくれること。私はこんなに余裕がなくてきりきりしているのに、木嶋さんはいつ話し掛けても落ち着いて対応してくれること。木嶋さんは、僕が残業するのは自分の勝手だからと、私を早く帰してくれること。役に立ちたいけれど私にはできることが少なすぎて、結局木嶋さんより先に帰っていること。きっと使えない私と二人きりでこの仕事をさせられて、私に苛立っているはずなのに、木嶋さんはそんな素振り、私にはちっとも見せないこと。
「今日も、さっき、どうしてもわからないことがあって」
これ以上木嶋さんの時間を奪えないと思いつつも、これで黙っていて私の分担が進まないほうが迷惑かと思い、もう少し自分で調べたほうがいいか、早く聞いて解決して作業を進めたほうがいいのかわからなくて、わからないので、木嶋さんに聞くしかなかった。
検索キーワードのヒントだけでも、一言でいいので、と頭を下げる私に、木嶋さんはちょっと待ってくださいねと穏やかに言って、二十分後、とあるウェブサイトをプリントアウトしたものをホッチキスで止め、ラインマーカーを引いて渡してくれた。
不甲斐なかった。
辛うじてお礼だけ言って、逃げた。
そこで会ったのが、二週間ぶりの生村さんだった。
「佐々木さんは真面目だね」
生村さんは片手で自分の頭をがしがし掻いて、空を見上げた。
「木嶋くんのことはね……ああ、そうか、知らないのか」
何のことだろう。
「木嶋くんは優しいよね」
「はい……とても」
この会社の人はみんな優しいけれど。
「けどねえ。木嶋くんはあれで結構、問題児なんだよね」
「問題児……?」
はじめの打ち合わせのあと、部長に呼び止められたことを、二週間ぶりに思い出した。
「彼はね、誰とやってもどんなプロジェクトでも残業するから、気にしなくていいよ、というか……気にしちゃだめだよ」
「そうなんですか?」
まあ、何というか、と生村さんは煙とため息を同時に吐いた。
「今、佐々木さんがいじってる人事システム、俺も入ってたって言ったじゃん?」
「はい」
「あれ作ってたとき、彼だけすごい残業してて、虐められてんじゃないのかって、リーダーが呼び出し食らった事件があったんだよね」
「えっ」
……そんなことが。
「木嶋くんがまだ新人だったころだから、もう十年前になるかな。俺と木嶋くんと、ぜんぶで六人のチームで作ったんだけど。実は、設計段階でクライアントと大揉めに揉めて……開発始まった段階で、残り時間がかなり厳しかったんだよね。だから、スピード最優先でって決めて、コードが多少汚くても、とりあえず真面に動けばそれでいいって」
時間を掛けて計画し、時間を掛けて製作すれば、より質が高いものができる。けれど、そんなことを言い出したら時間が無限にあっても足りないのだ。どこかで区切りをつけなければいけない。期限に間に合わせるためにクオリティを諦めることもある。それが仕事というものだとは、入社してすぐの全体研修でも習ったし、生村さんにも学んだ。
「正直それでも間に合うか怪しいぐらいのスケジュールで。全員やばいのはわかってたから、言われた通り超特急で作業して……それでも毎日みんな八時とかまで頑張ってたんだけど――木嶋くんだけ」
また生村さんのため息が挟まる。次にどんな言葉が来るかはだいたい察しがついた。
「俺ら、先に帰っちゃってて気づいてなかったんだよな。てっきり、俺らが帰ってすぐ木嶋くんも帰ってると思い込んでて」
「何時までやってたんですか……?」
「毎日十時。気づいた時点で、もう二か月」
生村さんたちが悪いのではない、と思った。同じチームの先輩というだけでは木嶋さんの勤怠記録は見られない。悪いのは残業を黙認していた部長か、ヘルプを出さなかった木嶋さんだ。
「木嶋くんの分担が過剰に多かったつもりもないんだけどね。きつかったら作業みんなに割り振るよって木嶋くんに言っても、自分でできますって言うし。まあ結局、スケジュール全体に影響が出始めたから、リーダーが無理やり木嶋くんの作業奪って、ほかのメンバーに配ったんだけど」
「でも別に……仕事できないって感じでもないですよね?」
木嶋さんは私の質問にはすぐに答えてくれるし、今回の作業だって、私より多い分担をこなしてくれている。誰に質問するでもなく、ただ黙々と作業をしている。作業も、ゆっくりとではあるけれど進んでいるようだ。本当に難しすぎてわからなかったら、完全に止まってしまうはず。私みたいに。
「そうなんだよねー。あんなに残って何やってんのか正直よくわかってないんだけど……たぶん、すごい丁寧にやってるんだと思うんだよね」
「丁寧に、ですか」
「百点のものを作ろうとしすぎるんだよね、彼は。期限とクオリティのバランスをわかってない。ぜんぶやろうとする」
なるほど。それは……キリがない。
