完璧な午後

呼杜音和

第1話

「苦手な食材や、食べられないものはございませんか?」


 店員の質問に、あんと絵理は軽く首を横に振って応えた。白を基調とした店内には午後の日差しが差し込んで、いっそ眩しいくらいだった。窓辺に置かれたベンジャミンの葉が、つややかに輝いている。


 週に一度、二人はこのレストランでランチを共にし、近くの幼稚園に子供を迎えに行く。ママ友は他にもいるが、杏と絵理には共通点も多く、二人だけで過ごす時間はお互いにとって心地よかった。


「ああいう風に聞くレストラン増えたと思わない? アレルギーを気にしているのよね」


 ミネラルウォーターを一口飲んでから、杏が言った。


「給食で、アナフラキシーを起こして亡くなった子がいるものね」


 絵理が沈んだ顔で頷く。

 子供が事故や事件で命を落としたニュースを聞くと、居たたまれない気持ちになる。日常のもろさを突き付けられて、我が子の安全にまで影が差したような気がするからだ。


「実は大学の先輩が、アレルギーで亡くなってるんだよね」


 絵理が打ち明けるように言うと、「え! そうなの?」と杏がただでさえ大きな目を見開いた。はしたないかなと自分でも思いながら、くい気味に聞く。


「何のアレルギーだったの?」


 大学生なら、もう子供ではない。重くなった空気を払拭したかった。


「蕎麦アレルギーよ」


「蕎麦はきついらしいよね」


 眉を寄せて頷く。


「でも、不思議なの」


 そう言って身を乗り出した絵理の瞳は、不思議な色を湛えていた。


「何が不思議なの?」


 杏もつられて前屈みになる。


「実はね、その時先輩は、……」


 もったいをつけるように、言葉を区切る。杏が目に力を込めて頷くと先を続けた。


「全然、蕎麦を、食べていなかったの」


 その芝居がかったそぶりに、色々な人に話し慣れているのだなと杏は思った。ならこちらも、好奇心を抑える必要はない。


「いったい、どういうことなの?」


「卒業を目前に控えた頃だった」


 水で唇を湿らせると、絵理は静かな声で話し出した。


私が所属していたサークルに、ユリさんという先輩がいたの。ユリさんは一つ年上だったけど、体が弱くて一年間休学していたから、私たちと同学年になっていた。


 小さなサークルだったし、一応はユリさん、とかユリ先輩、と呼びながらも、友達感覚でお付き合いをしていたの。小柄で可愛い人だったから、男子はユリちゃんって呼んでたけどね。


 ある日、誰が言いだしたのか、鍋パーティを開くことになったんだって。メンバーの名前を仮に、春奈、夏美、秋彦、冬人とするわね。それにユリさんを加えた五人が、ユリさんの下宿に集まった。


 鍋の種類は、トマト鍋にしたんだって。冬人が卵アレルギーを持っていて、締めの雑炊が駄目だったから。だったら、リゾットや茹でたパスタを入れても美味しいトマト鍋にしましょうって、ユリさんが発案したらしいわ。


 夕方五時頃集まって、夏美と冬人がお酒の買い出しに行っている間、残った三人で調理を始めたの。具材はキャベツ、玉ねぎ、人参、カボチャ、エリンギ、豚肉、鶏団子、ソーセージよ。買い出し組が戻ってくる頃には、すっかり準備ができていた。


 六時頃から食べ出して、皆お腹が空いていたから、あっという間に食べ終わったんですって。締めのリゾットも、米粒一つ残さないで、きれいに平らげた。それから秋彦と冬人が洗い物を初め、春奈と夏美は近くのコンビニにアイスやお菓子を買いに出かけたの。


だいたい夜八時ぐらいから、ボードゲームをしながらまた飲み始めたんだって。ユリさんと春奈はあまりお酒が強くないからウーロン茶を飲み、他の人たちはビールやワインを飲んでいた。


 盛り上がっていた最中、トイレに立ったと思っていたユリさんが、なかなか戻って来ないことに気付いたの。そんなに飲んではいなかったはずだけど、心配になったので春奈が様子を見に行ったんだって。そしたら、


