楽園の庭

 自宅の前に着く頃には、完全に雨は止んでいた。

 シートベルトを外しながら、真人は運転席の竹下の顔を覗き込む。


「お茶くらい飲んでいけよ。ラフィナにもしばらく会ってないだろ?」


「そうしたいのはやまやまなんだが、この後アーミアの迎えに行かなきゃならねえんだ」


「じゃあ一緒に食事でもどうだ? 俺がラフィナを呼んでくるから、お前とアーミアさんと、久しぶりに4人でさ……」


「ああ……お互い新婚の頃は、よく一緒にメシ食ってたよな。でも今はお互い急に動くのは無理だろ? 前もってベビーシッターの2、3人も呼んどかねえと」


「ははっ、まるで保育園だな……」


 真人が苦笑すると、竹下は突然何かに気づいたようにハッと口元を押さえた。

 その様子に真人は首をかしげる。


「……竹下? おい、どうした?」


「……ダメだな。俺、頭の中がぐちゃぐちゃだ」


「急に何だよ」


「ガキどもが生まれた時よぉ……そりゃ多すぎてびっくりしたし不安もあったけど、すげえ嬉しかったんだぜ、俺。アーミアの次に大切な宝物だと思ってたさ。だから大事にしようって……本気で思っててよ……」


 その言葉で、真人も竹下の戸惑いの意味を理解した。

 渡来の説明を聞いた時の竹下は激怒し、「自分の遺伝子を継いでいない子供など、作る意味がない」とまで言ったが、それは強い愛情がショックで裏返ったゆえに飛び出した言葉だったのだろう。

 現に、今も竹下はほぼ無意識下のレベルで、真っ先に子供の存在を気にかけていた。


「……わからねえよ。やっぱり、嫌いになれねえ……アーミアのことも、ガキどものことも……」


「…………」


 もしも誰かが裏切っていたのなら、怒りをぶつける先もあっただろう。しかし、これに関しては誰が悪いわけでもない。

 だから、真人は言った。


「……俺は幸せ者だよ。今までもそう思って生きてきた。だから、これからもそうしようと思う」


「小田原……?」


「俺は自分が望む道を選んだ。被害者ぶるのは簡単だけど、誰かが俺を騙したわけじゃない。……なら、もういいんだ」


 そうだ。世の中には血の繋がらない親子なんてごまんといる。それでも愛し合う家族にはなれるじゃないか。

 まして、子供たちは真人とラフィナの愛の結晶に違いないのだ。

 何をためらうことがある……何を……。


「小田原……お前、自分を騙してねえか?」


 鋭い声で竹下が問いかけてきたが、その声は真人の脳を揺さぶることはなかった。

 自分と世界を隔てるように、すぐ外側に薄いヴェールがかかった感覚がある。あらゆる物が曖昧にしか見えないが、その代わりに真人を守ってくれているかのように暖かくて心地いい。

 竹下の声も、その膜に弾かれたようにぼんやりとしか聞こえなかった。


「……どうだろう。俺にもよくわからない。でも、俺にはラフィナや子供たちを憎めないのは確かだ……じゃあ、愛する方がずっといいじゃないか」


 言葉にすると、そうすべきだという確信が急に深まってきた。

 そうだ。憎しみは何も生まない悪しき感情だ。

 許すことと愛することが大切なのだということは、古今東西の偉人や宗教だってみんなが教えているじゃないか。



 なあんだ。

 悩む必要なんてない。俺は今まで通りに過ごしていればいいんだ!



「それじゃ、竹下。今度はちゃんと都合を合わせて、お互いの夫婦で食事でもしよう。またよろしくな」


「お、おい。小田原……」


 竹下が躊躇いがちに呼び止める声が聞こえたが、真人は気にせず家の門をくぐった。

 やがて車のエンジン音が遠ざかっていくのが、背中越しに聞こえた。


 ああ、愛すべき我が家よ!

 答えが出たおかげで晴れ晴れとした気持ちになり、ラフィナや子供たちとの愛の巣がいっそう輝いて見える。

 久しぶりにあちこち見て回りたくなって、真人は裏庭の方へ回った。


 裏庭の草花たちは、先ほどの雨でまるで朝露が降りた後のように水滴を帯び、きらきらと美しいきらめきを纏っていた。

 ふと、その一角にやたらと緑が濃く生い茂っている箇所があるのを見つけ、真人は足を止めた。


「これって……」


 記憶を遡ってみて、すぐにその正体がわかった。

 ラフィナと初めて出かけた日の帰り道に買ったアップルミントだ。

 あの日、ほんの小さな鉢に収まっていたアップルミントを、この場所に植えたのだ。

 それが今はまるで一帯を覆わんばかりに伸びており、地下から根が張ってでもいるのか、植え込みの外側にまでその勢力を伸ばしている。


 そういえば、2年くらい前に母が文句を言っていた気がする。

 相談もなく勝手に植えたアップルミントだが、これはかなり強い繁殖力を持っている植物で、辺り一面の土壌にぎっちり地下茎を張って台無しにしてしまうのだと。

 しかも他の植物とも交雑して雑草と化し、最終的にはミントですらない、ただ繁殖力が豊かなだけの匂いもない草に成り果てていく。


 ふと、このような存在には呼び名があったことを真人は思い出した。

 何らかの要因で外部から持ち込まれ、元々そこにあった生態系を狂わせてしまう存在。それは……。



「……侵略的外来種」



 呟いた瞬間、真人の脳裏にラフィナの顔が浮かんだ。

 何の悪意もなく、ただひたすらにその繁殖力をもって増えていく生き物。


 いや、違う。エルフたちは交雑すらしない。

 つがいとなる生物の遺伝子を、踏みつけ同然に排除し、自分とまったく同じ種族を大量に後世に残す。

 そんなエゴの塊のような生き物が他にいるだろうか?


「――マサトさん?」


 後ろから声がして、はっと真人は振り向いた。

 いつの間に外へ出てきたのか、ラフィナが心配そうな顔でこちらを見上げている。


「やっぱりマサトさんですね。さっき車の音がしたから、もしかしたらと思って……今日のお仕事はもう終わったんですか?」


「……ああ。うん、ちょっと久々に庭を見たくなってね。この後は何もないから、大丈夫」


 答えて立ち上がった真人の頭からはもう、さっき考えていた言葉は完全に消え去っていた。

 思い出そうとしても、もう思い出せない。

 脳にかかったフィルターが、それについて考えることを拒否させていた。


 そう。この後は何もない。

 何の懸念もなく、ただ穏やかな日々がずっと続く。


 俺は幸せだ。世界一の幸せ者なんだ。

 真人は何度も頭の中で繰り返しながら、こちらを見上げたままのラフィナに優しくキスをした。

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