どれだけきつくても、普通は計画段階で残業を織り込んだりはしない。人数×作業日数×一日八時間、それで足が出る分は、人を増やすか工期を伸ばすか機能を減らすか。それでも何だかんだ締め切り直前には残業が発生するのだから、はじめから残業を前提にしていては、完成するはずがない。そのときのメンバーの皆さんが、開発がスタートした時点から常に残業していたというのなら、よっぽど厳しいスケジュールを組んでいたのだろう。それでなお木嶋さんが、それ以上のクオリティを叶えようとしていたというのなら――
「木嶋くん、なまじ残業できちゃうから困るんだよなー」
「で、ですよね?」
私が弱いわけじゃないと言われた気がしてほっとした。
「木嶋さん、今回、始まってからずっと、毎日十時まで残ってるみたいで」
「サイボーグだよね」
サイボーグか。生村さんの不意の例えに、思わずふふっと笑みが出た。
「木嶋くんは、本当優しくていいやつだし、タフだし、仕事もできるけど、残業しすぎるところだけは、佐々木さん、見習っちゃだめだよ」
「私、今週から毎日十時まで残ってて、もう正直いっぱいいっぱいなんですけど……」
肉体的にも、精神的にも。帰宅してごはんを食べてお風呂に入って寝る、寝たらすぐ朝だ。まるで仕事をするだけのために生きているようで、でも生きていなければ仕事なんてしなくてよくて、卵が先か、鶏が先か、考え出すと悲しくなってくる。こんな生活がずっと続くのだろうか。おばあちゃんになるまで、毎日、ずっと? 同期はもっと早く帰っているようだ。私、そんなに仕事できないのだろうか。そうなのかもしれない。だとしたら、これから一生懸命勉強して、仕事ができるようになれば、早く帰れるようになるのだろうか。それとも年齢が上がると同時に仕事量も増えて、今と同じ状況が続くのだろうか。
止めたはずの涙が、またじわりと滲んでくる。
「正直、ちょっと……きついなって思ってて」
「普通、普通。あいつがおかしい。気にしないでいい。勝手にやらせとけ」
あまりにも突き放した言いかたに、ちょっと木嶋さんが可哀想になって、でもそれくらいがちょうどいいんだろうなとも薄々気づいていた。
「ていうか、佐々木さんそれ残業しすぎだよ。木嶋くんに合わせなくていい。あれが標準だと思わないで」
「そうですか……?」
「そうだよ! ああ、俺の娘が木嶋くんに毒されていく……」
「生村さん、この歳の娘がいる年齢じゃないでしょう」
生村さんの歳をはっきりとは聞いたことはないけれど、三十代後半、どんなにサバを読んでも四十代前半だ。
「でも、終わらなくて……残業しないと」
「終わらないなら、仕事のキメを粗くするんだ。手を抜くことを覚えなきゃだめだよ」
それは、私の苦手なことかもしれなかった。きっちりできるようになって、ようやく手を抜ける部分がわかってくる性格なのは、社会人になる前から自覚していた。
けれど、これは仕事なんだ。いつまでも学生気分ではいたくない。仕事ができる格好いい女性になりたい。ゆっくりだけれど、早く帰れるようになろう。生村さんも応援してくれているし、木嶋さんも、別に私に残業させたくてああしているのではないということは、本人からはっきり告げられている。
「頑張ります」
「頑張れ。木嶋くんみたいにならないように」
その言いかたは酷いなと思ってちょっと笑った。
「締め切りに間に合わなかったらどうしようって思ってました」
「大丈夫、そんなことには絶対ならないように組織というものがあるんだから」
そもそも、と生村さんは話を続ける。
「佐々木さんがどれくらいできそうかって話は俺がちゃんと部長にしてるんだから、これで佐々木さんが泣くほどしんどいとしたら、それは部長の采配ミスだよ」
だから、ほどほどにね、と生村さんは、煙草の先を灰皿に擦り付ける。
「落ち着いた?」
「聞いてくださって、ありがとうございました。……お時間いただいちゃってすみません、生村さんも残業中だったのに……」
「いいよ、ちょうど休憩したかったところだし」
そういえば、生村さんがどうして五階に降りていたのか尋ねると、単純に書類を部長の席に出しに来ただけらしい。五階と六階は同じ開発部で、特に区別があるわけではない。六階の人もたまに五階の部長のデスクまで来る用事があるのだ。
また生村さんにばったり会うかもしれないと思うと安心した。
コーヒーまでご馳走になってしまって。今度何かお菓子でも持っていこう。私は生村さんに深々と頭を下げて、五階の廊下に入ったところで別れた。
「俺たちは、独りで作ってるんじゃないからね。いつでも頼って」
「ありがとうございます」
お手洗いの鏡で目元のお化粧崩れだけ確認して作業部屋に戻ると、生村さんと木嶋さんが部長のデスクの近くに立って談笑していた。二人が結構仲が良いと知ったのは、もっとあとのことだった。気恥ずかしさを感じつつ、二人に会釈だけして席に着く。休憩してしまった分、力不足ながらも少しでも力になりたい。改めて私は、さっき木嶋さんがくれた資料と向き合った。
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