第11.5話

これはフレオに決闘を挑まれる前の、私のささやかなサクセスストーリーの間の出来事


食べなくても死なないし、いくら食べても太らない

でも毎日三度は腹が減る

それがいいのか悪いのか、こんな世界であってもお昼となれば何か食べずにはいられないのだ

「天そば」

「つむじ最近そればっかじゃない?」

「うん」

学食のレパートリーは多彩だ

小さい会社が無理して入れてる社食なんかより全然いい

ここのところ色々あって食が細っていたが、そういうときでもつるっと入るそばやうどんなら結構食べられたりする

と思ってここのそばを試してみたのだが、実際つるっと入ってしまって物足りなさを感じるくらいだった

だが何かを思い起こさせる

名前と一緒にそば好きだった自分も忘れてしまったのだろうか

多分違う

ともかく、学食の前の食品サンプルのそばを見ると何か懐かしさを覚えて注文してしまい、おやつの時間には空腹を感じて購買で売ってる月餅を食べてしまう


今日のルネはハンバーグランチを頼んだ

「…あげないよ」

「何を」

「さっきからあたしのハンバーグじっと見てる!」

うん、まあ、肉っ気は欲しい

一応タンパク源も欲しいと思って天そばを頼んでいるわけだが、乗っているのは野菜のかき揚げと海老天だ

タンパク源が蛋白すぎる

油で揚げてあるのになんで天ぷらはこうなんだ

特別ヘルシーだとも思えないが、揚げ物のくせにジャンク感が薄くて上品ぶって見える

残念ながら肉そばはメニューにない

「ちくわ天もらってくる」

トッピングの追加で胃を納得させるしかない

ついでに卵ももらう

立ち喰いのプロに説教されそうな食べ方だが知ったことではない

昼食とはまず自分の腹を納得させなければいけないのだ

「最初からどっしりしたもの頼めばいいのに」

「そうも思うんだけど、そばのどんぶりを見るとついね」

自分でも不思議だ

もしかしたら私の前世はそば屋だったのだろうか


学校の帰り道は大体下りなのでまあ楽だ

間に線路が走っている切り通しを超えて、駅からほど近い商店街の中に入っていく

その時に駅の改札前のコンコースを通ってもいい

右手に改札を見ながら駅の屋根下を通り抜ける

「………」

すると私のお腹がぐぅと鳴るのだ

「何なの?おやつも食べたでしょうに」

「そうなんだよ。でもここを通ると何か…」

箱根そば

そうだ、ここには箱根そばがあった


特別そば好きではないが、改札を出て真正面のここに食べ物があると、否応なく空腹であることを思い出させる

家に帰って夕食を用意するのも、出直して何か食べに行くのも面倒

さりとて帰りに寄れる店はファーストフードやコンビニ、あとはランチ営業で勝負の小さいお店

となるとこのだし香る箱根そばに引き寄せられてしまうのだが、夕食に駅そばか?と思い直して空腹を噛み締めながら家路につく

そして結局冷蔵庫に眠っている冷やご飯とレトルトカレーとかコンビニ弁当で腹を満たすとき、あの温かい箱根そばを啜っていれば少なくともこの満たされない満腹感に苛まれなくて済んだのではないか

