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第2話

眩しい光が私の瞼を貫く

陰ったり、また差し込んだり、光が揺れ動いている

木漏れ日を確かめたかったが開けるにはまだ目が痛い

頬を撫でる風は涼しい

爽やかで甘い香りがする

香りはどうやらこの柔らかい枕から漂ってくるようだ

額に雫が落ちてきた

この眩しさは雨ではないだろう

しばしばさせながらなんとか瞼をこじ開けてみると、そこには人の顔があった

さっきの雫は涙だ

この人は泣いている

「大…丈夫?」

やっと絞り出した声はちゃんと聞こえただろうか

この人は顔をぐちゃぐちゃにして涙を拭っているばかりだ

今やっと気がついたが、私が枕にしていたのはこの人の太ももだ

私は跳ね起き、恐る恐るこの人の前に立ち上がってみた

目をこすってくもりを晴らすと、穏やかな春の日差しの真ん中にその人は座っていた

腰まである柔らかくカールした髪が風に揺れている

胸元に紫色のタイを締めた、襟まで真っ白なセーラー服だ

砂を払おうと自分を見下ろしたら、どうやら私も同じ服を着ているようだ

どうして?

こんな真っ白な服は小学校の給食着以外着たことがない

いや、そもそもセーラー服って何歳まで着ていいやつ?

私がうろたえている間も目の前のこの人は泣いている

今の状況を一列に並べてみた

この人は石畳に寝そべっていた私に膝枕をしてくれていたのだ

しかも石畳に直に座って、だ

この人にぶつかりでもしたのだろうか

「どこか痛いところは…?」

大泣きするほど痛い思いをさせてしまったのに、私の方が介抱されていたのだとしたら気が引ける話だ

「平気、違うの」

彼女も涙を拭いながら立ち上がった

「あなたに会えて、嬉しい」

はにかんだ泣き顔でそう言うと、彼女は人目を避けるように走り去っていった


そう、私は今たくさんの人目に晒されていた

街路樹の向こうから覗き込む人影、通りを挟んでヒソヒソしている集団、石造りの駅舎から走り寄ってくる二人組

みんな私と同じ制服を着ている

じわじわと私を包囲する人垣が狭まってくる

くりくりした瞳の背の低い子が言い放った言葉が一瞬で空気を変えた

「あなた…転校生?」

みんなが息を呑む音が聞こえるようだった

波が沸き立つ寸前の、一瞬の凪

転校生であってはまずい

そうにちがいない

私の中の何かが走れ!と叫んだ

こんな経験をしたことはなかったが、人間生まれながらにピンチを察する感性を備えているものなのだ

私は人垣の僅かな隙間をめがけて走り出した

私を掴もうと伸びる手を払いながら石畳の通りに飛び出すと、坂を下ってきたクラシカルなスクーターとニアミスした

駆け出すと視界の端にスクーターがバランスを崩すのが見えた

「ごめん!」

転んでいなければいいけれど

力を振り絞って石畳の坂道を登っていく

後ろを振り返るまでもなく、私を追う声が迫ってくる

「転校生よ!」

今一番聞きたくない言葉は転校生になった


このまま走り続けても坂しかない

左にカーブした坂の頂上には十字路があって、二本の坂道が互い違いになっている

どこに曲がっても坂また坂だ

上りか下りかの違いしかない

どうして私はこの道を知ってる?

ここは私の知っている街なのか?

整然と敷き詰められた白と灰色の石畳、白い漆喰の家、入り組んだ小路

見たことのない街路樹が落とす鮮やかな影を踏み越えて脇道に入る

街並みに見覚えはないが道は体が覚えている

脇道は一段上の道に出られる三階分の石段になっているはずだ

石段を駆け上がると上からも人の声が聞こえてくる

石段の左手には二階建て数軒が連なる小さな商店街があり、踊場からその屋根に直接出入りできるタラップが伸びている

足元いっぱいに並べられた鉢植えを避けながら錆び付いたタラップを伝い、屋上に建て増しされたような小部屋の瓦屋根に飛びついた


よじ登った三階の高さから振り返ると、眼下にはさっきまでいた石造りの駅が、線路を挟んだその向こうには、丘一面の漆喰の家々と天辺の時計塔が見渡せた

二つの丘に挟まれた、ゆるやかな谷を覆うこの街の姿には確かに覚えがある

だがホームとアウェイのユニフォームの違いのような、街がまとう見覚えのないディティールが私を戸惑わせている

足元の斑色の素焼瓦も、私の身の回りでは見たことのないものだ

「待っ…てッ」

追手も屋根によじ登ってきた

私は手薄になった駅の方に向かって屋根から屋根へと飛び移り、そのまた隣へと追手を引き離した

この下は駅前通りのアーケードが連なっているはずだ

アーケードの上は非常時のために歩けるようになっていると聞いたことがある

ここなら距離を稼げる

私は立ち止まることなく二階の屋根からアーケードめがけて飛び降りた


アーケードじゃない!?

