霊衛衆遺文

大久保珠恵

其の壱 月夜の出来事

 月に掛かるかと思わせる程の、そそり立つ岩壁が、その大きな谷を成している。


 いや。

 谷ではない。


 それはこの鎌倉に住む誰もが、一度は目にしたことがあるであろう、武蔵大路の踏み固められた路面だ。

 若宮大路が整備されるまでは、この道が鎌倉の中心を貫いていると見做されていたという。


 しかし。

 そこは今や、深い谷底である。


 何せ、両側の御家人の屋敷さえ、門を構えることを禁止されていたにも関わらず、本来なら溝のあるあたりにかけて、まるで切通しのような深い崖が切り立っている。

 黒々したその断崖の底から見上げると、細く切り取られた夜空に、望月を過ぎたぽってりした月が引っ掛かっている。


「さて、これで逃げられませんよ!!」


 思慮深い女の声が、頭上から響く。

 月と崖をかすめて、艶やかに輝く、翡翠の翼が夜空を横切る。

 それは夜空を焦がす鬼火のような妖美な輝き。


『オォオォォオォオォォォ……』


 何とも奇怪な、うめき声とも咆哮ともつかぬ大音声が、にわかに現出した谷底の空気を震わせる。

 妙に人間臭いように思えるのだが、極めて獣じみているとも表現できる、荒くれた絶叫。


「それ」は、その谷底に、異様な姿を晒している。


 恐らく、この鎌倉の誰もが見たこともない生き物であろう。

 そのどろどろした肢で支えられた巨躯は、二丈以上もあろう。

 目の前にいる数人の者たちから見れば、まさに「小山のような」図体の怪物である。

 まるで悪夢の中の光景のような、生白い人間の顔を、人間一人分ほどの大きさに引き延ばした頭部。

 ごろごろした歯らしきものが生えた口がやけに大きく、真っ黒な口腔から腕のように先が分かれた舌が生えている。

 泥を積み重ねたような全身のあちこちから、やはり泥を纏った枝のような腕が何本も生えて、自分を閉じ込めている崖を引っ掻いている。


「こいつぁ、デカイね。随分使い込まれた髑髏本尊って訳かい」


 白糸威の鎧を纏う姿が、ふんと鼻を鳴らすのが聞こえる。

 背は高いように思えるが、女であるらしいことは、その声から判別できる。

 その手に、異国風の炎のようにうねる戟を構え、極太の矢のように飛んできたモノの腕の一本を斬り飛ばす。


 絶叫。

 斬り飛ばされた腕の切り口から、汚れた肉が、白くきらめく銀砂のようなものに変じて、ぼろぼろと崩れていく。

 地面に付く前に、それはどこへともなく掻き消えて行く。


「ええー。よろしいかな。皆の者。わたくしは、いやしくも八幡神の御子なのであるよ。こんな汚らわしいのに近づくのも嫌だっていうか」


 ぶつぶつ愚痴りながらも、弓矢を構えたのは、紫と白の狩衣の、高貴な面差しの貴人である。

 京から下って来たのかと思わせる雰囲気だが、どこか雰囲気がのほほんとしていて、まるで緊張感がない。

 まだ何事かぶつぶつ言いながら矢を放つ。


 爆発音が大気を震わせる。


 モノの汚泥のような胴体の半ばが吹き飛んでいる。

 巨大すぎる頭も一部がかけて、めらめらと青い炎を上げている。


「……これほどまでに成長した髑髏本尊の化け物が鎌倉にあったということ自体、我ら『霊衛衆』の失態であるな……」


 黒い直垂、髪をたぶさに下げているという変わった風体の男が、妙に染み入る声で呟く。

 まるで頭上の夜闇を映したような瞳に、月光そのもののような白い肌が、どこか人間離れした雰囲気を醸し出す。


 彼の目の前で、モノが荒れ狂っている。

 傷の痛みに耐えかねて、まるで鉄砲水の中身のように、荒れ狂う何本もの腕が……


 まるで、本当に地上に夜空が現れたかのようである。

「煌めく闇」とでも言うべき漆黒が、その黒衣の人物を覆うようにぶわりと広がる。

 それは汚れに満ちた谷底を満たし浄化し、夜空に呼応するように清浄な光を返す。


 万年の闇の彼方から、呼びかけるような摩訶不思議な音。

 次の瞬間、そこにあの奇怪なモノの巨体は、きれいさっぱり消えていたのである。


「ああ、流石黒耀阿闍梨(こくようあじゃり)。見事ですね」


 翡翠の翼を背に負う、女の姿の天狗が、夜空から舞い降りて来る。

 深窓の姫君のような気品。

 彼女が地面に降り立つと同時に、大路の両脇にそびえていた断崖が、まるで最初から幻であったかのように、薄れ、瞬き一つ二つもせぬうちに消える。


 後は、月に照らされた、御家人たちの屋敷の並びが、夜の合間にうずくまっているばかり。


「今度から、黒耀だけ出張らせればいいんじゃないのかい?」


 白糸威の女武者が、戟をとんと肩に担ぐ。


「白蛇御前さんの仰る通りじゃないですか。あー!! ヤダ汚らわしい!!! わたくしこういうの苦手だって、皆さんご存知ですよねえ!!!」


 身震いするのは、狩衣の貴人。


「紫乃若宮(しのわかみや)さんの仰ることはわかりますけど。何かあった時の証人としても、何人かで出向いた方がいいんですよ」


 この辺、古株の御家人さんたちのお屋敷があるところですからね。

 私も気を遣いますよ。


 翡翠の天狗が溜息をつく。


「皆、ご苦労であった」


 黒い直垂の、黒耀と呼ばれた男が振り返る。

 阿闍梨とも呼ばれていたようだが、どう見ても僧には見えない。

 まあ、そんな者は珍しくないが。


「綾風姫(あやかぜひめ)、一足先に御所に戻り、モノは消したということを執権様にお伝えしてくれ」


 翡翠の天狗にそう水を向けると、綾風姫と呼ばれた彼女は穏やかにうなずく。


「承知いたしました。では、御先に」


 一陣の風と共に、綾風姫と呼ばれた天狗の姿が搔き消える。


「我らは、伏兵でもないか確認してから戻る。どこの屋敷から出たのか……」


 言いかけ。

 ふと、何かに呼びかけられたように、黒耀と呼ばれた阿闍梨は、夜空を仰いだのであった。

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