其の参拾漆 弁財天の船

 その「島」は、七里ガ浜の沖に、いつの間にか浮かび上がっている。


 浮かんでいると言っても、江の島のように、海の上に顔を出している島ではない。


 夜空の只中に浮遊しているのだ。

 どこからか持ってきた島が、鎌倉の沖合の空に浮いているという状態である。


 その島は、ぼんやりと鬼火のような灯りを灯した威容を、傾いた月の下に曝して、あり得ない姿を鎌倉に住む者たちに見せつけている。

 明かりの具合から、かなり大きな、寺院のような建物が備えられているようだ。

 その周囲にぼんやり光る奇怪なものがうようよ飛び交い、鎌倉の海辺からその異様な島を見上げる者は、恐怖に震え上がったのである。



◇◆◇



「おい、あの島って、どっから持ってきたんだよ? どっか別の場所にある島を、海の底からひっぺがして、無理やりこっちに持ってきたのか?」


 本拠地ともいえる江の島から、宙に浮かぶ島を見上げる白蛇御前は、呆れたように嘆息している。

 周囲に華麗な弁財天を祀る寺院が軒を連ね、香の煙が立ち込めている。

 本来ならこの時間だったら、江の島の僧侶たちも眠りに就いているはずだが、何せこの異常事態に対し、仏尊に祈ることで危難を脱しようと、島を挙げての祈祷に没頭している。

 霊衛衆たちがいるのは、江の島の南西の縁だ。

 眼下にちらちら波が寄せるささやかな浜がある。


「あの島は、この世のものではありませんよ」


 白蛇御前に応えたのは、綾風姫。

 天狗の鋭い目で、ぼんやり鬼火に照らされる空に浮く島を見上げている。


「この世の島が空には浮きません。あれは、『呼ばれざる者』の領域にある島を、無理やりこの世にねじ込んでいるんです。いい度胸ですよね、江の島の沖ですよ」


 嫌悪に耐えかねる様子の綾風姫をちらっと見ながら、そわそわした様子なのは紫乃若宮である。


「あそこにいますよ。その道震っていうデカイ人。多分待ってますよ……」


 紫乃若宮は、思わずというように、黒耀を振り返る。

 黒耀本人は、腕組みをして、その島を睨み据えている。


「霊衛衆の我々を……というより、あの人、黒耀を待っているんです。何ていうか、満を持して叩き潰してやるっていう勢いですね、道震って人」


 黒耀を恨んでいるのが伝わります。

 単純に恨んでいるっていうよりも、まるで生き別れになった家族に会いたいみたいな熱烈さで再会を望んでいるんですよ、気味悪い。

 紫乃若宮は、理解し難いであろう道震の妄念が伝わったのか、ああ、ヤダヤダと鳥肌を立てる。


「……行ってやるしかあるまい」


 黒耀は、静かにそう呟く。


「……奴が『呼ばれざる者ども』の一員となった理由の一つが、我の存在なのだとしたら、我が始末をつけるしかない。本来、あそこまでの地位に昇り詰める前に、見つけて始末をつけるべきであった」


 黒耀は重い溜息をつく。


「仕方ねえさ。おめえが鎌倉に阿野全成様と一緒に下った時期なんて、今の鎌倉が出来上がる時分に当たっていて、到底京の状況を振り返ってる暇なんかなかっただろ」


 それにどの道、今始末を付けられれば、そいつがいなくなることにゃ変わりねえさ。

 白蛇御前は、彼女らしい大雑把さで断言する。


「なあ、そうだよな!!」


 白蛇御前は、まるでそここに誰かいるように、清らかな波の打ち寄せる海辺を見やる。


 海の底に差し込む月光のような、妖美な光が、その小さな浜に差す。

 その光の輪の中に、麗しい異国風の薄物の女の姿が浮かび上がる。


 いや。

 人間ではあり得ぬ高貴さと美しさ。

 そこにいたのは、水の光を従える、麗しき弁財天である。

 うっとりするような輝きと、極楽の香りを纏う女神は、空中に浮き上がりつつ、白蛇御前に笑いかける。


『敵は目前です、我が子と、その同胞たちよ。しかし、あの島にいる奴らは、今までのような愚かで弱い者たちではない。気を抜かずに』


 弁財天が浜に手を差し伸べると、輝く船が、何の支えもなく空中に浮かんでいる。

 豪壮な大型の船、まるで財宝を積み込んであるかのように、表面はつややかに仕上げられている。

 ちょうど、今霊衛衆のいる高台から乗り移れる高さに甲板がある。


「おう!! ありがてえや、弁天様!! 行ってくる、勝って来るからよ!!」


 白蛇御前が真っ先に弁財天の船に乗り込む。

 一礼して綾風姫、そしていそいそと紫乃若宮、最後に合掌した黒耀が乗り込む。


「さあ、行くぞ!!」


 船は、白蛇御前の号令を理解したかのように、誰に操られるわけでもないのに、あの穢れた島に向けて空中を進んでいったのである。



◇◆◇



 ぼんやりとした、鬼火の群れが、瘴気の立ち込める空の中に無数に浮かぶ。

 単に鬼火というより生き物の群れのように、それは一丸となって、弁財天の船に近づいて来る。

 帆を燃やそうと言うのだろうか?


 だが、その鬼火が船体に触れる間もなく、無数の光の粒に分解されて空中で消えて行く。

 弁財天の船が帯びる、弁財天そのものの清浄さが、穢れた鬼火を寄せ付けず、進むだけでそれらを分解していくのだ。


「うわああああ、凄いですよ!! 流石弁財天様のご加護!! 瘴気をものともしてないじゃないですか!!」


 紫乃若宮がきゃあきゃあ騒ぐ。


「でもね、何か近づいていますよ。誰かいますね大物が……」


 紫乃若宮が、はっと振り向いたその時。


「随分物騒なモンを持ち込むじゃねえかヨ、ん?」


 弁財天の船の周囲を、何か巨大な洞窟のようなものが、瞬時に覆ったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る