第5章 天帝の兎 Vol.1
(どうせ、あたしの眼は赤いわよ。不気味だわよ。泣いたら光彩だけじゃなくて白眼まで赤くなるわよ。それこそ『人間じゃない』って言われるほど気持ち悪いわよ。だけど望んでこうなったんじゃない!)
みちるは連続して打ち出されるパチンコ玉のように、頭の中で喋り続けていた。沈黙してしまったら、そのまま二度と立ち上がれなくなりそうだった。
(気力で立ってるって、こういう時に言うんだわ)
そう思ったものの足はもつれ、かすかなアスファルトの
「おっとぉ!」
みちるは見事な掛け声をかけて転んでしまった。
(公衆の面前で、掛け声かけて転んじゃったぁ)
四つん這いになったまま、恥ずかしくて顔を上げることもできず
(どうしよう。顔を上げるのが怖いわ。きっと誰かが見て笑ってるわ)
みちるは眼にたっぷりと溜まっていた涙が、頬を伝って流れ落ちていくのがわかった。
(こうなったのも、みーんなあいつが悪い)
みちるは思わずこぶしを握り締めた。
ぐにゅう。
右手が何か柔らかいものを
「うぇ?」
奇妙な声を発すると、反射的に身体を起こして座り込み、右手を持ち上げた。
「掴みましたねぇ」
「は?」
みちるは慌てて左手で、頬を流れる涙を拭き取った。
「私を掴みましたねぇ?」
それはどう見ても兎だった。ミニウサギという種類だ。白色で手の平に載るサイズだった。
それが、
「はぁ、溺れる者はわらをも掴む。と、申しまして……」
「掴みましたねぇ」
兎は再び確認するような声で言った。
「だから、えーと、転んでもただでは起きないと……、ほら、言うじゃないですか」
どうして兎に言い訳しなければいけないのだろう? と思いつつも、みちるはしっかりと言い訳をしていた。
「えらい。あなたはなにわの商人でしたか」
彼女に脇を掴まれた兎が、両手を高く挙げて叫んだ。
「ばんざぁい。ばんざぁい。ばんざぁい。ついに見つけました。あなたが、かぐや姫さまを見つける役目を、天帝さまより
兎は拍手をしながら喜んでいた。
みちるは兎に手をぱちぱち叩かれ、訳のわからない役目を、どこの誰だか知らない人から授けられて、嬉しがる奴がどこにいるかと思った。
やけに喜々とした表情でみちるを見上げている兎を見下ろし、「関わらないに越したことはない」という結論に達していた。
「
ぺこりと頭を下げ、小首をかしげて兎に愛想笑いをした。
「それはできません」
兎がむっとした表情で言った。
「なんでよ。要らないって言ってんだから、他の人にあげなさいよ」
「私を掴んだ」
兎は恨めしそうに彼女を見上げた。
(うっ、その赤い眼で見るな!)
みちるは思わず身を引いた。
「それは謝るわよ。掴む気はなかったの。たまたま手をついたところに、あなたがいたのよ」
「駄目です。私を掴んだ人でないと授けられてないんです」
「それじゃ、あんたを掴める人を捜してやるわよ」
みちるはようやく周囲のことを思い出した。
(そういえば、転んだんだっけ)
「うさぎちゃん」
突然、背中を叩かれた。
「どうしたの? あなた目立ってるわよぉ。そんな所に正座して何をしてんのぉ」
みちるはゆっくりと後ろを振り返った。中学生時代の女子同級生数人だった。赤い眼のみちるを「うさぎ」と呼んだのは、彼女たちが最初だった。
(ちっ! 嫌な奴らに会っちゃったわ)
みちるは心の中で舌打ちをした。
「久しぶりね、うさぎ。そんなところにいつまでも座ってたら、恥ずかしいわよぉ」
彼女たちは親切そうに言った。でも、本当に親切で言ったのではない。
「あんたたちに関係ないでしょう。さようなら」
みちるは彼女たちから眼を逸らした。
今のみちるに、彼女たちに勝てるものは何もなかった。
制服を流行の形にして身にまとい、ひとりはスマートフォンを耳に当て、楽しそうにキャンキャン声をあげていた。
その明るい声すらも、もうみちるには縁がなかった。
化粧をし学生鞄を小脇に抱え、流行のものはすぐに取り入れてしまう彼女たち。
それに比べてみちるは、真っ黒いサングラスをかけて、ジーンズにトレーナーだった。当然、化粧の「け」の字もしていない。
長い髪の毛は転んだ拍子に乱れてしまい、それを直す間もなく、兎との言い合いに突入していた。
「あら? うさぎが兎のぬいぐるみを握ってる姿ってかわいい」
彼女たちはみちるの手に掴まれた兎を見て笑った。
(どうして、こうも上手に人を傷つけられるんだろうか。こういうやつがごく普通に恋愛して、なんでもそこそこやるだけで、世の中うまく泳いでいけんのよ。適当に遊んで、適当に勉強してさ。それで腰かけ程度でも、結構いいところに就職すんのよ。こういうやつらは、生きるのが楽なんだろうなぁ。あたしなんか眼が赤いってだけで、気持ち悪がられてるってのにさ。その上、転んだだけで、変てこな兎に因縁つけられて。……ん? ……ぬいぐるみ?)
「は? ぬいぐるみ?」
みちるは握りしめている兎と彼女たちの間で、何回も視線を移動させた。
「そうよ。うさぎちゃんの眼には、同類は見えないのかしら。とにかく、さっさと立ち上がったほうがいいわよ。じゃあねぇ」
彼女たちは、手をひらひらと振ると行ってしまった。
(うそ……)
あれだけ馬鹿にされたのに、全く気にならなくなっていた。
みちるは兎をまじまじと見た。
確かにぬいぐるみだった。
「なんだ。ぬいぐるみだったんか」
ほっとして大きく溜め息を吐き、兎を持った右手を下ろした。
「に、見せかけた、私は生きてる兎です」
「なに?」
一度下ろした腕を再び持ち上げた。
「あなた、やっぱり兎だったんですね。私を掴める者は、兎しかいないですからねぇ」
兎は納得したように、腕を組んでうんうんとうなずいた。
みちるの中で、ほんのわずかの間冷めていた怒りが、再びふつふつと脳天に向かってマグマのごとく上昇してきた。
(兎に『兎』と呼ばれて黙ってるほど、あたしは優しくない。このまま地面に叩きつけてやる。コンクリートで首の骨を折って死んでしまえ。こんな奴に関わるのは、まっぴらごめんよ)
みちるは腕に力をこめた。
(だが待てよ。殺すのは良心に反する。いくらちっこい兎でも、殺したら寝覚めが悪いし、最近じゃぁ、ニュース沙汰にだってなりかねないわ)
(これはぬいぐるみだ。そうだ、彼女たちが言ったではないか。これはぬいぐるみなんだ。ぬいぐるみなら捨てればいい。そうだ。捨てちゃおう)
厄介者の処分方法を決めたみちるは、立ち上がろうとした。
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お読みいただきありがとうございました。
お時間がありましたら、同時公開している「SF小説」の方にも訪ねてみてください。よろしくお願いします。
https://kakuyomu.jp/works/16818093074758265076
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