そう思ってしまう

そばは救済なのだ

「私にも救える人がいるかもしれない」

「…いいから帰ろうよ」


翌日私は、この街でお店を出すにはどうすればいいか、学生課を手始めに色々な事務局に聞いて回った

もちろんルネにも聞いてはみたが、予想通りあまり役には立たなかった

「店なんか出してどうするの。学校は?」

「人生には学校より大事なものがあるんだよ」

アイちゃんは相変わらずらしい

ちゃんと食べさせてもらっているだろうか

そこはヴェーダ様を信じるしかないが、食べることで癒える傷もあるはずだ

ここの子達だって普通の女の子だ

…いや、病気にならないし死ぬこともないのは普通ではないかもしれない

でも人並みの感情の機微があるし、あてが外れたらがっかりする

血を流さないだけで、程度の差こそあれ傷つくのだ

そういう時に温かい食べ物に出会ったら、心がほぐれるかもしれない

ここ数日天そばを食べ続けて得た結論がこれだ

「でも電車でここに帰って来る子あんまりいないと思うけど」

大体みんな学校まで歩ける範囲に住んでいる

帰宅時にこの駅で降りるというケースは確かに少ない

袋風荘たいふうそうに住んでいた一服寺の子ぐらいしか私は知らない

線路をまたいで通学しているルネでさえ少数派だ

「だから別なところに店を出す」


なんとまあ都合がいいことに、ちょうど一服寺に2坪の小さいテナントが空いたところだった

幸いガスも水道もついている

流しやカウンターまでついた居抜き物件だ

前にここを使っていた子は満足して卒業してしまったのか、それとも私が望んだからぱっと現れたのか

今は深く考えないことにする

テナントはペデストリアンデッキの階下にあり、日当たりが悪く薄暗い

繁華しているエリアから一本入ったような路地で、眼の前には足つぼマッサージ用のボールみたいなオブジェがある

何故だか他に店はない

いつもの制服にエプロン、頭にはカフェ店員みたいにバンダナを巻いて店に立つ

割烹着が欲しいところだったが、あいにく調達する時間がなかった

麺を待ち構える寸胴鍋は煮え立ち、さっきこの上の惣菜屋で仕入れた揚げたての天ぷらはまだジュージュー言っている

人通りは少ない

だがこの厚削りの枯れ節と、どこに需要があったものか肉屋の一角に置かれていた鹿節とで取った濃厚な出汁の香りは、路地の外まで漂い出す

すっかり日も落ち、放課後でごった返すデッキの上からこぼれ落ちた、傷ついた小鳥たちが香りに誘われてやってくるのを待つのみ


「…いらっしゃい」

右から”つむじ庵”と書いた暖簾を最初にくぐったのは一服寺の生徒だ

「…かけ」

スツールに腰掛ける前に壁のメニューを一瞥し、逡巡なく注文する

「かけ一丁」

こちらも余計なことは聞かない

この傷ついた小鳥は温かいかけそばに救いを求めてこの薄暗い路地に迷い込んだのだ

私はそれに素早く応える

学食に分けてもらった麺は十割なんて気取ったものではない

どこまでつなぎかわからない、灰色の細いうどんみたいなものかもしれない

しかしそれで構わない

私はこのそばに救われたのだ

「お待ち」

程よく湯がいた麺になみなみと自慢のつゆを注ぎ、彼女の前に丼を置く

彼女は私がカウンターに用意しておいた割り箸には手を出さず、羽織の合わせからスッと懐紙にくるまれた自分の箸を取り出した

塗りのない、無地の木の地肌の長い箸

男性用の長さだ

揃えた箸を両の親指で挟んで手を合わせると一瞬目を伏せ、熱い丼を両手で持ち上げるとゴクゴクとつゆを飲んだ

「はぁ…」

降ろした丼のつゆは半分ほどになっていた

「あったまるね」

私はニコリとする

彼女は今そばに癒やされているのだ

私の押し付けがましい言葉はいらない

彼女はつゆの減った丼に薬味のネギと揚げ玉をまぶし、七味を二度三度振ると、ようやくそばを啜り始めた

一玉は軽く70gとしている

そばはたらふく食うものではない

腹八分目、いや七分目で十分だ

そばが満たすのは腹ではない、やつれた心なのだ

彼女は3口でそばを啜り倒し、残ったつゆを一気に飲み干した

ゆっくりと丼を下ろす

このタイミングだ

「お疲れですね」

もう夕飯時、一日を終えて疲れているに決まっている

もっと風体から値踏みすればかけられる言葉も他にあったろうが、無難な言葉でいい

話したいのは私ではないのだ

