其の弐 過去と今の事件

『全成(ぜんじょう)、この者は何者だ? 信用できるのか』


 かの源頼朝(みなもとのよりとも)が、不意に黒耀の方に高貴な顔を向ける。

 この時点では後の栄達など、まだ誰も正確には予想していなかった頃。

 黒耀は、鷺沼のその屋敷に、修行僧の黒衣で控えている。

 目の前には、「主」である、阿野全成(あのぜんじょう)。

 頼朝の異母弟であり、彼も人目をはばかるために、黒耀のと似たような修行僧の衣装を身に纏う。


 ゆらゆらと、灯が揺れる。

 頼朝の豪奢な鎧直垂が、金色の光を跳ね返す。

 阿野全成は、くっきりした顔立ちを、静かに兄の前で下げる。


『わたくしめが、醍醐寺から連れ出しました。以前から目をかけておりましたゆえ、裏切るようなことはあるまいと思われます』


『わざわざ醍醐寺から? 戦力になると、そういうことか』


 頼朝は怪訝そうだ。


『それだけのことではございません。人相手の戦よりは、モノ相手の戦に長けた傑物にございます。醍醐寺にとっては、いささか厄介な隠し玉といったところでございましょうな』


 異母弟の朗らかといえる笑い声に、頼朝はますます怪訝な顔。


『それはどういうことじゃ』


『真言の秘術に、宿神秘法(しゅくしんひほう)なるものがございます』


 阿野全成は声を潜める。

 頼朝は身を乗り出す。


『神仏の分霊を、像やご神体ではなく、人の生身に宿すのです』


『なんと。こやつがそうだと……?』


 頼朝は、流石にぎょっとした顔になる。

 仏像なら見慣れているが、人間の体に神仏の御霊が封じられた存在というのは、初めて見たはずだ。

 黒耀は、無礼に当たらぬよう、丁寧に頭を下げる。

 剃り上げてはいない、たぶさのままの黒髪が、動きに応じて滑り落ちる。


 不意に、ごう、と数本の灯火が大きく膨れ上がる。

 広がった灯りに照らされて、黒耀の影が壁に……

 いや。

 それは、黒い魔神である。

 逆立った髪に、片手に死んだ山羊を下げ、象の生皮を天蓋のように掲げた……


 頼朝は、あまりのことに息を呑み、震え上がる。

 まじまじと見開かれた彼の視線の先で、灯火が元に戻り、魔神の影も、元の平伏した修行僧の姿となる。

 ぷはっと、思わず息をつく、後の鎌倉殿である。


『これなるは、大黒天を宿した者。大黒天が常時顕現しているのと同じこと。兄上のこれからなさろうということを考えれば、以後呪詛の類やモノを退けるなど、そういったことにも心を砕かねばなりませぬ。その点、神仏の生き身であるこの黒耀を傍に置けば、下手な呪詛やモノは近づけもせず』


『うむ、でかしたぞ全成!! よくぞ先を見据えて、こうした者を連れて参った!!』


 頼朝は、呪詛もモノも恐れるに足らなくなったという認識に至ると、色白の顔を輝かせて大きく膝を打って喜色を表す。


『この者は兄上に御譲りいたします。兄上の身辺を護るのにお使いくださいませ』


『うむ、有難く使わせてもらうぞ!! 黒耀と申したか、これへ!!』


 頼朝に手招きされ、黒耀は御前へ進み出る。

 これからの人生がどうなるのか、彼自身にも、しかとはわからないまま。



◇◆◇



「これは……」


 さしもの黒耀でも、ぎゅっと顔をしかめざるを得ない、その場所の惨状である。


 赤々とかがり火が焚かれているその草原の一角。

 椎の立木の根本と周囲の草が、べったり濡れている。

 かがり火より赤い――血だ。

 濃い赤が闇に沈んで、沈痛な濃い色をなし、禍々しい臭気が、周囲に立ち込めている。


「あああ!! だーかーらー、時実さんに言ったのに!! 家中の方々にもよくお願いしておきましたのに!! 今日は“絶対”外へ出てはならないって!!」


 紫乃若宮が、烏帽子を振り乱して叫ぶ。

 彼の周囲の、黒耀も、白蛇御前も、綾風姫も、その言葉を無言で肯定しているのが目に入る。


「家の裏の空き地だからいい、家の中みたいなもんだと思ったんですか!! わたくしは、“家屋敷から一歩も出るな”と申し上げたのに!! なんであの方は!!」


 そういうことをわきまえない方ではないのに。

 何故に今夜に限って。


 叫ぶ紫乃若宮の背中を、黒耀が叩く。


「……その家中の者に呼び出されたらしい。屋敷に詰めていた家臣の一人が姿が見えぬと」


 かがり火で照らされる空地に、何人も小者が武器を持って立ち、草を分けて調べている。

 何を探しているのか明白ではあるが。


「執権様は?」


 荒事には慣れ切っている白蛇御前も、流石にこの事件の異常性には眉をひそめている。


「流石に屋敷にお帰りのようですよ。我が子が家のすぐ傍で殺められたとあっては」


 翡翠の翼の綾風姫が、扇で口元を隠す。


「それに加えて、時実様の首を持っていかれたとあれば」


「武蔵大路の事件は陽動だったということだ。やられたわ」


 黒耀は幾度目かになる重い溜息をつく。

 実は、この件は託宣の神、八幡神の御子である紫乃若宮が予見していた。

 執権・北条泰時の次男、北条時実に凄惨な死の予兆が出ていると。

 執権と本人に強く警告し、数日は家屋敷から表に出ないように、時実本人には重ねて言い含めたのだが。


「……しかし、どんなに正確に未来を予見していても、警告されたご本人様が、禁を破ってしまわれれば、我らになすすべはない。霊衛衆を執権様の屋敷から引き離す工作をされたなら猶更だ」


 と。

 草を掻き分けて、小柄な小者が一人、黒耀に近づいて来る。


「霊衛衆の皆様、執権様が屋敷に来ていただきたいと」


 鎌倉を護るのが役割の、その面々に、執権から声がかけられたのだ。

 彼らは、互いに顔を見合わせ。


「……行くぞ」


「はあ、今度は時実様の御首がどこにあるか予見しなきゃならないんですか。あー、もー、こうならないようにって……」


「しかしなあ。子が家臣に首を掻かれた親に、何て声をおかけすりゃあいいんだろうな?」


「この件を解決するだけですよ。それしかありますまい」


 四人がそれぞれの考えを口にしながら、夜中なのに明かりの灯された執権・北条泰時の屋敷に引き上げて行ったのであった。

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