夜釣り
雨野榴
夜釣り
急に気温が上がって寝苦しくなったので、近所の池に夜釣りに行った。
確か越してきたばかりの頃は青々とした水草がたくさん浮いていて、端の方には蓮の葉も見えた。それが近頃はなんにもなくなって、茶色と灰色を混ぜたような水面に時折小さな泡が弾けている。
元凶は分かっている。誰かが放したアメリカザリガニである。
気づいたのはつい最近だった。そういえばこの池もずいぶん変わったなと池を囲む散歩道から覗き込んだ時、護岸のコンクリートに何匹かひっついているのを見つけた。以前テレビで奴らが水草を食ってしまうと言っていたのを思い出し、なるほどそういうことかと勝手に納得した。
同時に、何とかした方がいいとも考えた。たとえこれからあの池に水草を増やそうとしても、あいつらがいる分には刈り取られてしまう。いたずらにサラダバーを提供したくはない。
それで、機会があればあいつらを釣り上げて数を減らしたいと思っていたのである。
冷蔵庫で見つけた乾きかけのちくわをちぎって凧糸に括り付け、園芸用の支柱にぶら下げた。
ザリガニ釣りは初めてで見よう見まねだったが、驚くほど簡単に釣れた。
ポチャリという心地よい音とともに沈んだちくわは濁った水ですぐに見えなくなるが、途端に水面から伸びた凧糸が不自然に揺れ始め、そっと引き上げればザリガニがちくわを抱え込んで恨めしげにぶら下がっている。ちくわもひと切れで案外待つので、あっという間にポリバケツからはザリガニ同士がぶつかり合うカシャカシャという音が止まらなくなった。
ちくわ二本がなくなるまで。そのつもりでいたのに、このままではバケツがいっぱいになっても二本目は無事というのもありうる。大体、数匹なら飼うつもりでいたがこの数はどうしたものか。
考えている間にも、ザリガニは几帳面に一匹ずつ引き上げられていった。
一本目のちくわがようやくなくなった頃、流石に手を止めた。バケツの音はすでにガシャガシャに変わっている。これ以上は誰も幸せにならない。だいたい考えてみれば、確かに水草を全滅させたのはこいつらだろうが、ここにいるのはこいつらの意思ではない。逃すわけにいかないとはいえ飼える数には限界があるし、埋めるのも食べるのも胸が痛む。
散歩道沿いのベンチに座り途方に暮れて釣ったザリガニを覗き込んでいると、微かな声で「もし」と話しかけられた。
耳を澄ますと、道の先の暗がりから誰か近づいてくる足音がする。つい懐中電灯で照らすと、「うわ」と言って茂みに逃げ込んだ。
「あ、すみません」
慌てて懐中電灯を自分の足元に向けると、その人は恐る恐るといったふうに歩いてきて、
「もしやと思うのですが、ザリガニを釣ってらっしゃったんですか?」
「はい。寝られなかったので夜釣りでもと」
「やはり」
暗がりにぼんやり浮かぶその姿を間近で見て、思わず「あ」と言ってしまった。
その人は夜の人だった。
夜の人たちは強い明かりが苦手で、もっぱら夜の間に出歩いているという。この近くにも住んでいると聞いたことはあったが、会うのは初めてだった。
「おや、夜の人は初めてですか」
彼とも彼女ともつかない夜の人は、私を安心させるように少しだけ後退るとなぜか愉快そうに言った。
「ええ……聞いてはいましたが、まさかこれほどとは」
夜の人は黒いと知ってはいた。しかし、まさか夜より黒いとは思わなかった。
ほのかな明かりを受けたところはまだそこに何かあると分かるものの、闇に沈んだ頭や肩はあまりにも黒く、夜の木陰の方が反対に浮かび上がって見えるほどだった。
夜の人はそうでしょう、みんな驚くんですといたずらっぽく笑うと、「びっくりさせてすみませんね」と軽く頭を下げた。私も「失礼しました」と頭を下げ返してから、はたと気づいて懐中電灯を消した。
「このほうがいいでしょうか」
「そうですね。わざわざありがとうございます」
表情は見えないが、多分微笑んでいる気がした。
「それで、ザリガニなのですが」
夜の人はガシャガシャと蠢くザリガニを指差した。
「私にいくらか譲っていただけませんか?」
「ザリガニを?なんでまた」
思わず問い返す私に、微かに街の光を揺らめかせている池を眺めながら夜の人はしみじみと語り始めた。
「私は夜の人なので、日中外を出歩けません。なので寝ているしかなくて、基本動くのは夜になります。しかし夜は人が少ないですし、人の多いところは眩しくていけません。リモートワークとかで時間に関係なく働けるものの、パソコンの画面は一番暗くしても少し辛いものです」
「ふむ」
「すると、何だか自分が悲しくなってくるのです。みんなが良かれと思って明るくしているのを迷惑に思ってしまう自分が、どうにも申し訳なくなってしまうのです」
「それは……分かる気がします」
「ふふ。ありがとうございます。それでですね、思ったんです。何かみんなのためになって、自分も嬉しいことをしたいなぁ、と。そんなことを考えながらいつものようにここを散歩していると、いつの間にか池の水草がなくなっていることに気がつきました。まさかと思って池を覗くと、ザリガニが沢山います。それで飼うことを閃いたんです」
「なるほど。そんな時に私を見つけたんですね」
「はい」
どうやら相手にとっても渡りに船らしい。これほどまでにみんなが幸せになる方法はそうそうあるまい。私は傍のバケツを覗き込むと、夜の人に大きく頷いた。
「それなら私も助かります。実は釣りすぎて困っていたので。何匹か選んで残りを埋めるというのも心苦しくて……」
すると夜の人も見るからに嬉しそうに手を打ち合わせて、
「でしたら、その何匹か以外は全部もらいますよ!」
「いいんですか?」
「ええ、多い方が何だかいい気がします。大丈夫、庭に使ってないバスタブがあるので。素敵な住みかにしてみせます」
それを聞いて、私は自分が飼うハサミが手頃な大きさのザリガニを一匹選ぶと、残りはバケツごと夜の人に譲ることにした。
「ありがとうございます。きっと大切に飼います」
「あ、そうだ。一本だけですが、これも」
そう言ってポケットから取り出したのはちくわの袋。あれほど食いつくのだからザリガニにとっても美味いに違いない。
お礼を言いながら去っていく夜の人が暗闇に溶けて消えるまで見送ると、左手に目を落とした。
「さてと」
左手では選ばれしザリガニがもがいている。
私は一刻も早くザリガニを水槽に入れるために、懐中電灯と竿を掴むと家に向かって走り始めた。
家路を駆けながら、うちも大きな水槽を買おうかと考えた。
夜釣り 雨野榴 @tellurium
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