「いや…まだまだだよ」

「無理しちゃいけませんよ」

熱いお茶をサービスする

ここで得たものは外界に持って帰るべきではない

疲れとともにしょっぱいつゆの後味も洗い流して、まだ少し隙間のある腹で家路につく時、やっと救済が完成するのだ

何かデザートを食べるもよし、改めてしっかりと夕食を摂るもよし

ともかくスカスカの空腹を家に持って帰ることはその日の疲れを増幅させる

彼女は番茶を一口ゆっくり飲み下すと、今度は「ふぅ…」と息を吐き出す

ため息ではない

彼女は今満たされたのだ

「ごちそうさま」

まだぱっと見ただけでは額面がよくわからない硬貨を何枚かカウンターに置くと、彼女は再び暖簾をくぐって日常に戻っていく

「またどうぞ」

足早に去っていく背中は答えないが、別に構わない

私は傷ついたときにいつでも戻ってこれる宿り木でありたいのだ


レジ係のルネが硬貨を拾い上げて言う

「これお金足りないよ」

「なんで帰る前に言わないの!?」

「だって救済の邪魔しちゃ駄目だって言うから」

くそう

私は施しがしたいのではない

傷ついた小鳥に救いの手を差し伸べたいのだ

そばはそのためのツールであって、そこは実費を頂かなければ私が窮してしまう

「あっ、またお客さん」

暖簾の向こうに人の足を認めたルネは慌てて丼を下げ、カウンターを拭く

「次から前払いで」

短くそう伝えると、私はまた百戦錬磨のそば屋の店主に戻る


次に暖簾をくぐったのは、高天原と郁金香うっこんこうの二人組みだ

片方は手に棒結びされたロープを持っている

荷物を縛るにしては太く、船を係留するもやいには細い気がする

長さも太さも、、といった風情だ

私は瞬間、神経が張り詰めた

「何にしましょう」

どうしたの?大丈夫?という質問はよくない

回答の幅が広すぎる

こっちはいいかもしれないが、相手はあらゆる事情を説明しなければいけない立場に立たされる

こういう時はまず決まった答えの中から選択させるのがいい

質問が何であれ人間は自分の選択を受け入れる

巧みに質問を用意して、考えを改めるよう誘導するのだ

「じゃあ…天ぷらそば」

「私はきつね」

「天ぷらときつね」

客に背を向けてそばをゆがく

「お代お先にお願いします」

ルネはさっき言ったことを忘れてはいなかった

だけど今

何もこの客相手に言うことはないだろ

「あっ、はぁい」

二人はそれぞれお札と硬貨を出した

ルネは釣り銭箱からお釣りを返す

特に変わった様子はない

いや、こういう時に変わった様子を取る人間は、一線を越える前に人に気付かれるものだ

だがこの客のように落ち着き払っていつも通り振る舞う巧妙な相手は、私のように救済を行う意志がなければ見逃してしまうだろう

麺が茹で上がった

丼につゆを注ぎ、天ぷらとお揚げを乗せて供する

「すっかり日が伸びましたねえ」

この世界に昼夜の伸び縮みがあるかどうかは賭けだった

まだ季節が遷ろうほどこの世界に長くない

「ほんとねえ。おかげで大変でさ」

「そうそう。何もこんな時間までさ…」

郁金香の子が事情を話しかけた

「やめなって、人前で…」

「ええ…?でもさぁ…」

人に言えない秘密も赤の他人には言えたりする

それで肩の荷が下りることだってある

「構いませんよ。内緒にしますから」

「いいじゃん、もう。今更だし」

時すでに遅しなのか

私の救済は間に合わなかったのか

「何か…込み入ったお話で?」

「いや、うちの部長がね、熱心なんだけどさ。ご熱心なんだけど。ちょっとこう、加減がわかんないっていうかさ」

「耐えられないんならそこから飛び降りろっていうんだよ」

「だからほら、それじゃ人聞きが悪いって」

人聞きもくそもあるか

飛び降りろなんてパワハラというかいじめじゃないか

「別にそれはいいんだけどさ…」

「よくないよ!」

「「えっ?」」

「ああ、いえ…どうぞ続けて」

それはよくないんだけど続けてもらわないと事情がわからない

「まあ…冬場は暗くなったら上がりだったんだけど、もう今日ぐらいになると6時でもまだやる気でね。部員はみんなヘトヘトなのに、まだ今日のメニューこなしきってないぞ!って」

「それで部員みんなもうついてけないってなって、部長を吊るしてやるって盛り上がっちゃってさ」

なんと自分ではなくて誰かを吊るすためのロープだったのか!