私の目に飛び込んできたのはアクアフレッシュみたいなトリコロールのオーニングの連なりだった

残念ながら小洒落たオーニングは私の体重を支え切れず、着地とともに根元からへし折れた

ジャッキー映画みたく転げ落ちた私は、石畳の歩道で強かに尻もちをついた

鼻から落ちなくてよかった

まだ駅前に屯して成り行きを見守っていた一団が駆け寄ってくるのが見える

私はお尻を撫でながら建物と建物の間の薄暗い路地へ逃げ込んだ


そこは異質な空間だった

真昼間なのに足元まで日が差し込まず、そこここにくすんだピンク色のネオンが瞬いている

いくつかある建物の戸口らしいところには、それぞれに女の子が立っている

どの子も虚ろな表情で、めいっぱいに科をつくって妖艶な雰囲気を醸している

想像もしていなかった景色に呆気にとられていると、一番近くに立っているキセルを持った女の子が話しかけてきた

「転校生だってェ…?お安くしとくよォ」

ここは風俗街だ!

よく見るとみんな制服らしきものを着ていた

スカートの丈が膝上20㎝だったり、ノースリーブだったり、へそが出ていたりするが、大体私と同じ制服であることに気が付いた

「色街に逃げ込んだわ!」

追手の方はお構いなしだ

私は娼婦の木立の中へ走り出した

確かこの突き当りは右へ曲がる裏路地があって、さっき屋根の上を渡ってきた小さな商店街の中に続いていたはずだ

ところが裏路地にはバリケードのように酒瓶のケースが積み上げられており、その奥にはご丁寧に金網が張ってあった

完全な袋小路だ

退路は路地を塞ぐように建っている一番奥の店しか残されていない

私は開けっ放しだった戸口に飛び込んだ


後ろの方から「お一人様ご案内でぇす」という気だるい声が聞こえた

薄暗い店の中は濃厚な香りの煙が漂い、十席あるかどうかのバーカウンターには改造制服の女の子が3人と、氷の入ったグラスを傾ける普通の制服の女の子が座っている

店の女の子のうち2人は私の方を見たが、客は身じろぎもせずグラスの中の液体を眺めている

カウンターの向こうにはバーテンらしい格好の女の子がデキャンタを磨いていた

「裏口は!?」

一度は言ってみたいセリフだったが、冷静に考えてみるとこういう状況とセットなのは思ったよりも楽しくない

バーテンは手にデキャンタを持ったまま、顎で席の後ろにある階段を指した

「ありがと」

こういう時にちゃんとお礼を言っておくと、あとで気を利かせてくれたりするのだ

もちろん何度もこんな目に遭うのはごめんだが

降りる人とすれ違えない、人一人がやっとの狭い階段を這い上がると、上り口のついた居酒屋の個室みたいなものが両側に並んでいた

とはいえ店構えからしてもそれぞれの部屋はせいぜい二畳くらいだろう

この部屋の中でたまたま知り合った二人はたちどころに恋に落ち、燃え上がって一夜のうちに冷めるのだ

そして客には未練が残るところがこの商売の勘所といえよう

廊下まで何とも言えない甘い香りで充満している

裏口があって人の出入りがあるとは思えなかった

「上よ!」

バーテンは気を利かせてくれなかった

まあ他に行けるところはないんだからしょうがないけど

だとすればやはりこの奥に出口があって欲しい

一番奥の突き当りの部屋に飛び込んだ

ベッドの端で壁に背をもたれている大袈裟なサーファーカットの女の子が、気だるげにこちらを一瞥するとグラスを持った手で奥の障子を指さした

「…ありがとう」

念のためおまじないをしておいた

お客を取ってない部屋でよかった

障子の外は古い木のベランダで、さっきの石段を上がりきった高さの通りに面していた

身を隠しつつ通りを見回すと、先程石段の上で待ち構えていた一団は私を追って下へ降りたようだった


私の足は無意識に自分の家のある方へと踏み出していた

ただ本当にこの先に自分の家があるのかは自信がない

石段を右に見て通りを進むと、丘の上に立つ団地の中の道に出る

無造作に立ち並ぶ団地は背が低く、古びて見覚えのない建物ばかりだ

しかしやはり道は覚えている

北側からは”ヘ”の字型に折れ曲がっているように見えた建物は、前に回ってみてもヘの字型に折れ曲がっていて、どうやら上から見ると漢字の”人”みたいな形をしているようだった

