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第29話①

ありとあらゆる系は遅いところに合わせて動く

遅い方が早い方に合わせることは出来ないから、早い方は遅い方が追いつくのを待つしかない

したがって、系の中で一番遅い部分が系全体の早さになる

みんな仲良く並んでゴール

そうして競争力を失い、下手をすると中学生でも出来る仕事に躓く大人が出来上がる

だから世間の親達は必死になって、子供を私立へ入れようとお受験をさせた


その点この世界は、ゆとりだと指を差されることもなくて実に風通しがいい

授業は何をやっていたか、終わってしまうとすっかり忘れる

それでも落第しないでいられるのだから最高だ

この世界は実に多様な世代が一堂に会している

フレオは1967年生まれだという

私の母ぐらいの世代だ

アイちゃんは想像するしかないが、キャッツ・ポウの話だと時々知らない鼻歌を奏でているといい、それを真似してもらうと、どうも”さくらんぼ”のようだ

大塚愛を諳んじるほど聞いていたとなれば、当時中高生だろう

「白黒映画のビデオしか置いてなかったんだ」

とはあゆ様だ

どこに、と聞くのはちょっと踏み込んだ質問になりそうなので控えた

あゆ様はああいう性格もあってあまり昔話はしないが、ちょっとづつ話題を振って確かめたところ、ゲームボーイアドバンスで遊んでいたがDSは知らないということをつきとめた