最後の晩餐に私の店を選んだのではなかった

しかしいくら相手が悪くても、これは踏みとどまらせないといけない

「それはおだやかじゃありませんねえ」

つとめておだやかに言う

「おだやかじゃないのは部長なんだよ。数こなしゃいいってもんじゃないのに、結果が出なくてもひたすら同じこと繰り返させるんだから」

反復練習の成果は目に見えにくい

万が一指導者がそれをわかっていないと、きつい・勝てない・こんな部やめてやるの3K運動部の出来上がりだ

顧問が専門家じゃない、部員の熱意だけで切り盛りしてるような、こういうなんにもならない部活はままある

それで他の先生に相談しに行っても、顧問にやる気がなければひとつも改善しない

まあそこまでワーストケースが重なった例はあまり見たことはないが、一人でしゃかりきになってる部長が部員に見放されて、廃部になったラクロス部を知っている

なまじ道具に金がかかる部活だっただけに、傍から見てもその結末は悲惨だった

「なんとか楽しく出来ないもんですかねえ」

人ごとではあるが、他の部活動してる子達を見る限りでは、ここでは楽しくやるのが第一義だ

大体学校混成の部のようだし、どことの競争ということもあるまい

「楽しいよ。楽しくやってる」

高天原の子がつゆの中でかき揚げを一口大にしながら答える

「でも部長はそれが楽しくないんだなぁ」

郁金香の子はおあげを残したまま麺を啜りきってしまった

ここはひたすら牧歌的な学園生活を送るばかりだと思っていたが、こんなでたらめな世界でも人と人との軋轢はなくすことが出来ない

ただそれでも、この世界においては”卒業”までの時間が長くなるだけの話かもしれない

我儘な人が我儘の限りを尽くして満足するまで、従順で殊勝な人の番が回ってくるまで待てばいいだけかもしれない

でもそれはやっぱり不幸だ

それこそ私の我儘かもしれないが、できることなら何もかもが丸く収まって、みんな笑って和気藹々な世界の空気を吸っていたい

だからこの場で彼女たちに我慢しろというのは間違っている

「吊るすっていうのはおだやかじゃあありませんけどね、吊るして落とす、なんてのは効くかもしれませんよ」

「吊るして落とす…?」

伸び縮みするロープが手に入るかどうかわからないが、世の中には木のツタを結んで飛び降りなければ大人になれない部族だってあるのだ

この世界なら大事には至らないだろう

私は長めのそばを一本取り、先に割り箸を結んでびよんびよんさせてみた

「ほほぅ…」

高天原の子がこれはしたりとそばの先の割り箸を眺めている

その時そばが千切れて割り箸が落ちた

まあ茹でていないそばだ

こんなものだろう

「いいねえ」

郁金香の子は落っこちた割り箸を見て悦に入っている

そばによる実演ではロープは足に結ぶのだということが全く伝わっていない

彼女らが何か勘違いしてしまったのではと、慌てて補足する

「これは地面につかない長さのロープを足に結んで飛び降りるもので…」

「なるほど、手を離せば顔面から落っこちるわけか!」

「いや、手は離さなくて…」