なるほど、どの部屋も日照が確保できて隣室と壁を接しない、利口な形だ

私の足が止まった

やっぱり違う

私の家はこのあたりだったはずなのだ

1LDKのUR物件で、ちょっと家賃は嵩むが築年の割に小綺麗な部屋だった

だがここには見覚えのない”人”型の建物が空間を開けて立ち並んでいるだけだ

見慣れたモカ色の10階建てはどこにもない

私はようやくこの街に打ちのめされはじめていた

団地の中の通りを歩きながら、足元の花壇でうなだれている山百合を見ていた

追手の声は遠く、このあたりにはこちらを追いかける視線はないようだった


いつの間にか団地群の端にある公園まで来ていた

藤棚と滑り台があるだけの小さな公園

私は滑り台の下に膝を抱えてうずくまった

この街は何なのだろう

私は何故こんなところに投げ出されているのだろう

慌ただしい足音が声を上げながら公園の外を走り抜けていく

生け垣のせいで滑り台の下は通りから見えないようだ

こちらからも見ることは出来ない

何で私が転校生なんだろう

こんな格好なんだから学生なのかもしれない

でも私は…

私は何者なんだろう

自分の名前を思い出せなくなっていることに気づくと急に心細くなり、言いようのない寂しさが襲ってきた

私は死んだのだろうか

みんなが着ている真っ白な制服は、幽霊が白い服を着て現れるのと同じなのではないだろうか

こうして五体満足なせいか、生を喪失したという感覚はない

ただ何も成すことが出来ずに人生を終えたのだと気付きはじめたら、不安を押しのけて悔しさがこみ上げてきた

悔しくて悔しくて、涙が溢れ出した

自分にこんな未練があったことにも少し驚いていた

私を膝に乗せて泣いていたあの人は誰だったんだろう

私に会えて嬉しいと言っていた

なら何で私を放ったらかしてどこかへ行ってしまったのか

何でみんな私を転校生と呼んで追い回すのか

いっそ捕まって尋問でもなんでもされていれば、カツ丼の一つも出てきたかもしれない

幸いまだひもじさを感じるほどではなかった


滑り台の下で膝を抱えたままどれくらい経ったのか

街灯が点き始めた

空は紫から黒にグラデーションし、かすかに星が瞬いて見えた

ここで遊ぶ子供は一人もいないようだった

あたりはすっかり暗くなり、煌々と輝く街灯が根本の地面を眩しく照らす

不思議なことに街灯に吸い込まれていく虫達は見当たらなかった

「おっかしな人がいるぅ」

突然後ろから声がした

逃げようと立ち上がったら滑り台の底に頭をぶつけ、ボュンと鉄板が歪む音がした

「ゴメンゴメン、そんな驚くとは思わなくて」

私は慌てて滑り台の下から這い出し、立ち上がろうとしたがふらついて倒れた

「でもあたしも暗がりに誰かいるのに気づいてびっくりしたんだよ」

そう言いながら彼女は私を助け起こしてくれた

ふんわりしたチョイ長めのボブで、手を借りたとき毛先が私の鼻をかすめた

いい匂いがする

私と同じ制服を着ているようだ

すると同じ学校、つまり私のことは転校生だと思っているのだろう

「立てる?歩ける?よし」

彼女は私の制服から土を払うと、背を向けて歩き出した

「早く帰らないと寮監にシメられるよ」

驚いたことに彼女はそれ以上私に興味を示さなかった

今言わなければ絶対に後悔する

「私…っ、帰るところが…ないの」

彼女は立ち止まって振り返ってくれた

まずは上々

「ワォ、じゃ転校生だ」

そのことは知られたくなかった

「来て」

そう言って私を促すと彼女はまた歩き出していた

はっきりとは見えなかったが、前を向く彼女の口元が笑ったような気がした

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