 ちょうどそこへ、二人が注文したランチプレートが運ばれてきた。「わぁ、美味しそう」と顔を見合わせ微笑んでから、杏が「それで?」と続きを急かす。


「春奈はユリさんが亡くなっているのを発見したの」


 サラダをフォークでつつきながら、絵理が言った。


「えぇ! 亡くなってたの?」


「そうよ。顔色が青紫になって、よじれた格好でトイレの床に倒れてたんだって」


「救急車は呼んだの?」


「もちろん。病院に運ばれてすぐ死亡が確認され、死因は蕎麦アレルギーと診断されたらしいわ」


 うっそー、とスープを口に運びながら杏が呟いた。


「トマト鍋に蕎麦は入れないし。じゃあ、ゲームをしながら食べたお菓子に蕎麦が含まれていたとか?」


 絵理が首を横に振る。


「男子は知らなかったらしいけど、春奈と夏美はユリさんが蕎麦アレルギーだって知っていたから、ちゃんと成分を確かめて買ったって言ってた」


 杏は小さくちぎったバゲットを口に放り込み、ゆっくりと噛みしめた。


「四人の中に、ユリさんを恨んでいた人はいないの?」


 ワクワクしてきたのを悟られまいと、杏はわざと深刻な表情をする。


「殺人だって言いたいの?」


 そう言う絵理にも、杏を咎めるつもりはないらしい。暫く考えてから答えた。


「春奈はユリさんを嫌っていたかも。春奈は秋彦が好きだったけど、秋彦はユリさんのことが好きだったから」


「トマト鍋の調理をしたのは、ユリさん、春奈、秋彦の三人だったわよね。春奈が二人の目を盗んで、鍋のスープに蕎麦粉を混ぜたとか?」


「うーん、どうかな。蕎麦アレルギーって、蕎麦とうどんを一緒に出す店に入っただけで、喘息みたいになるって聞いたわ。ユリさんが倒れたのは、鍋を食べてから少なくとも二時間は経ってるもの」


「じゃあ、ユリさんが飲んでたウーロン茶に混ぜたとか?」


 言ってから、杏は後悔した。絵理が、気の毒な人を見る目で自分を見つめていることに気が付いたからだ。


「他の四人の目を盗んで? 無理だと思うわ。コップはユリさんが配ったから、コップに仕込んでおくのもなしね。一応言っておくと、不審死の扱いで警察の調べがあったの。家の中から、怪しいものは何も出てこなかったんですって」


 絵理は何回も同じような受け答えを繰り返して、飽きているのだろう。凡庸な答えはなしね、と釘を刺された気がした。


「ユリさんに恋人は? 実はこっそり秋彦か冬人と付き合ってたとか?」


「恋人はいなかったわ。ちなみに冬人は夏美と付き合っていた」


 椅子の背もたれに上半身を預け、杏は落胆したように天井を仰いだ。


「一緒にお酒を買いに行った二人ね。ピーナツアレルギーの彼女に、ピーナツを食べた後にキスをして殺してしまったって話を聞いたことがあるから。もしかしてって、思ったんだけどな」


 パスタを三本、クルクルとフォークに巻きつけていた絵理が、はっとしたように顔を上げた。


「間接的にアレルゲンを摂取したってことも考えられるのね」


「そうよ! それだわ……」


 顎に手を当て、杏がぶつぶつと呟き始めた。


「唾液がお箸や、スプーンを介して……いや、違う……」


 頭をフル回転させる音が、負けず嫌いの杏から聞こえてくるようだった。そしてやおら「飛沫感染!」と叫んで息を呑んだ。


「風邪気味だと嘘をつき、薬と称して蕎麦粉を詰めたカプセルを口に入れる。飲み込んだ振りをして口の中でカプセルが溶けるのを待ち、ユリさんの目の前でくしゃみをする」


 どう? と目で訴えると、絵理は感心したように何度も頷いた。


「すごいわ、杏。ミステリー作家になれるわ。で、犯人は誰なの? やっぱり春奈?」


 ここでそう結論付けてしまうと、いかにもチープな感じがした。犯行の動機が、学生同士の恋愛のもつれだなんてつまらない。第一、杏はまだまだこの謎解きゲームを続けたかった。


「ユリさんに、他に恨まれる理由はなかったの?」


「そうね、……一つだけあるわ。ユリさんはその前の年、小説の新人賞を獲得していたの。出版も決まって、沢山インタビューを受けたりして華々しい未来が待っていた。それを妬んでいた人はいるでしょうね」