「これ最高だよ大将!早速こいつで…」

『何が最高だってぇ!?』

暖簾の向こうにいてもわかるほどの巨躯が二人の席の後ろに立っていた

でかい

パワーパフガールズの秘書の人みたいに顔が見えない

硬直した二人は顔面蒼白で滝の汗をかいている

「お前らレストは十分済んだみたいだな!ウェイトも増やしてくるとはいい根性だ!ひ弱なワンゲルどもに目にもの見せてやるぞ!帰ってリードクライム100本!」

「100本なんて休まずやっても日が変わっちゃうだろ!?」

「甘ったれんな!リードがお前の寝床だ!寝ながら登れ!」

「ちょっ…待っ…」

顔の見えない巨女は後ろから二人の襟首を掴むと、子猫でも運ぶみたいにゆうゆうと連れ去ってしまった

「…まいどー」

あの部長なら多分ノーロープバンジーで顔から落ちても無事だろう

どうやってあれを吊るし上げるつもりだったのか、後学のために聞いておけばよかったろうか

ともあれ楽しそうな部活でよかった

「先にお金もらっといてよかったね」

「まあ…そうだね」

お金は大事だ


どうやら山岳部だったらしい二人組が☓帰った◯連行されたあとは、ぱったりと客足が途絶えてしまった

8時は回った頃だろう

もう天ぷらもすっかり冷めてしまった

冷蔵庫の野菜はいつまでも悪くならないのに、温かい食べ物は冷める

冷めないと飲み食いできない人種がいるからだ

だから寸胴鍋はずっと火を炊いていなければいけないし、つゆも煮立たない程度に温め続けておかないとすぐに提供できない

「そろそろお店閉めない?」

ルネは手持ち無沙汰過ぎて割り箸でエッフェル塔を作っている

東京タワーで言う大展望台の下にもう一つ展望台があるのがエッフェル塔、大展望台から下が全部足になってるのが東京タワーだ

瓜二つのように見えて結構違う

道具もない中器用なことだが、このまま割り箸を無駄に消費されては赤字になってしまう

ガス代もタダではない

「仕方ない、今日のところは…」

麺は大分余っているが、どうせ悪くはならないのだ

明日また出せばいい

鍋の火を落とそうとした瞬間、暖簾をくぐる新たな人影が現れた

「やってる?」

暖簾をくぐるときの由緒正しいお作法だ

普通このくらいの時間になると制服姿も見なくなるのだが、彼女は高天原の制服を着ている

このリリカポリスには夜学というものがあった

ここは特殊な自己実現の場

昼間は何某かの生業に従事しつつも、学生生活にも参加したいという二律背反した欲求に応えるものだ

…というより、そうしないと日中授業に出ている間街が止まってしまう

「いらっしゃい。お席へどうぞ」

お冷だけはいつでもキンキンに冷えたのをお出し出来る

どうやら魔法瓶に入った氷は溶けないことになっているらしい

「あー…じゃあコロッケそば」

「あ゙!?」

コロッケそばとはそばの上にコロッケを乗せ、つゆに浸して食べる無粋な食べ物だ

いや、無作法な食べ方である

タネが形を持っている天ぷらと違い、コロッケの中身はマッシュポテトと挽き肉だ

パン粉の衣も含めて大変汁気を吸いやすい

汁気を吸ったコロッケはどうなるか?

