創思創愛

小狸

短編

 


 そう思った私は、SNSアプリを閉じて、そのまま削除してしまった。アプリの情報自体は端末に残っているから、再度ログインすればすぐに使えるけれど、それでもほぼ無意識にそうしてしまうくらい、見ていられなかった。


 しんどかった。


 私は、ある漫画作品が好きである。


 大好きである。


 それは決して世間で大人気があるというわけではないけれど、コアなファンが多い作品であるように思う。


 原作と漫画で作者が分かれており、元々は、原作者のファンであった。


 原作者の先生は推理小説を主に書いており、私が若い頃かなり傾倒していた。今でも実家の押し入れに、その先生の過去作のほとんどが網羅されている。


 その先生が漫画原作をするというニュースをSNSで目にし、新卒一年目で仕事で疲弊していた私は、思わず目を光らせた。


 これは、見なければならない。


 追わなければならない。


 そう思った。


 流石に月刊雑誌を毎月購入するというのは、私の一人暮らしの部屋面積的には難しかったけれど、単行本は初版を買うようにしていた。

 

 読者アンケートこそ出さなかったが、キャラクター人気投票には応募した。私の好きな、『敵サイドではあり主人公とは敵対関係ではあるけれど、味方になると一転とても頼りになるダウナーな女の子』に投票した。


 そして連載開始から、三年が経過した――今。


 未だ地道な人気こそ絶えず、連載が途絶えるということは無さそうだけれど、徐々にその作品への感想が、二極化してきたのである。


 一つは、面白い、今まで通りの○○先生の作品だ、という意見。


 そしてもう一つは、つまらない、同じことの繰り返しだ、という意見である。


 まあ、まあ、まあ。


 この世の中である。令和となり、今までより一層、多様性という名の下に、色々な事柄が許容されるようになった。だから、そういう負の側の感想があったとしても、何らおかしくはない。「アンチがいれば一人前」という言説もあるくらいである(私はこの言葉はあまり正鵠せいこくを射ているとは思えないのだが)、その作品を見て、全員が面白いと思うことなんて不可能なのだ。


 しかし、しかし、しかし。


 得てして、そういう負の感想というものは、普通の、「良かった」という正の感想よりも、強い傾向にある。


 強いというのは、語気が強いとか、そういう意味ではない。

 

 何というか、目に付くのである。


 人間は元より、負の言葉、マイナスなことに引っ張られがちである。SNSでも「死ね」「殺す」と検索すれば、憎悪と嫌悪の言葉群が大量に見られる。そして現在、それは検索しなくとも、「おすすめ欄」に表示される。閲覧数や「いいね」の数、「ブックマーク」の数などで、より顕在化される。


 この辺りのメカニズムは――私は心理学を専攻したわけではないので良く分からないけれど、まあ端的に言うのなら、毎回最新話が更新される度に、アンチがその作品の中の瑕疵きずを呟き、それが大勢に拡散される――というのが、日常化してしまったのである。


 日常化。


 これは怖いもので、要するに皆が、その言葉の過激さや刺激に慣れてしまったということなのだ。だから、最初こそ擁護派の人と批判派の人でひと悶着ありそうな感じではあったけれど、徐々に慣れてきて、批判派の人々は多少キツイ言葉を使っても、誰も何も指摘しないようになってしまった。


 そして前述の通り、負の言葉というのは、印象に残る。


 ハートフルな日常描写あふれる物語がこれだけたくさんあるのに、未だいじめや虐待、差別や戦争がなくならないように、人は負の側に惹かれる性質があるのだろうと思う。


 結果、その作者先生の新刊を検索するためにネットの滂沱ぼうだの海に潜ると、期せずしてその人々の負の言葉に行き着いてしまうことが、日常的になった。


 嫌だった。


 勿論もちろん、ミュートした。

 

 ブロックもして、見えないようにした。


 しかし、その先生の作風からして、どこかで誰かが嫌なことを投稿しているのが、妙に目に付くようになってしまった。


 その度にブロックしてミュートしたけれど、負の感想がなくなることはなかった。


 私に見えないというだけで、負の感想自体は、世に流れているのである。閲覧数を稼いでいるのである。

 

 それが――嫌だった。


 いや、いや、いや。


 分かっている。


 私の好きなものが、皆も好きであるという法則などどこにもない、むしろそれが共通している方が珍しいくらいだ、もし「好き」を強要するということがあればそれは批判派、アンチの人々とやっていることは同じである、「嫌い」だと「私」が不快だから自分の意見を、感想を、曲げろと言っているようなものなのだ、そんな無茶を顔も知らぬ他人に要求するほど子どもではない、それでも世の中でどこかの誰かがその作品を陥れようとしているのではないかと思うと、不安でSNSに齧り付いてしまうこともあった。


 それで不眠気味になったこともあった。


 分かっていても、根っこの所では、納得できないのだ。


 私はこんなに好きなのに、そうしてそんな酷いことを言うのか。


 ある日、何となく投下した投稿に、「いいね」が多く付いていた。


 その日は件の漫画の新刊の発売日だった。きっとアンチの人々は、雑誌から単行本にされるにあたって修正された箇所を探し、粗探しをして、また非難するのだろうなとか、そう思いながら、漫画を読了した。


 やはり、面白かった。


 味方だったキャラが敵の思想に染まって敵になり、その敵と主人公が対敵しなければならないという――一見ベタではあるけれど、この原作者らしいひねくれと素直が同居した表現と、漫画家の先生の丁寧な描写も相まって、その主人公の葛藤が見事に表現されていた。


 私にはこの物語は、面白いと思えた。


 その思いの丈を、投稿した。


 すると、仲間内(フォロー内)の方々から、「いいね」がたくさんきた。


 私ももう社会人である、「いいね」の数程度で満たされるほど、稚拙な承認欲求は持っていない。


 ただ。


 ここで私は、ふと、気が付いた。


 遅すぎるくらいである。


 そうか、「好き」って、発信して良いんだ、と。


 今まで何となく、フォロー内で私がその先生を好きなことは当然だから、周知の事実だから――というくらいで、特に何も発信していなかった。


 しかし、でも、それならば。


 アンチの人々が、継続して作品を非難し続けるというのなら。


 私が、作品を好きだと言い続ければ良い。


 争う必要などどこにもない――ただ、お互いそうやって、違う見識を持ちながら、生きてゆけば良いのだ。


 幸いこの世は多様性を認めている。


 嫌いがあったら、好きがあってもいい。


 そう思えるようになった。


 それから一年後、その作品はアニメ化が決定し、より多くの人の眼に触れることになった。


 その中には、やはり不評意見も、負の感想も、ふんだんに含まれていたけれど。


 私は、その漫画を好きなままでいられた。


 そんな私を、好きだと思えた。


 それで、良いんだ。


 今日の深夜は、そのアニメの第三話の放送である。


 早めに寝て、明日仕事前に見ようと。


 お風呂に入りながら、私は思った。




(「そうそうあい」――了)

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