 絵理の言葉に、杏はゾクゾクと肌が粟立つのを覚えた。


「サークルって、なんのサークルだったの?」


「詩や小説を書くのが好きな人たちが集まって、同人誌を作ったりしていたの。私は読む専門だったけど」


 夢を持った若者の集まりの中で、一人だけが本物の才能を有していた。本物の才能とは何なのかを見せつけられた若者たちは、無残にも夢を散らして……。

 なんて残酷なんだろうと、杏はほくそ笑む。


「全員に動機があったのね」


「四人がグルだっていうの?」


 絵理が目を見開いた。


「秋彦はユリさんが好きだったのよ?」


「自分よりも優れた才能を持つ女を、男が本気で愛せると思うの?」


 いや、待てよ、と杏は考える。


「ユリは病弱だったわね」


 ユリさんと言わず、呼び捨てにしたことにも気付いていない。


「何の病気だったの?」


「さあ、そこまでは分からないわ」


 杏の脳裏には成功を手にしながらも、白血病を患い、余命宣告を受けたばかりのユリの姿が浮かんでいる。


「鍋パーティを企画したのはユリよ。皆のいる場で自殺するために」


「なんでそんなことをするの?」


「記憶に残りたいからよ。自分が死んで、いつか友達や世間から忘れ去られるのが嫌だったんだわ。病み衰えて死ぬのではなく、美しいうちに、悲劇のヒロインとして死にたかったの」


 絵理の目に賞賛の色が浮かんでいるのを見て、杏は満足した。いつの間にか空になったプレートを脇に寄せ、メニューを取り上げる。


「ね、デザートも頼まない?」


「いいわね。デザートは別腹だしね」


店員を呼び注文を済ませたところで、絵理が「でも……」と溜息をついた。


「私なら、アナフィラキシーショックなんて苦しい方法で自殺したくないわ」


 杏がムッとしたことにも気付かず続ける。


「死に顔は苦悶の表情を浮かべ、青鬼みたいだったって聞いたわ。怖いわね。食物アレルギーがなくて、本当によかったわ」


「何でも食べられるって幸せなことよね。うちの子も好き嫌いなく何でも食べてくれるし、助かるわ」


「子供には何でも食べて、すくすく成長してもらいたいわね」


 店員がやってきたので話は中断した。


「お待たせしました。オーガニックコーヒーとフェアトレードバナナのヴィーガンジェラートでございます」


 その時、絵理が顔を顰めたかと思うと、大急ぎでハンカチを顔に当て、ハックション! と特大のくしゃみをした。


「ごめんなさい」


 バックを掻きまわして噴霧薬を取り出すと、片手で覆い隠しながら鼻の穴に噴射する。


「今日は特に酷いわ。花粉の粒子が目に見えるようよ」


「大変ね」


 杏がコーヒーにプラントベースミルクを垂らしながら笑う。


「アレルギーにも色々あるわね。さしずめ私は、肉食アレルギーね」


「ヴィーガンレストランが幼稚園の近くにあってよかったわよね」


人にも色々な一面がある。だからこそ、ほんの少しの共通項を見つけただけで、簡単に友情が芽生えるのだと絵理は思う。


「ほんと、私たち、ラッキーよね」


 ユリさんにも色々な一面があった。才能をひけらかすこともなく、思いやりがあって、優しい人だと思っていたのに。


 本当は、天使の顔をした悪魔だった。


「そういえば、絵理はユリさんの小説は読んだの? 面白かった?」


 動物実験をしていない化粧品会社のハンドクリームを塗りながら、杏が尋ねる。絵理は曖昧に微笑んで、小首を傾げた。


「読んだけど……」


 ユリの小説を読んだ四人は激怒した。


 カルト教団の教祖で、強欲な肥満男は冬人のことだった。

 その愛人で、美しいだけで頭の中味が空っぽの女は、夏美のことだった。

 才能がないのを認められず、誇大妄想を繰り広げる男は秋彦のことだった。

 そして、拒食症でやせ細り、誰にも愛されない女は私のことだった。


 分からないように書いたつもりだろうけど、誰も誤魔化されなかった。


「それが、全然覚えてないの」


「有名な賞を貰ったのに、何が面白いのかさっぱり分からない本ってあるわよね」


 杏が無邪気に笑う。何の心配もなさそうな、満ち足りた笑顔だった。


 風邪薬は、いい線をついていたのにな。


 絵理は杏に、くしゃみなんかより、もっと安全で確実な方法を考え出したのは私なのよ、と自慢したくなる。

 ユリは蕎麦アレルギーに加えて、花粉症でもあったのよと、教えてあげたくなる。


 二人の午後に、完璧な日常が降り注ぐ。


                      了

  

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