衣は結合を失い、中身の芋と挽き肉がまろび出て、ボロボロに砕けてコロッケだったものがつゆと混じり合う

箸先を揃えて折り目正しく食べるそばの美しさを大きく害する邪悪

食に対する悪意

許しがたい暴虐

「 出 て け ー ! 」

「ええっ!?」

「急にどうしたのつむじ!?」

「うちにはコロッケそばなんて汚らわしい食べ物はなぁい!!」

「なんなんだよ!そば屋だと思って入ってみれば…」

「その通りうちはそば屋だ!帰宅時の空腹に救済を与える神聖なそば屋だ!ただ空きっ腹を満たしたいだけなら上の定食屋でコロッケ丼でも頼んでろ!!」

「なんて店だよ!二度と来ないよ!」

私の剣幕に押されて無作法な闖入者は街の暗がりに消えていった

「せっかく来てくれたお客さんだったのに」

「コロッケそばだけは許せない。あとサンドイッチを分解して食べるのとか、ごはんと納豆をかき混ぜて食べるのとか」

「許せないもの多いね」

「大体メニューに書いてないんだよ!?自分勝手過ぎる!」

「まあまあ、とにかく今日は閉店にしよ」

ルネに丸め込まれて今日は渋々暖簾を下げることにした


翌日登校してみると、壁SNSでは”一服寺の理不尽なそば屋”という話題がバズっていた

幸いまだ私のことだとは知れ渡っていないようだ

この壁SNSに検証可能性を与えておかなくてよかった

しかしコロッケそばを許容しない派は著しい劣勢だった

「どうして!きったない食べ方じゃん!」

「そんなグズグズに砕いて食べる人ばっかりじゃないんじゃないの?」

「わざわざ砕かなくても、食べかけを麺の脇に置いて麺食べるでしょ。その間にしみ出して、かじったとこから崩れてくるんだよ!」

「いやいや、つむじさん。そういうことじゃないって」

壁を見ているのはもちろん私だけではない

みんなが付箋の小さい文字を見ようと群れをなしている

そのため見ている者同士でしばしば場外乱闘が発生してしまう

「そばってほら、脂っけないじゃん?そこにコロッケが入ると脂が補強されて贅沢感が出るんだよ」

「天ぷらだって油だよ」

「字が違う。脂。獣の脂」

「そばにラード!おかしいよ!」

これはまた別な子

「語尾にデブをつけろ」

これもまた別な子

「何ぃ!?」

「さつまいもの天ぷらだってグズグズのボロボロになるじゃんよ」

「まぁまぁまぁまぁ!」

このままヒートアップされたらレスバの爆心地にいる私は消し飛んでしまう

「なんだよ!つむじさんはコロッケそば気に食わないんだろ!」

「いやまあそうだけど…この場で言い争っても埒が明かないっていうか…」

「逃げんのか!?」

「そうじゃないって!私はただ…」

「もう勝負でもすればいいじゃん」

ルネの放った一言は何故かたまたまその場にいた全員の耳に届いていた

「そうだそうだ!」

「決着つけようじゃねえか!」

もうだめだ

こうなってしまっては誰にも止められない

望んでもいないのに勝手に盛り上がられて、挙げ句私は反コロッケそば派の急先鋒に祭り上げられていた


「ルネが余計なこと言うから」

「あのまま揉めてても収集つかないでしょ」

「でも最初からこっちが劣勢なんだよ?」

「重要なのは勝ち負けじゃないよ。参加することに意義がある」

オリンピックにまつわる有名なお説だが、最初に言ったのはクーベルタン男爵ではない

1908年のロンドン五輪の折、判定を不服として対立していたアメリカとイギリスをたしなめるために、ペンシルベニアから来た主教が説教に用いた一節が元になっている

結果はというと、アメリカの訴えも虚しく開催国イギリスがメダル獲得数首位に立った

「主教様は気楽なもんだなぁ」

どう見てもアメリカの私は、ルネの部屋の狭いキッチンで干し椎茸を戻して甘じょっぱく煮付けていた

「舌にはうまみを感じるための受容体がある。これはグルタミン酸だけを感じる受容体と違って、核酸にも反応して応答を増強する。要するに出汁を組み合わせるとうまみをより強く感じるわけ」

鰹節のうまみはイノシン酸、鹿節はグルタミン酸

そして干し椎茸のグアニル酸を加えると、効果は更に増大する

ラードのうまみは鰹節と同じイノシン酸だ

私のうまみ三重奏に隙はない

店から持ち帰ったつゆに干し椎茸の煮付けを添え、かき揚げを乗せて出来上がりだ

「どうよ。上品」

ルネはまず干し椎茸の煮付けをつまんだ

「おー、なるほど。すごい。この椎茸だけでいいわ」

「おそば食べてよ」

「でもこの椎茸をつゆに浸して食べるとおいしいよ」

「そりゃおいしいに決まってる」

自分でも食べてみる

おいしい

想像以上だ

甘じょっぱいところをちょっとかき揚げに含ませて食べると、味変出来て二度おいしい

私は明日の勝負に一筋の光を見出した

勝てる


翌日

学食を借りてのコロッケそば対天そばの戦いはとっくに始まっていた

コロッケ陣営にうず高く積み上げられているのは黄金色の小さな俵

「あいつら…!カニクリームコロッケ!?」

汚い、なんて汚い連中なんだ

性根までグズグズのコロッケジャンキーどもめ

「干し椎茸ほどではないけどカニにもグアニル酸が含まれているんだ…!」

「いやぁ、でも、じゃがいもじゃないコロッケっておそばに合うの?」

案外おいしいと思う

しかしそういう問題ではない

庶民の味覚コロッケを庶民のファーストフードそばに浸して食うは庶民の嗜み

しかしカニクリームコロッケ!

