第3話
「靴は脱いでね」
彼女の部屋は、私を追い回す一団から逃げる時に通った石段の脇の、タラップが付いた屋上の小部屋だった
駅前のアーケードを折れた中に、小さい店が5軒ほどの慎ましい商店街がある
その一番奥にある、鉄製の外階段が据え付けられたテラスハウスの屋根の上
石段の方ではなく、商店街の奥が正面玄関らしかった
玄関を入ると、外と同じように大小様々な鉢植えが並べられ、部屋全体がマイナスイオンに満たされているかのようだ
玄関からDKらしい空間と、その奥に仕切りなく続くベッドルームが見える
決して広くはないが、外から見るよりちゃんとした部屋だ
バルミューダのランタンのような小さな明かりがいくつも灯り、暖かい光が濃いオイルステインで仕上げられた室内をぼんやりと照らしている
「お邪魔します」
部屋の床と地続きの玄関は、私が脱いだのと同じ厚底のローファーの他にリボンがキュートなミュールやカラフルな革ベルトのサボみたいなサンダル、長いブーツ短いブーツ、そしてかかとを踏み潰したキャンバス地のデッキシューズがあった
籐で編まれた傘立てにはベージュ色のヘリンボーン地の傘が一本
握りはべっ甲のようだ
荒く削ぎ落とされた表面は、下手くそが皮を剥いた芋みたいになっている
玄関だけで彼女のライフスタイルが羨ましくなった
URの狭い玄関に靴を並べる気にならず、普段履きの靴とクロックス以外は壁と見分けがつかないシューズボックスに全部押し込んでいた
暮らすにあたってきれいで新しいとか安心安全ばかり考えて、自分らしい生き様の追求なんて少しも頭になかった
ここには私の人生になかったものが山積みになっている
この部屋だけではない、この世界のそこかしこにも
それにどう見たってこの部屋は、私の部屋ほどの家賃は取られないだろう
失礼にもそう言い切れるくらいあちこち古びて見えて、年輪を感じさせる部屋だった
「外が騒がしかったのはあなたのせいだったんだね」
ホーローのケトルに水を満たし、マッチでコンロに火を点けながら彼女は言った
「ごめん…あと…ありがとう」
おまじないはきちんと言っておく
まして彼女にはれっきとした借りがある
「いいって」
火加減を見ながら短く答えた
些末なことには拘泥しない、前向きな性格のようだった
だがこういうタイプが常にいい意味でポジティブな人間とは限らない
「でも転校生なら、あなたの住処っていうのはどこかに用意されているよ」
少し窮屈な台所のテーブルに、縁に藍色のラインが入った揃いのお皿とティーカップを並べ、ティーポットに目分量で茶葉を振り入れた
「かけて」
私に椅子を勧め、戸棚からビスケットの紙包みを出して机の上に広げた
手作りのような、目の粗いテクスチャの美味しそうなビスケットだ
とっておきというふうでもなかった
ますます彼女の暮らしぶりが羨ましく見えた
机はオイルで拭いただけの質素な木のキッチンテーブルで、足が細く木目のコントラストが心地良い
長年使い込んだように擦り切れていて、あらゆる角が丸くなっている
椅子も揃いのスツールで、鋭い四本脚とクッションもないシンプルな座面が潔かった
「今日はうちに泊めるよ。部屋は明日学生課に行って見つけてもらえばいい」
間仕切りのない隣の寝室は、テーブルとは逆に重厚で大きめなベッドが占領している
彼女はワンピースの真っ白なセーラー服を上から脱ぐと、ベッドの上に放り出した
シルクのスリップは手縫いのような刺繍で縁取られていて、あまり主張はないが上品で高級感がある
ランタンの明かりが照らす薄暗い部屋の中で、シルクの輝きがひときわ目立つ
下は揃いのものらしいペチパンツだ
台所でケトルが彼女を呼んだ
コンロの火を止めてみた
最早実家でしか見ることのないガスレンジだ
「あっ、いいよ。やるから」
スリップの上からグレーの地味なカーディガンを羽織って台所に戻った彼女は、厚手のミトンでケトルからティーポットに熱湯を注ぐと、慣れた手付きで茶こしを構えながらそれぞれのカップに紅茶を注ぎ分けた
「いただきます」
ここに来て初めて飲み物を口にする
カップを持ち上げると、お皿の真ん中に交差した剣が縁と同じ色で小さく描かれている
カップが唇に触れたとき、何か大事な感触を思い出しかけた
立ち上るかすかな香りを読み解こうとしているうちに、それは記憶の底に追いやられてしまった
ちょっと薄い紅茶だった
「あれっ、お茶っ葉少なかったかな…」
どうやら二人分というのは淹れ慣れていないようだ
「追いかけ回されて大変だったろうけどさ、みんなを悪く思わないでやってよ」
「だけどみんな目の色を変えて、私を脱獄犯か何かみたいに襲いかかってきて…」
「あなたは確か…そう、七年ぶりの転校生なんだよ。わかる?七年ぶり」
わからない
「この街の学生は物珍しいだけで追い回すの?」
「追い回さない?」
はい、とは言えなかった
「どこの部も委員会も、新人が欲しくてしょうがないんだよ。この時期どこにも所属しないでぶらついてる人間なんていないからね」
「…勧誘?あれ勧誘なの?」
「まあ…脱獄犯でないのならね」
彼女はサクッとビスケットをかじると、薬指で唇についたビスケットのかすを払った
私も一ついただいてみた
