其の拾伍 畜生道
「おい、ちょっと待て。高橋二郎が餓鬼道にいないってさ。どこ行ったんだよ!? 現世に戻っちまったってことか!?」
白蛇御前が叫ぶ。
彼女ばかりでなく、綾風姫も黒耀も、思わず顔を見合わせる。
しれっとした顔をしているのは、紫乃若宮だけだ。
「いいえ。これは違いますね。他の六道に渡ってしまったんですねぇ」
アーヤレヤレと大儀そうに、紫乃若宮は背中を伸ばしている。
「……他の六道というと、具体的にどこだかわかるか、紫乃」
黒耀が静かな表情のまま、問いただす。
相変わらず表情が読みにくい男であるが、もしかしてこれは予想していたのかも知れないと思わせる雰囲気。
「ああ……言わないと駄目です?」
嫌そうに顔をしかめる紫乃若宮を、黒耀はじっと観察している様子。
「……その表情だと、天道や阿修羅道ではなさそうだな。餓鬼道と同じくらい汚穢な……畜生道かあるいは地獄道か」
じっと闇を映す水面のような静謐な目で見据えられて、紫乃若宮は鳥のように首をあっちに向けたりこっちに向けたり。
「紫乃さぁん。よかったらこれ、まだありますよ」
「あー……そうですねえ、これは畜生道だと思いますよ。獣の群れが見えます。高橋二郎ってこの人だと思いますが、何か変な馬に乗ってどこかへ行くんですね」
黒耀は、綾風姫、白蛇御前と顔を見合わせる。
「……畜生道の中でも、更に移動していると? どこへ行くつもりか」
「畜生道に通じている何者かが隠れてるとか、そういうのか?」
「呼ばれざる者ども」なら、そういう奴もいそうだけどなあ。
白蛇御前は、きゅっと顎をこする。
「畜生道でしたら、常にいつ殺されるか怯える殺し合いの世界で、心が休まらない……餓鬼ほど大人しくありませんよ。一斉に襲い掛かってくるでしょうね」
綾風姫が畜生道を端的に解説する。
「そもそも、この人たちって、六道を歩き回って何してるんですかねえ」
もきゅもきゅ干し柿を食べている紫乃若宮が、めんどくさそうに呟く。
「つうか、誰に命じられて六道を歩き回っているんですか。高橋二郎に命令していたのは、見紫兼徳ではなかった訳でしょう? では誰が?」
私にも見えませんよ、力の強い何者かがいるはずです。
紫乃若宮が断言する。
黒耀が短く息を吐く。
「紫乃若宮に見えない者はどうしようもない。地道に奴らを追うしかなかろう。さて、綾風姫」
黒耀が、綾風姫に向かってうなずく。
「はいはーい、皆さん、畜生道に向かいますからね。私の周囲に集まってください」
綾風姫が手を振ると、霊衛衆のい面々が彼女の周囲に集まる。
綾風姫が翡翠色の翼を広げると、一陣の風と共に、四人の霊衛衆の姿が搔き消えたのである。
後には、嘆く餓鬼の群れの、遠い呻きが残るだけ。
◇◆◇
「わああああ、だから嫌だったんですよお!!」
その谷に出て、いきなり叫んだのは、やはり紫乃若宮である。
骨の転がる、荒れ果てた谷底。
無数の石が転がっているが、水はない。
その谷底に、両側の山肌から、黒い群れが押し寄せてきている。
濁流のように山を下って来るのは、しかし、水ではない。
獣の群れだ。
熊である。
無数のツキノワグマに似た、しかし、象ほども巨大な熊の群れが、地響きを立てて谷底に出現した新たな肉、要するに若者姿の霊衛衆の四人に向けて殺到したのである。
「はいはい、こんなこともあろうかと」
綾風姫が白い手を振り上げる。
と、巨大熊の群れの前に、いきなり彼らの巨躯をも防ぎ止める巨大な石壁がそそり立つ。
一瞬で土砂崩れでも起こったように、いきなり目の前に石と土砂の壁ができて、先頭の熊は思わず立ち止まる。
しかし、背後の熊の勢いは止まらず、先頭を押し潰す。
押し潰された先頭列の熊たちはひっくり返されて倒れ、傷がつく。
血の匂いに興奮した熊たちは、仲間にも食いつき、食いちぎり始める。
一瞬で、谷底の渦巻く熊の群れは、阿鼻叫喚の共食い地獄と化す。
手当たり次第に食いちぎる、その狂宴は、いつ果てるともなく続いている。
「ああ~……げっそりしました。ヤダヤダ、餓鬼の皆さんが可愛く思えてきましたよ」
山の斜面、谷を見下ろす切り立った崖の超常付近の岩棚に、いつの間にか移動していた紫乃若宮が、眼下の地獄絵図を評する。
彼だけでなく、綾風姫も、白蛇御前も、黒耀もその岩棚に腰を下ろしている。
「これは、餓鬼道よりも危険な世界だな。高橋二郎はここで何をしようとしているのか」
黒耀は、どこか悲し気な溜息と共に、怪物熊たちの群れから視線を逸らす。
「今、高橋二郎ってどこにいるのですかね。この世界じゃ、あっという間に食い殺されそうな気がしますけど」
自分が幻を駆使して作り出した、熊どもの共食い地獄を見下ろし、綾風姫は紫乃若宮を振り向く。
「それがですねえ。わからないんですよ」
紫乃若宮が、目の間を揉みながらこぼす。
全員の目が彼に向く。
「誰か力の強い人と一緒なのはわかるんですけど、それが誰かはわかりません。高橋二郎とどういう関係なのかも」
残り三人が顔を見合わせる。
「でも、誰か頭と一緒なのは確かなんだな? 近づいて来てはいるってことか」
白蛇御前が薄日に反射する剣を、空に掲げる。
ふむ、と黒耀が指を唇に当てる。
「奴らは、我らをこの六道に引きずり込み、亡きものにしようとしているのかも知れぬな。ただ、それを実行できるだけの力を持つ者が誰なのかが気になる。手がかりがあればいいのだが」
と。
鋭い鳴き声と共に、空が暗くなる。
見上げた頭上に、視界を覆うような巨大な翼の鷲が、鋭い爪を蹴立てて舞い降りて来ようとしていたのだ。
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