同じ揚げ物だが格が違う

何しろカニが入っている

チョコレートで言えばピエールマルコリーニ

パン屋だったらメゾンカイザー

電車で言えば東急田園都市線なのだ

…いや、田都線はそこまでじゃなかった

しかしこのカニクリームコロッケそばという勘違いしたブルジョワにはお似合いだ

「椎茸の煮付けで勝てる?」

ルネは弱火で煮付けを温め直している

「向こうが汚い手を使うならこっちも考えがある」

私だって相手の出方を全く予想していなかったわけではない

まさか初手からこれを出すことになるとは思わなかったが

「ああっ!」

私が用意したものにコロッケジャンキー共は驚きを隠せないようだ

「デザート付けるなんて反則だぞ!」

「そうとも販促だよ」

私は昨日わらび餅も作っておいたのだ

と言ってもわらび粉なんか使っていない

片栗粉と砂糖だけのなんちゃってわらび餅だが、本物のわらび餅と違って透き通って清涼感がある

これにきな粉と黒蜜をかけてガラスの器に盛り、食後にちょっと甘いものが欲しくなる乙女心をねっとりキャッチ

「この天ぷらそばセットが食べたい人!」

瞬く間に私のカウンターの前に群れができた

学食に集まったオーディエンスは最早私のものだ

先に腹に入れさせてしまえばこっちの勝ちだ

リリカポリスの食いしん坊どもといえど一食にそば2杯は食うまい

「なんの!こっちだって!カニ味噌で出汁取った味噌汁を付ける!」

「ぶっwそばで味噌汁飲む人いないでしょw」

「ほ~らほら、カニ出汁の香りだよ~」

ふん、無駄な努力を

見るがいい私の小鳥たちの群れを

策に溺れたコロッケジャンキーは私のわらび餅にひとたまりもない

「ニヤついてないで給仕してよ!」

ルネはせっせと天そばをよそっては客に振る舞っていた

そうだった

私の救済を待つみんなに応えなければ

私も釣り餌のわらび餅を器に盛る

カニも善戦してはいた

しかしジャンクであることを自ら捨てたカニクリームコロッケそばなど恐るるに足りなかった


そうしてすっかりランチタイムが過ぎても、まだ学食には人がごった返していた

そりゃそうだ

なにしろタダでそばを振る舞っているのだから

だがそばというものには限りがある

「つむじ!もう椎茸ほとんど残ってないよ!」

「カニクリームコロッケだって底を尽きかけてる」

わらび餅は既に2度目を仕込んでいるが、まだ冷たくはなっていない

椎茸も追加で煮付けているが、こっちもそうすぐには味がしみてこない

こういう勝負は普通先に売り切れた方の勝ちだが、こういう状況だと話は違う

タダ飯を食い損ねたとなれば、悪様に言われるのは先に品切れになった方だ

最早味がどう、見た目がどうという勝負ではなくなった

だが品切れを待つことなく決着のときは突然訪れた

「あっ!あんたあの時のそば屋!」

現れたのは私の店でコロッケそばを頼んだ不届き者

朝の仕事を終えたのか今起き出したのか、ともかく夜学通いの足並みは違うのだ

私の方もこんなところで鉢合わせるとは、彼女のことをすっかり忘れていた

だがもう遅い

「あんたが食べたかったコロッケそばは、もうここにはないよ…」

ルール無用のデスマッチにフライヤーを占領され、今この学食にある揚げ物は天ぷらとカニクリームコロッケだけだ

「じゃあ天そばとカニクリームコロッケ」

「「は!?」」

私もコロッケジャンキーもこの無法に声を上げてしまった

こいつは本当にただ腹を満たそうとしているだけだ

だが今はそういう場ではない

見りゃわかるだろ

「タダでいいの?じゃ」

無法者は問答無用で天そばを持ち去り、そこへカニクリームコロッケを3個乗っけて席に持っていってしまった

その場にいた全員が凍りついた

「…いいんだ、そういうの」

そうだ、今ここに集まっている人間は、一人を除いて天そばかカニクリームコロッケそばを選択するものだと信じて疑わなかったのだ

二者択一で成り立っていた秩序は一瞬で崩壊し、ハイエナと化した群衆が無料のそばに押し寄せる

それからは阿鼻叫喚の地獄絵図だった