かなり若くして世を去ったのかもしれない


「円周率が3!?それじゃ面積も円周も5%も違ってしまうじゃありませんの!」

フレオは傾けていたカップも忘れて大袈裟に呆れていた

まだ湯気を立てているバーボンのコーヒー割りが、カップの縁でギリギリ踏み止まっている

飲み慣れて酔いつぶれないようになるんだ、と言ってフレオが買い込んでくる酒のおかげで、執務室の戸棚はまるでホームバーのようだ

「違うんだよ、小数点の計算を習わないうちから円周率を習うから、とりあえず3ってことで計算していいよって…」

「最初からπで教えりゃいいのにね」

ルネは少なくとも三角関数までは理解している

それ以外にも含蓄のある知識を披露することがしばしばあり、それなりに大人だったことを窺わせた

「いや…三角関数はここで教わったから覚えてるんだよ」

「えっ」

「わたくしだってろくに学校行ってませんでしたし、ここでの学びがなかったら今頃ただの穀潰しでしてよ」

それじゃまるで私が穀潰しみたいだ

「落第しないっていうけど、追試も居残りもあるからね?」

「ええっ!?」

「これだけいて気付きませんでしたの?」

ここへ来て一ヶ月かそこらして、中間考査なるものは確かにあった

あったけど確か、テストが帰ってきたときに「つむじさんはやってないところでしたからね。次はしっかりね」と言われた気がする

「転校生だから目こぼししてもらってたってこと…?」

「まあ、たぶんそう」

「女王が補習なんて恥ずかしいですわよ」

「…ルーはどうなの」

「だから、女王が補習なんて恥ずかしいと言いましたでしょ」


失礼なようだが、ルーは勉強ができるようには見えない

だってどう見てもうさぎ人間だ

そして想像した通りルーは補習の常連で、夏休みも冬休みも春休みも皆勤賞だった

当然この夏休みも毎日のように学校にやってきていた

そして何故か私も

「女王様が2人もご出席だなんて、箔がつくわね」

そういうハルコ先生の顔は真夏だというのに冷ややかだ

おかしい

少なくともルネと同じくらいの時間は家で勉強していたのに、期末テストは見事に3教科で赤点を頂いた

教室には他にも何人かの落伍者が、いつもと違う席で居心地悪そうにしている

「やあやあご同輩。つむじはこっち側だと思ってたよ」

とニヤニヤ顔でいうのは左隣のキャッツ・ポウだ

それはこっちのセリフだと言いたいところだが、立場もあることだし今は言うまい

「つむじ様がご一緒なんて、親近感が沸きます!」

と寝癖頭の右隣の子

今は何を言われても褒められた気がしない

ルーはというと、先生の膝の上にいた

今日はティアラやマントは身につけていない

「ハルコ!今日はなんだ!」

「数学です。みんな問題集を開いて」

わら半紙を閉じたガリ版の冊子は先生のお手製だ

何故かというと、我々は教科書の内容についていけなかった落ちこぼれだからだ

たいへん噛み砕いた内容が大きな字で書かれている

「それじゃあ最初のページ、不等式の証明から…」

それから永劫とも思えるような時間が流れた

大昔にやりきったはずの数学を、噛んで含めるようにおさらいさせられ、指で差されて黒板に答えを書かされる

驚いたことに(失礼)、ルーは勉強が出来ないわけではなかった

それどころか誰よりも早く問題を解いた

「はいよくできました!いい子だねー」

先生は上機嫌で、するすると不等式を証明してみせたルーを自分の膝に戻るよう促す

ルーの細い腰に腕を絡め、柔らかい髪に顔を埋めてルーを吸っている

犬猫を飼っている人間なら必ずやるやつだ

あるいは我が子を可愛がる親か

仲睦まじい親子と10人の落ちこぼれ

ハリーポッターのサブタイトルによさそう

当たり前だがやる気なんか出ない

やる気があったら補習になど呼ばれない

夏の日の午前中に絞り出せる集中力は全て出し切った

あとはただただ時が過ぎゆくのを待つのみ


夏休みなので終業を告げるけたたましいベルもお休みで、先生が持ってきた福引のときに鳴らすような洋リンが今日の拷問が終わったことを告げる

身になったとは思えないな

「補習もサボったらどうなるのかな」

つい口に出た言葉をキャッツ・ポウが聞いていた

「学校に入れてもらえなくなる」

「追放じゃん」

「そうだよ。だから補習来てるアタシ真人間でしょ」

満面の笑みで自慢するようなことではない

ただこの世界にもアウトローがいることは目の当たりにした

プラッドのような連中は学校に来てもいないのだ

だって学校ではあのチェック柄を見かけないから

「じゃあね。明日もサボんなよ」

真人間はそう言ってさっさと帰ってしまった

落ちこぼれの絆はもろい

今頃早い方の人達は夏休みをエンジョイしながら、遅い我々が追い付くのを待っているのだろう

あなた達がそんなに頑張らなければみんな仲良く落ちこぼれれるじゃないですか

筆記用具を麻のトートバッグに突っ込んで私も教室をあとにする


「何なのその顔」

廊下で私を待っていたらんは人の顔を見てくすくす笑っている

「そんなにおかしい」

「おかしいでしょ。眠そうな仏像みたいな顔して」

寺と名が付くだけあって、どうやら一服寺には仏像があるようだ

「拝みに来たの?拝観料取るよ」

「わかったよ。ラムネあげる」

まだ水滴が光るラムネの瓶を渡してきた

半分ぐらいは残っている

冷たい

炭酸の喉越しが夏の教室で疲れた体を癒やしてくれる

「ありがと」

半分の半分ぐらいをもらって嵐に返した

「いいよ、あげる」

何も考えずに返そうとしてしまったが、間接キスにも何か効果があったらどうしよう

迂闊なことは出来ない

それはそれとして冷たいラムネは助かる

「それで。なんで嵐がここに?」

嵐はいつも通りの羽織袴に長ドス姿のままだ

「誘いに来たんだよ。まだ日も高いし、泳ぎに行こうよ」

この世界にもエアコンが無いわけではないが、普及と言うには程遠く、付いている場所はかなり限られている

学校や電車にも冷房はなく、大部分の場所ではせいぜい扇風機が首を振っている程度だ

涼を取ろうと思ったら、水に浸かるのが手っ取り早い

「でもプールって混んでるんでしょ」

ザナドゥの方にプールはある

しかしルネの話では、夏休みともなると連日芋を洗うような賑わいだという

「海だよ」

海!?

「海あるの!?だってこないだ花畑を一晩歩いたけどなんにもなかったよ!?」

「歩いて海行けるわけないじゃない」

歩いて行けるわけない

確かにそれはそうだ

普通こんなところから歩いて海に行こうなんて言い出す人がいたら、行けるわけないって言うに決まっている

ただ計算上海があるはずの場所にたどり着いても花畑しかなかったのだ

それとももっともっと遠いのだろうか?

「臨時列車が出るから、早く行こ」

嵐は私の手を引いて廊下を歩き出した

「私水着持ってないよ」

「足先が水に触れるだけでも涼しいよ」

両手に靴を下げて裸足で波打ち際を駆け、打ち寄せる波にキャッキャしている自分を想像した

私は逆光で、海がキラキラしてて

ちょっとそんな、青春みたいなことしろって?

そうする間にも嵐はぐいぐい私を引っ張っていってしまう

「あっ、待って。忘れ物」

想像の中の青春が放課後の教室まで行ったところで、もらった問題集を机の中に入れてきてしまったことに気がついた

私は教科書は持ち帰らない主義の人間だったのだ

「先に駅行ってるよ。あと15分くらいで電車出るから」

というか既に海があることを信じそうになっていた

嵐が私を担ごうとしているのだとしても、どんなドッキリを用意しているのかは気になる


小走りで教室に戻ると、話し声が聞こえる

まだ誰か残っているのか

にしてもわざわざ戸を閉めておくだろうか

「ハルコ…私は一人でいるの寂しいぞ」

声の主はルーで、話し相手はハルコ先生のようだ

ルーは自分のことをウィと言っていたけど、オフのときは私なのか

ルーが公私を使い分けているのも意外だが、寂しいなんて言うのもいつものルーからはあまり想像できなかった

「女王様になったんだから、頑張らないとだめでしょ」

「頑張ってる!頑張ってるぞ!でも私が女王襲名したのはハルコがずっとそばにいてくれると思ったからなんだぞ!」

へぇ

ルーにもそんないじらしい感情があったのか

「私はいつでもここにいるよ」

「ずっと一緒がいいんだぞ…」

話が途切れた

中の様子が気になって仕方がない

忘れ物は正直忘れていた

声の大きさからして二人は教壇のあたりにいると思われた

戸の窓から覗き込むとこっちの姿も丸見えになってしまうだろう

鞄の中の乙女の七つ道具を漁ってみると、コンパクトが出てきた

この世界では化粧しなくても唇は赤々としているし、お目々ぱっちり睫毛もばっさばさだ

それでも女子は前髪を整えたりしたいのだ

コンパクトの鏡でそーっと窓の向こうを覗き込んでみた

視界が狭い…ッ

今私は窓越しにルーと先生の姿を捉えようと、教室の戸に背を預けて中腰で頭上に掲げたコンパクトの照準を探っている

捉えた!

コンパクトの小さい鏡の中に抱き合うルーと先生の姿を捉えたままにするために私の体はビキビキになっていた


先生は教卓の上に座っているルーの唇を貪っていた

ハルコ先生は私のクラスの担任と違って結構背が高く、ルーと並んで立つと本当に親子ぐらいの身長差がある

二人のキスシーンはひどく背徳的で、見てはいけないものを見ている気持ちになる

まあ覗き見しているんだから、見てはいけないものを見てるのは間違いないが

飽くことなく続く二人の愛の調べが転調する前に、物音を立てないよう慎重に戸口を離れた

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