其の肆拾弐 道震の術

 ごぼごぼと、泡が沸き立つ水中に、霊衛衆は放り込まれる。


 黒耀、白蛇御前、紫乃若宮、綾風姫の口の中に流れ込んだ水は塩辛い。

 海の水だ。

 あの、襖の荒海が実体化したのだと、霊衛衆は驚愕と共に思い知る。


 冷たい水はさしもの霊衛衆の体力をも奪い取るが。


「おい、おめえら。水の中で息と話をできるようにした。だが、この冷たさはやべえ。浮き上がるぞ」


 水の神・弁財天の化身、白蛇御前が、水中で花のように薄物を揺らめかせながら宣言する。

 特に溺れると慌てていた紫乃若宮など、急に息ができるようになっていることに気付かされて水中で小躍りする。


「やった!!! 白蛇さんのこういうところが好きです!! でも、寒いんですけど!! 海を湯にできませんかね?」


「できるかどうかも確認せにゃならん。アホなこと言ってねえで、水の上に出るぞ」


 白蛇御前がふわりと上に泳いで行こうとした時。


「……何か来るぞ」


 黒耀が素早く印を結ぶ。


「まずい……!!」


 綾風姫が水中で息を呑む。


 それはけばけばしい何かが、水の中を蠢いているように見える。

 大きな魚、ではない。

 小型のサメに似た、だがぬめぬめとした皮膚が様々な色彩に輝く、頭部に角のように、びっしり植え付けられた刃を持った魚だ。

 小さな人間に似た腕が生えているあたりが、モノであることの証左であるが、この状況ではまずい。

 まるで壁が動いているように、水の中を突き進んでくる。


「……オン・マカキャラヤ・ソワカ」


 星空のきらめきを宿した聖なる暗黒が、漁師の網のように広がる。

 水の中でも威力の減衰しないその暗黒は、突っ込んで来たそのモノ魚の群れを包み込み、いずこへともなく葬り去る。


「ああ、びっくりした……って、わあ!?」


 紫乃若宮がほっとしかけて、しかし水の中で飛び上がったのも無理からぬこと。


 そのモノ魚の群れの背後から、巨大な何かが突き進んで来たのだ。

 シャチくらいの大きさはあるであろう。

 上半身は、巨人のそれだ。

 そして下半身が、鉄の板のような鱗のある巨大な魚。

 水に巻き立つ頭髪の間から、一本の太刀のような長い角がそそり立っている。


「……道震!?」


 黒曜の声が珍しく震える。

 確かに、その上半身の巨人の顔は、道震のもののように見える。

 その半分魚の巨人が、太い腕を打ち振る。

 水の中を泡立てながら突き進んで来た腕から発射された弾のようなものは、まっすぐ黒耀に衝突する。


 衝撃。

 水がますます泡立ち、血の色が混じる。


「黒耀!! ちっ!!」


 白蛇御前はすれ違いざま、戟で道震だったものに一撃くれる。

 しかし、半魚人の体に纏った渦が、戟の攻撃を逸らす。


「あわわわ、黒耀さん~~~!!」


 紫乃若宮が気絶したらしい黒耀が沈まないように引っ張ろうとする。


「まずいですね!! ならばこれ!!」


 綾風姫が、差招くような仕草をする。

 と、いきなり霊衛衆の足元から、何か大きな硬いものが浮かび上がって来る。

 あれよという間に、霊衛衆全員は、その浮かび上がって来たものに支えられて、水の上に出る。


「アー!! なるほどぉ」


 黒耀を支える紫乃若宮が思わず感心したのも道理。

 いきなり彼らを掬い上げたのは、海底から浮かび上がって来た、島なのである。

 江の島くらいの大きさはあるだろうか。

 平べったく、砂浜の間にごつごつした石が見えている。


「これは……幻で島を造ったのか!! 上手いな、綾風!!」


 白蛇御前は、足元を確かめるように足踏みして、海を警戒しつつ、黒耀を振り返る。

 漆黒の直垂の袷の辺りが破れている。

 青白い皮膚に血の跡。


「でも、根本的な解決にはなりませんよ」


 綾風姫は唇を噛んで眉を寄せる。


「あのモノに変じた道震をどうにかするようなものではないんですから。それに、あの襖絵を現出できるなら、他の絵があれば、別の風景に我らを取り込めます。それこそ、散々な目に遭った地獄とか」


 白蛇御前と紫乃若宮は顔を見合わせる。

 どっちも青ざめているのは寒いせいか。


「ちょっと黒耀さん、起きてください!! ええっと、確か前にこの人にもらった、薬師如来の万能薬ってあったはず」


 紫乃若宮がふところを探り、小ぶりな竹筒を取り出す。

 逆さにして降ると、深い黒色の丸薬が落ちてくる。


「黒耀さん、これ……!!」


 紫乃若宮がぐったりした黒耀の口に薬をねじ込んだ時。


 大音声と共に、海が割れる。

 まるで跳ねるシャチのように、半魚人となった道震が海面から飛び出す。

 そのまま空中に浮かんだまま。


「まだ生きていたか黒耀!! そろそろ死ねぃ!!」


 両腕を突き出し、鉄より硬い水の弾を射出した、その時。


 不可思議な音と共に、暗黒の球体が水の弾を迎え撃つ。


「ちっ……!!」


 水の弾が消えた後、空中で舌打ちする道震の視線の先に、立ち上がった黒耀が印を結んでいたのだ。


「……確かに、お前は、その姿の方が強くなったやも知れぬな」


 黒耀は、哀し気な溜息をつく。


「お前にはわかるまいよ。恵まれて、そもそもの始めから醍醐寺に期待されていたお前にはな!!」


 道震の拳が打ち下ろされ、雨のような水の弾丸が幻の小島全体に撃ち下ろされる。

 しかし、それは島から膨れ上がった暗黒のきらめきの中に、残らず吸い込まれる。


「……オン・マカキャラヤ・ソワカ」


ぶわりと膨れ上がり花開いたような聖なる暗黒が、モノと化した道震を飲み込み、消し去ったのだ。


「あー!! やったぞ!!」


 煌めく暗黒を見上げ、白蛇御前が叫んだ時。


「……えっえっえっ……なんですここ?」


 紫乃若宮が、突如変わった風景に、怪訝な顔を見せる。

 いきなり夜になっているそこは、点々と橙色の灯火が灯る、不可思議な場所であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る