さっきまで行儀よく列に並んでいた生徒達は残り少なくなったそばを奪い合い、私達は矢継ぎ早に丼を提供した

まだ冷えていないわらび餅も、揚げ色が薄いカニクリームコロッケも、瞬く間に狩り尽くされていく

これが最後の麺です

学食のキッチン担当者が発したその言葉がハルマゲドンの引き金を引いた

最早そばでもなんでもよかった

この空間、この瞬間に何かを腹に入れられないものは負け犬だった

人は食が絡むとなんと醜いのか

食べなくたって死なないはずなのに

私達はなす術もなく餓鬼の奔流に飲み込まれ、決壊したダムの水に押し流されていく浮木のように、ただ海に流れ着くのを待つことしか出来なかった


あれからどれほどの時が流れたのか

「ごっそさん」

私の店でコロッケそばを注文した不埒者が最後の丼を返却する頃には、学食は略奪者に襲撃されたスーパーみたいに、口に運べるものは何一つ残っていなかった

「うまかったよ」

うまかった

そうか

コロッケジャンキーどもも苦笑いをしている

勝ち負けなどどうでもいい

特にこの世界においては、食べ物は味わうことに意義があるのだ

その点で死力を尽くした私達はどちらも勝者だった

私達は無言で握手を交わし、オリンピズムの何たるかを確かめ合うと、丼の山を流しに放り込んで学食をあとにした

「後片付けしていきなさいよ!」

丼の山を洗ってから学食をあとにした


翌日の壁SNSには学食の凄惨な一幕の話題で持ち切りだった

誰もそばの味など論じていなかった

動物園とか、イナゴの大群とか、そばを堆肥にするフードプロセッサーとか、散々な言われようだ

でもそういう話を斜めに読んでみると、大体はその場にいなかった人間のやっかみであることがわかる

本当はみんなあのらんちき騒ぎに加わりたかったのだ

人生にはこんなどうしようもない青春の一ページがあったっていい

あの場にいた人間は満たされたはずだから

「つむじ、お店どうするの」

「うーん…なんか気が済んじゃったな」

「…満足しちゃったの?」

ルネは一瞬浮かない顔をした

「ここに来るまでの私の人生はなんにもなかった。あのくらい毎日あったっていいよ」

「そっか」

そばに救いを求めていたのは外でもない私自身だったのだ

それによって一つ満たされたが、私の空虚な人生にやり残しは無数にある

「…でもそば屋はもういいかな」

もしかするとあの居抜き物件も、そんな思いの一つを叶えた子が残したバトンだったのかもしれない


手続きをして物件を明け渡し、数日経ったある日

ふと私のバトンを受け取ったのは誰なのか確認したくなって、あのマッサージボールがある冴えない路地に足を運んでみた

香ってくる出汁の匂い

これはこんぶ出汁

暗がりに灯りが差している

誰かが店を継いだようだ

どれ、私の後継者の顔を拝んでいくとしよう

長めの暖簾をめくる

「やって…」

「いらっしゃ…」

私達は顔を見合わせた

暖簾というのは厄介なもので、客も店主もお互いの顔が見えないのにこれから一戦構えなければならない覚悟を強いられる

「「あーっ!!」」

なんと店主はあのコロッケそばの無法者だった

「なんで私の店で!」

「もうあんたのじゃないだろ!不動産広告出てたから借りたんだよ!」

はっとなってメニューを見る

・コロッケそば

・温玉コロッケそば

・わかめコロッケそば

・冷やしコロッケそば

「コロッケ屋じゃん!」

「暖簾見ろ!」

店の外に飛び出して見ると、暖簾には”コロッケ亭”と書いてある

「コロッケ屋じゃん!!」

「そうだよ!コロッケ食わないんなら帰れ帰れ!」

「何この”冷やしコロッケ”って!冷やしにコロッケ乗せんの!?」

「これから暖かくなってくるのに、いつまでもアツアツのかけばっかり食べてらんないだろ!」

「だからってコロッケ乗せることある!?」

「天そばだって冷やしがあるだろ!」

「天ぷらはいいんだよ!」

「何を!?」


こうして己のそばをぶつけ合うことでしか満たされない青春もある

そばは救済なのだ

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