第10話

ルネの話では、私は女王に目をつけられたのかもしれないということだった

ヴェーダ様は夜の女王の名の通り、真夜中を司っている

色街を牛耳り、この街の裏社会を支配しているという

そんなものがここにもあるんだ、という驚きとともに、もしあの色街がなかったらアイちゃんはどこへ行っていたのかと怖くなった

それにしても転校生というだけでこんなに翻弄されようとは

小学校の頃、隣の市からの転校生を珍しがって持て囃していた自分を戒めたい


「ようこそ!テアトル・ル・シエルへ!待っていたよ!」

今はあゆ様の大げさな歓迎がありがたい

あゆ様の”天国の劇場”を見学に行こうと言い出したのはルネだった

夜の女王にマークされたとなると、誰か他の女王に渡りを付けておいた方が身のためだという理由だ

この劇場は隣の駅の近くにあり、ここは確か私のいた世界ではミニシアターやスタジオなどが入っていた複合施設だった場所だ

その頃と変わらない外観は、明らかに時代性を超越した極めてモダンなオーパーツだ

ルネの言った通り芸術は時を超えるのだろう

眩しいくらい光が差し込む全面ガラス張りのエントランスから奥へ分け入ると、舞台を見下ろす階段状の客席がついた劇場が姿を表す

そこまで大きくはないが十分立派だ

むしろ最後尾の立見席からも舞台がそう遠くなく見え、演者の表情もよくわかるだろう

舞台正面の最前列では、裏方らしいスタッフ数人が台本とにらめっこしている

「すいません、レオタードはないので今日は見学で…」

「面白いことを言うなぁ転校生くん。我々は何を着てる?」

みんなTシャツに体育着だった

「レオタード着せようとするのはこの人の趣味よ。気をつけて」

真っ直ぐな美しいロングヘアを後ろで一つ縛りにしているスレンダー女子が言った

背丈はあゆ様と同じくらいある

「ビゼはいつもつれないんだ」

「他の子はあなたに甘過ぎるのよ。つむじさんって言ったっけ?この人の言葉をいちいち真に受けちゃだめよ」

女王相手に随分辛辣な人だ

あゆ様も特に動じていない

近くにいた劇団員が耳打ちしてくれた

「ビゼ様はあゆ様のお妃が内定してるんだけど…」

「そこ!余計なことは言わなくていい!」

「す、すみません!」

ビゼ様は中々の地獄耳だ

それよりもお妃とは

この世界にどうやら男はいないらしくて、あらゆる社会的役割は全て女性が担っている、というのは理解した

でも仮にも学生の身分で結婚までするのか

「女王は激務だから、妃を娶って補佐してもらうの。公の立場でのパートナー」

とルネは言った

要するにアネモイのことを女王というのと同じ文脈で、補佐官のことを妃と呼んでいるらしい

「もちろん公私共に添い遂げるって人もいるけど」

だろうね

そういうのももう慣れた

このビゼ様なんかは特に、かなり私的にあゆ様を拘束していそうだ


今この天国の劇場が練習している演目はチェーホフの”熊”だった

未亡人が夫の借金を取り立てに来た地主と口論の末決闘になり、最後は恋に落ちるという喜劇だ

男が女がと、ステレオタイプなジェンダーロールをぶつけ罵り合い、しまいには銃を持ち出して殺すの殺さないのと揉めるのだが、こういった男性性の存在や死の概念には誰も違和感を持っていないように見えた

「死はファンタジーなの。妖精とか、鏡の国と同じ」

しかしまた、アイちゃんが人の死に言及したことも現実とは思えなかった

地主スミルノフ役をあゆ様、未亡人ポポーワは当然ビゼ様

誰がこういう配役にしたのか知らないが、他の選択肢はないだろう

登場人物が3人しかいないこの一幕物に結構な数の劇団員がいるが、その他大勢はコーラスやガヤを担当するのだという

頭数が余るからといって原作に存在しない木の役とか石の役を宛がって、わざわざ全員にセリフを与えるなんてのはゆとり教育が生んだ醜悪な歪みだ

それを配慮と言ってのける教員達は子供の目から見ても異常だった


私達は特等席でこのコメディを見せてもらった

正直私はスミルノフは上條恒彦のような男だと思っていたので、「君に殺されるなら本望だ!さあ撃ち給え!」と宝塚みたいな芝居をするあゆ様に、一体何を見せられているんだろうという気持ちになった