サクサクして口の中でほろりと崩れ、甘いバターの香りが鼻をくすぐる
見た目で想像していた通りの味だ
いつもこんなおやつを食べているんだろうか
「気に入った?購買の人気商品なんだよ」
そんなにビスケットに囚われているように見えたのだろうか
でも美味しい
彼女は購買と言った
学生課とも
「私は…私達は学生なの?」
「…まあね」
彼女は少し言い淀んだように見えた
「見える?」
席を立ち、ティーカップの縁を親指で撫でながら鉢植えだらけの出窓に歩み寄ると、カーテンをよけてこの屋根の上から見えた線路の向こう側の丘を促した
ゆるやかな斜面を象るように小さな灯りが散らばっている
「あっちの丘のてっぺんにあるのが高天原女子学校、あたし達の学校」
今度は反対の、私の家があったはずの丘を指差す
「こっちには
西側の窓の真正面、隣の急行停車駅があるはずの方を指す
「あと向こうに一服寺女学館。羽織袴の学校」
テーブルに戻ってきて、どっか、とスツールに腰を下ろす
「全部女子校?」
「そうだよ?」
それが当たり前、といった感じで頷き、残りの紅茶を飲み干した
そういえばここに来て男性の姿を見ていない
それどころか大人を見た記憶がない
紅茶やビスケットを味わっていながら馬鹿馬鹿しい気もするが、思い切って疑問をぶつけてみた
「ここは天国?私って死んじゃったのかな」
「ここに来る前のことを覚えてるの?」
彼女は真剣な表情になった
馬鹿馬鹿しい疑問などではなかったようだ
何もない私の毎日を話すと、彼女は身を乗り出して話に聞き入っていた
私のつまらない身の上話をこんなに食い入るように聞く人がいるとは
「…それで今日、気がついたら駅前で泣いてる女の人に膝枕されてた」
「最後のとこだけわからないな」
それは私もだ
「でもその様子だと、あなたは記憶を失ってないみたい」
「他の人は記憶がないの?」
「この街にやってきた人は、ここに来る前のことをすっかり忘れてしまっている。いい思い出も、悪い思い出も」
彼女は私の手を引いて年季の入った姿見の前に立たせた
「見てごらん」
うわ、うわ、うわ!
近頃コシを失ってだらしないリクルートヘアだったはずだが、鏡に映る左肩のひとつ結びは自力でボリュームを保ち、ハリがなくぺちゃんこだった前髪もふんわりと厚みを取り戻している
枝毛一つなくサロンに行ったばかりのような毛艶
肘も膝もつるつるで、首筋にも目尻にも一本も皺が見つけられない
肌のきめはまるで赤ん坊のようだ
「ここではみんな一番いい体だった頃に戻ってやり直せる」
それ以上だ!
足首なんか人差し指と親指で作った輪っかを通りそうなくらい細く見える
「すごい…!最高じゃない!?」
「それは以前の自分を覚えてるから。みんなはこれが普通」
少なくとも私は得した気分になれた
鏡の前で何度もくるくる回って、若さを取り戻したことを精一杯実感しようとした
彼女はぬるくなったお湯を出がらしの茶葉に注ぎ、渋味しかなくなった二杯目を傾ける
ポットを上げて勧められたが私は断った
ここは人の家だ
頻繁にトイレを借りるのは気がとがめる
「記憶をなくし、若さを取り戻して、ここで学園生活を満喫して…」
「満喫して?」
彼女は言葉を選んでいるようだった
「この街からいなくなる」
それはすごく深刻そうなことに聞こえた
それでも彼女が私を傷つけまいとしているのを感じ取れた
ずっとこうだといいけど
学生生活を満喫した人間がどこへ消えるかなんて、正直なところどうでもよかった
ここが天国かどうかはわからないが、少なくとも若い私は引く手あまたの転校生で、購買にはこの美味しいビスケットがあるのだ
聞いておきたい疑問がもう一つ出来たが、今彼女にそれを聞くのは得策ではないと思われた
自分でもずるいとは思ったが、時にこういう配慮が友情を長引かせるものだ
「大丈夫、あたしはいなくならないよ」
私が抱いている不安をそう察したのだろう
少し違うが、彼女がいてくれるなら心強い
と同時に、彼女に尋ねたい疑問がいっそう大事なことになってしまった
「ありがとう」
おまじないも大事
「あなたがいてくれてよかった」
「ルネよ」
彼女はビスケットの粉を払って手を差し出した
ルネ
何語だろう
どういう意味だろう
でも多分彼女の名前には違いない
細くて柔らかくて、少しひんやりとするルネの手を握り返した
まるで赤ちゃんの手のようにふんわりした感触だが、今はこの手が頼もしい
「自分の名前が思い出せないの」
「ここに来る人はみんなそう」
ぎゅ、とひときわ力強く握り返すと、ルネはいたずらっぽく笑った
「あたしが名前を付けてあげるよ」
とんでもない名前を付けられたら困る
赤ちゃんだって、名前をつけられる時に物心がついていたら、きっと色々注文したいことがあるだろう
でも何より、ないよりはある方がいい
捨て猫だって、気に入っているかどうかはともかく、いつも同じ名前で呼ばれたらそれなりに安心するに違いない
雑然として有機的なルネの部屋を見回す
それでいて何もかもがきちんと機能するようだった
私はルネのセンスに賭けてみた
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