其の肆拾肆 雪原の戦い
「……ふむ。寒いな」
黒耀は、真っ白な周囲を見回す。
そこは雪の降り積もる山里であるようだ。
分厚い雪が、杉や葉の落ちた橡に綿帽子のように重なり、更にしんしんと降り積もっていく雪を受け止めて行く。
近くには、雪で縁取られた沢が流れ、凍った飛沫が黒っぽい岩を彩る。
眼下に目をやると、黒々した冬の樹木の幹の間から、やはり雪の積もった茅葺の屋根の連なりが見える。
それらの全てが、音もなく、控えめに降り積もる雪の帳の間に眠る。
「寒いだろうよ、黒耀。何とかしてやっても良いのだぞ?」
揶揄するような声が聞こえて来たのは、その時である。
黒耀は、山の開けた場所に、その影を見上げる。
道震であろう。
上半身は彼の姿であるが、その長く伸びた髪は、周囲の雪に溶け込むように真っ白だ。
下半身は白くもやもやした細毛に覆われた巨大な虫だ。
話に聞く雪虫にも似ている。
氷の細片のような翅がきらめき、その異様なモノと化した道震を強調する。
「……何とかせねばならぬのは、そなたの方ではないか。邪神の魂を受け入れてモノと化したら、もう二度と人には戻れぬ」
黒耀は、その手に大黒天神印を結ぶ。
「……そなたを、生きたままこちらに戻してやる手段は、もはやない。大黒天の御力にて、往生させるしか、もはやそなたを救えぬ」
黒曜の低い声には、確固たる決意はあるが、悲壮な色はない。
この件に道震が関わっていると気付いた時から、このことは予見していたのか。
しかし、道震は黒耀をあざけるように指弾する。
「救う、救うと。それが傲慢だと、何故気付かぬ。俺のような者を救ってくれるのは、仏法ではない。この、『呼ばれざる者』様の御教えだけだ」
モノと化した上半身を揺すり、道震は宣言する。
「仏法では救われぬ、俺のような者は、誰が救ってくれる。組んでいたお前は、さっさと別の場所に出向き、俺は置き去りだ。お前が親王だから、俺は置き去りでもいいと思ったか!? とんだ勘違いだ!!」
突然、道震が激高して太い腕を振り回す。
黒耀は怪訝な表情を浮かべる。
話の雲行きがおかしい。
「……仏法は、求める者誰も置き去りになどしない。置き去りにされたと思ったのは、そなたの迷妄に過ぎぬ。あのまま修業を続けていたら、別の機会もあったはず。一度思い通りにならないからといって、すぐに放り出すのは、そなたの悪い癖だ」
黒曜が断言するや、ごう、と雪を含んだ冷たい風が、彼に吹きつけてくる。
「ああ、ああ、いいよな!! 一度も思い通りにならなかったことなどない親王様は!! だがな、その得た仏尊の力で、お前は何をした!? 俺を救ってくれたか!?」
さっさと鎌倉に下って、勢いのある源頼朝に取り立てられて、栄華の道をまっしぐらだ。
やり損なった俺のことなど、忘れていいご身分だな!!
黒曜は恨み言をぶつけてくる道震のひがみでねじ曲がった心に、深い哀れを感じる。
全く、こいつは子供の頃から変わらない。
自分の思い通りにならないと、いつまでも泣き喚いている。
必ず「誰かが、自分にご奉仕するのを待っている」。
そうした依存心の高さが、道震の視界を歪め、性根を捻じ曲げ、ついには悪への志向を生み出し、「呼ばれざる者」への一本道を開いたのだが、本人に言い聞かせても耳に入るまい。
昔から、都合の悪いことには耳を塞ぐ人間だったのだから。
「……我が、類縁としては親王だからといって、特別にお前よりも気遣って修業させられたと? 醍醐寺の修業がそのような甘いものだと、本当に信じられるのか?」
黒曜は親王だったが、表沙汰にできない事情があった。
そもそも、そうでなくとも、醍醐寺に幼くして入ったからには、厳しい修業の日々が待っている。
到底、俗世の身分がどうだからといって、手心を加えられるようなものではないのだが。
そもそも、醍醐寺の上層部が、黒耀の父、後白河天皇に忖度したとしても、そうであらばこそ、黒耀を僧侶として使えるように育て上げねばならない。
そういう厳命であったと、黒耀はだいぶ後になってから知らされたものだ。
実際、醍醐寺での修行は、決して甘くなく、それは親王黒耀にしても、公卿の子道震にしても同じことであったはずだ。
「実際に、俺ではなくお前が、大黒天に選ばれたではないか!!」
「……仏尊の御心は、あくまで仏法に沿っているかどうかで決まるものだ。一度くらい上手くいかなかったといって、すっかり悪の道に鞍替えするような甘ったれたお前が、大黒天に選ばれるものか」
黒曜の言葉が、道震を決定的に傷つけたのはこの時である。
道震は絶叫する。
彼の体から、極寒の風が、尖った雹を伴って黒耀に吹き付ける。
冬の山の頂上にあるという雪と氷の河のような、巨大な氷塊が、黒耀に向かって降り注ぐ。
道震の金切り声が絶叫に高まった時、黒耀の姿は、氷の山の奥底に消えていたのである。
「やった……!!」
道震は、氷の山を見つめる。
黒曜の気配は消えている。
そもそも最初から、黒耀は凍えていた。
道震が創り出した、この世界の寒さは、魂まで凍らせる邪神の寒気だ。
大黒天を宿した黒耀でも、この寒気は防げない。
勝った。
もう何十年も経って、初めて道震は、はっきり黒耀に勝ったと言えるのだ。
歓喜の絶叫と共に、道震が腕を振り上げた時。
道震の分厚い胸を、研ぎ澄まされた黒い刃が、真後ろから貫いていたのだった。
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