第28話

温室は涼むのにうってつけ

外はもうすっかり真夏だが、ここは相変わらず高原の陽気だ

植えられている草花は蕾のまま、成長した様子はない

こういう世界でなければ、こんな異界に迷い込むことも叶わないだろう

「わんわん、いるの?」

私に慣れてきたのか、鞄の中のワッフルを嗅ぎ付けただけなのか、狼はぴょこぴょこと早足で寄ってきた

何度か通ううち、どうやらこいつは甘いものに目がないらしいことがわかってきた

「よーし、今日もちゃんとタイしてるな」

ゴワゴワの頭を撫でてやると、目を細めて喉を鳴らす

せっかくタイを結ばせたのに、あれから目撃したという声は聞かない

人騒がせがなければそれで構わないのだが、じゃあこいつは普段何をしているのかが気になる

気になるといえばあの女の子もだが、あれ以来会えないままだ

しびれを切らした狼が、私の鞄を鼻でつつき始めた

「わかったよ。お座りは?」

舌を出してヘフヘフしながら腰を下ろす

「お手」

重たい前足を私に貸す

「おかわり」

反対の前足を貸す

「よーし、いい子!」

もうワッフルしか目に入っていないが、それでもここまでこなせるようになったのだ

ご褒美をもらう権利はある

いつものように両の前足で挟んでワッフルをやっつけ始めた

「あの子もいたらよかったのにね」

「いるよ」

「おわ!」

女の子はベッドの中でもぞもぞしていた

「…もしかして今までもそこで寝てたことあったの!?」

「時々ね」

私がわんわん相手にムツゴロウさんしてたのも全部見られていたというのか

「よくないよ、そういうの」

「起きられなかった」

女の子はうーん、と伸びをして、ベッドの向こう側に足を下ろす

向こう側に靴があったのか

「あんたも、いるなら教えてよ」

とっくにワッフルを食べきった狼はまたヘフヘフしている

「もうおしまい」

両手をパーにして何もないというジェスチャーをすると、フーンと一息吐いてそっぽを向いてしまった

犬は現金だ

「これ。あなたの分」

来るたびに一応女の子の分もおやつを持ってきてサイドテーブルに置いていたのだが、ベッドに寝ているとは全く気づかなかった

「あとでもらうよ」

この様子だと今まで持ってきた分も狼の胃袋に消えていそうだ

「じゃああたし出かけてくるから」

「えっ?久しぶりに顔合わせたのに」

女の子はお構いなしで温室をすたすた横切っていく

「私も行くよ」

「いいの。あたしだけの用事だから」

「待ってって!」

女の子を追いかけようとすると、狼がスカートの裾をくわえて私を引き止めた

「あっ!こら!」

狼は結構な力でくわえたスカートを私ごと引っ張っていく

力ずくで対抗しても服が傷んだりはしないのだろうが、狼があんまり強情にしているので呆気に取られた

入り口を振り返ると既に女の子は姿を消したあとで、狼はまだ私のスカートをくわえて踏ん張っている

「ほら、もう行っちゃったよ」

眉間を小突くとようやく観念してスカートを離した

「あんた何を隠してんの?」

狼の目線にしゃがみこんで問い詰めると、ぷいと顔をそらした

犬はよくこういう白々しい態度を取る

ちゃんと後ろめたい自覚があるのだ

「そういうことすると、もうお菓子持ってきてあげないぞ」

と言うとこっちを見つめて足を揃え直し、猛然と尻尾を振ってくる

犬は現金だ

あの子がどこへ行っているのかは気になるが、追いかけて行ったらうさぎの穴に落ちてしまいそうだ

「しょうがないな、これもあんたにやるよ」

女の子に持ってきた分のワッフルも狼にくれてしまおう

思いがけずおかわりがもらえた狼は、さっと飛びついて奥歯の方で噛み噛みし始めた

犬は食べ物をまず奥歯で噛みちぎり、あとはそのまま飲み込む

人間のように口の中でよく噛まないがそれで普通だ

「あとで怒られろ」

言葉が通じたかわからないが、狼は一瞬こっちを見て、すぐまたワッフルに戻った

「じゃ私も行くよ」

まだワッフルを味わっている狼を置いて温室をあとにする

一歩外に出るだけでじわっと汗が出てきた

まあこの陽気で狼が外を出歩かないのは道理だ

狭い路地は直射日光が当たらないからまだいいが、大きな通りは陽炎が立つような日差しに満たされている

もしかして、と淡い期待で女の子の後ろ姿を探したが、もちろんどこにもいない

あの温室は普段いるような場所ではない

どこかにあの子本来の居場所があるのだろう

私はたまたまあの子が温室にいる瞬間に鉢合わせしているだけだ

寝に帰るだけの部屋に訪ねても遊びに付き合ってもらえないのは当たり前だ

きっとこの温室のように、普通には入り込めないようなところに幼稚園か何かがあるに違いない

もっとも、あんなませた子ばかりいたらふたば幼稚園どころではない魔窟だろうけれど

それにしても、いつまでも『あの子』呼ばわりはもやっとする

あの子のことを思い出すたびに、あの子を形容する言葉をいちいち全部並べなくてはいけない

面倒な計算を最初からやり直すみたいに

今度会うときまでに名前を考えておこう

あの子が受け入れようと受け入れまいと私はそう呼ぶ

会えばわかる答えのために、もう一度同じ計算を繰り返す必要はない

名前は私の中のあの子に対する回答だ

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