最後のひと押し
蓮が母の言葉を飲み込んでから返事をするまで、たっぷり10秒ほどの時間を必要とした。
カラカラに乾いた喉を震わせ、なんとか声を絞り出す。
「……遠くの学校? な……何言ってるの、お母さん……?」
「あなたがシフォンちゃんと同じ学校に通ってるうちは、とても安心できないのよ。車で送り迎えする手間はかかるけど、ひとつ向こうの校区の学校に転校させます。年内には手続きするつもりよ」
「本気で言ってるの!? そんなの嫌だ! 今の学校には他の友達だっているんだよ!?」
「友達なら新しい学校でまた作ればいいわ。節度を持った、人間の友達をね」
今まで聞いた事もないほど冷たい声で切り捨てられ、蓮はその場に崩れ落ちそうになった。
だが、ショックを受けている場合ではない。そう自分に言い聞かせ、かろうじて踏ん張る。
「なんで……なんで、そんなにエルフを目の敵にするのさ。シフォンが母さんに何をしたっていうんだよ……!」
危険な魔法を使ったシフォンを非難するところまではわかる。
だけどシフォンから遠ざけるためだけに蓮を転校させるなんて、いくらなんでもやりすぎだ。
「……蓮。お母さんはね、ただあなたのことが大事なのよ」
母は軽く屈んで、蓮に目線を合わせながら説得するように言った。
「あなたにはまともな大人になって、おじいちゃんやお父さんみたいに、たくさんの人を幸せにする立派なお仕事についてほしいの。そのために、悪い影響を与えるものからは遠ざけなくちゃね」
「……母さん……」
あくまでも蓮のためだと善意を強調するその言葉に、もはや蓮が何を言っても無駄なのだと思った。
だからといって、まだ子供に過ぎない蓮には、自分の生活環境を自分で決める力などない。
無力感と絶望感に耐えられず、蓮はとうとう膝をついた。
項垂れた蓮の頭上で、母がくすくすと小さく笑う声がした。
「冗談よ」
「……!?」
信じられない一言に顔を上げると、母は獲物をいたぶるような優越感に満ちた笑みで蓮を見下ろしていた。
「転校させるって言ったのはただの冗談よ……今のところはね。でもお母さんがその気になったら、いつでもその冗談を実行に移せるの。よく覚えておきなさい」
「…………」
蓮は、返す言葉が出てこなかった。
「あなたが今朝みたいに親に反抗的な態度を取ったり、これからもシフォンちゃんと会ったりし続けるなら、私もそういう対策を取らなきゃいけなくなるわ。できれば、そんな面倒をかけないでちょうだい」
この件に関して悪いのは蓮の方だという態度を崩さないまま、母は溜息混じりに言った。
「わかったら、返事は?」
「…………はい……」
震える声で答えながら、蓮は気が狂いそうなほどの悔しさを感じていた。
僕は無力だ。無力な子供だ。
結局、親には逆らえない。だから――。
――逃げるしかない。
母の言葉は、蓮にそう決意させる最後のひと押しだった。
その夜、蓮は両親に迷惑をかけたことを、父と母に向かって改めて謝罪させられた。
と同時に、腹の底では逃亡計画を練り始めていた。
シフォンを連れて逃げる。
どこか遠く……蓮とシフォンのことを誰も知らないくらい、遠くの街へ。
遠くに行ったところでどうやって生きられるのかはわからないが、このままだとシフォンと離れ離れにさせられてしまう。
そうなってしまうよりは、苦難に飛び込む方がずっとマシだ。シフォンさえ一緒にいてくれるなら。
しかし、ひとりで勝手に決められるような問題ではない。まずはシフォンの意思を確認しなくては。
学校での昼休み、蓮は奥山先生と結那の目を盗んで、再び屋上前の階段でシフォンと会った。
ふたりで逃げようと提案すると、シフォンは一切のためらいなく頷いた。
「いいよ。蓮くんと一緒なら、どこにでもついていく」
あまりにもあっさりと了承されたので、かえって蓮の方が不安になるほどだった。
「……本当にいいの? 僕から聞いておいて何だけど……逃げたら、シフォンのご家族とももう会えないかもしれないんだよ?」
「わたしたちは何千年と生きるんだもん。もし一旦別れることになったって、お母さんとはいつかまた会えるよ」
あっさりと言われてしまった。
何千年……途方もない長さで想像すらできないが、エルフの価値観では数年や数十年会わなかったところで、もしかしたら何ともないのかもしれない。
「それに、お母さんも前に言ってた。『もしもあなたが人間の男の子を好きになったら、その子のことを一番に考えなさい』って。わたしたちが人間と過ごせる時間はとても短いから、大事にするべきなんだって」
「……ねえ……それなら、シフォンのお母さんに協力してもらうことってできないかな? 大人が一緒にいてくれれば、きっとどこへでも行けるよ」
蓮の両親や奥山先生とは違って、理解のある大人を味方につけることができれば、それほど心強いことはない。
希望を見出した気がして蓮は提案したが、シフォンは少し考えてから小さく首を横に振った。
「やめておいた方がいいと思う。理解はあっても、やっぱりお母さんは大人だから反対するだろうし……逆に一緒に逃げるのに協力させたら、お母さんが警察に捕まっちゃうかも」
「あ……そ、そっか」
一緒に逃げたのが蓮とシフォンだけなら自分の意思だと言い張れるが、シフォンの母を巻き込めば、『蓮をシフォンの母が誘拐した』ことになってしまうだろう。
大騒ぎになってしまうことくらいは、蓮にも想像がついた。
「わたしもお母さんにはバレないようにする。お母さんも何も知らなかったとすれば、そんなにひどくは怒られないと思うし……たぶん」
「うん……じゃあ、計画立てようか」
気を取り直して、蓮はいつどうやってふたりで逃げるかの相談を始めた。
今まで市長の息子として、多少のわんぱくさを持ち合わせつつも『いい子』であり続けてきた蓮にとって、それは初めての本格的な反抗だった。
後に、蓮はこれから先の出来事を、何度も何度も繰り返し思い出すことになる──。
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