ただ、女を十二人捨て、女九人に捨てられたと豪語するプレイボーイはあゆ様以外考えられない

「さあ決闘よ!」と言ってスミルノフに熱い接吻をするポポーワがこの劇のクライマックスだ

決闘の意味がいっぺんに卑猥になったところで、ポポーワは前夫が大事にしていた馬にはもう餌をやらなくてもいい、と言って幕が降りる

あゆ様とビゼ様のキスシーンでコーラス隊はキャーキャー大騒ぎだ

ごちそうさま

出演者が辞儀をして情熱的な通し稽古が終わった


「実はポポーワ役はダブルキャストでね。転校生くん、どうかな?」

「だめよ、信じちゃ」

「冗談ではないよ。ビゼは嵐が丘のキャサリン役もやらなきゃいけないんだ」

「そのことなら大丈夫と言ったじゃない」

「君は大丈夫さ。でも君がいない間の練習相手が欲しい。セリフ長いからね」

熊は登場人物が少ないのもあって、間のほとんどをスミルノフとポポーワのセリフが占める

「悪い病気よ。まったく…」

ビゼ様は納得していないといった顔で袖にはけてしまった

「さあ、お手を拝借…よろしいですか?それともお嫌ですか?」

とあゆ様は私に向かって手を差し出した

「いえあの…私は見学だけで…」

「お嫌だとおっしゃる!」

お芝居はもう始まっていた

「この通り私はあなたに恋をしてしまったのです!」

あゆ様はひらりと翻ると跪き、私の手を取った

「この五年というもの私は女性を遠ざけてきた!その私が甘い甘い砂糖菓子のような誘惑に敗けたのです…!」

私の手を両手で包むと、私が握っている見えない拳銃を自分の胸に突きつけた

「ご亭主に先立たれて七ヶ月だ!そのあなたが私の妻になっていただけないというのなら、どうぞお撃ちなさい!」

私はあゆ様の一挙手一投足に呆気にとられていた

こういう人は人の目を掴んで自分に向けさせる力があるのだろう

あゆ様は頭の天辺からひもで引っ張られたみたいにすっと立ち上がると、呆然とする私の腰を抱き寄せた

「私はあなたを愛します」


その時何が起きたかを理解したのは、黄色い声が引いて水を打ったような静けさが覆ってからだった

あゆ様の見開いた瞳は動揺している

私ではないものを見ているような瞳

あゆ様の吐息が鼻にかかる

あゆ様の唇はリモコンのボタンみたいな弾力で、くっきりとした形が感触だけでもわかる

一歩離れたあゆ様は、私を抱いていた自分の手を見、足を見、周りを見渡していた

見開かれたままの目が、初めて私を見た

「は…はは…ハハハハハハハ!」

あゆ様は唐突に高笑いを始め、その後しばらく笑い続けた

ひとしきり笑うと、肩で息をするあゆ様は私に向き直った

「すばらしい!すばらしいよつむじくん!君は最高だ!」

と私の顔をガシッと掴むとまたキスを見舞った

ぶちゅうううっと音がしそうな情熱的なキス

この街の女の子は人の唇を呼び鈴か何かだとでも思っているのか

「ハハハハ!ビゼ!ビゼ!最高だよ!」

「ちょっ…着替え中よ!」

あゆ様は袖の控室に飛び込み、下着姿のビゼ様を抱え上げてくるくる回っている

近くの劇団員が教えてくれた

「あゆ様はここの劇団員全員と一度はキスしたことがあるけど、それであゆ様の方が有頂天になるのは初めて見たよ」

「…あたしは知らなかったよ」

とルネは遠い目をした


しかし私は、私でないものを見ているようなあゆ様の瞳が忘れられなかった

アイちゃんのときと同じあの瞳

あと一度目のキスの時あゆ様が舌を入れてきたのも忘れようがなかった

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る