リリカポリス

玄鉄絢

第1話

春というと人は何を思い浮かべるだろうか

わたしは「ジョニーは戦場へ行った」

映画だ

戦場で腕も脚も、目も耳も口も失い、最先端の医療で死んでいないだけの肉塊となった「ジョニー」は、病室の窓際に置かれたベッドに横たえられている

それでも「ジョニー」はナースの清拭で日を数え、頬を撫でる風や肌を暖める陽の光で春を感じるのだ


しかし実のところ、窓際のベッドはそんなにいいものではない

光の反射でテレビは見づらいし、夏は暑く冬は冷たい

窓だってろくに開かない

窓が開いたら飛び降りるとでも思っているのだろうか

地面に叩きつけられたって、どこよりも早く医者が駆けつけるのに

それでもし果たせなかったら、今よりもっと酷い有様で一生ベッドに縛り付けられることになってしまう

それより堂々と部屋の扉から出て行く方がずっと簡単だ

長く入院していれば、看護師の目を盗んで病院の外に出るくらい造作もない

「凪ちゃん、今日はどう?」

だからなのか、わたしの担当の上田さんはわたしのことをとてもよく見ている

看護師というとみんな朗らかで誰にでもニコニコしていて、内心何を思っているのかと勘ぐってしまう

その点上田さんはいつもぶっきらぼうで冷ややかにしているが、わたしの前では鋭い目を細めて笑う

現金な人は好きだ

上田さんは甲斐甲斐しくわたしの世話をしてくれて、時には休みなのにわざわざ病院に来て話相手になってくれる

すっかり見舞い来なくなった家族より、上田さんの方がずっと親身になってくれる

わたしには何も報いることができないが、せめてわたしの何かを託そうと公証役場の人を呼んで遺言を遺した


そう、わたしは死にかけている

臓器を取ったりすれば収まるような、シンプルな病気ではないらしい

強いて言うならこれは恋の病

それも10年以上の長患いだ


あまり裕福でない家に生まれてしまったわたしは、お受験もさせてもらえなかった

でもそのおかげで旗疋はたびきさんと出会うことが出来た

公立に通う代わりに、幼い頃から様々な習い事を押し付けられた

あくまでも慎ましい予算の範囲内で、だが

みんなはわたしが綺麗な字を書いたりピアノを弾いたりすると、すごいと言って持て囃した

わたしより上手い人からそれを習っているのだから、その言葉は気休めにもならないのに

わたしの祖父母は厳格かつ凝り固まった観念の持ち主で、女の子なんだからと真っ赤なランドセルをわたしに買い与えた

わたしには選ぶチャンスさえなかった

こんな郵便ポストみたいな赤に、どんな服を合わせればいいというのか

みんなが背負っているピンクやラベンダーやココア色のランドセルが羨ましかった

「凪ちゃんかっこいいの!」

真っ赤なランドセルを背負うわたしにそう言ってくれたのは、旗疋さんだけだった

屈託のない瞳がわたしを見ていた

みんなはわたしの字を見て、ピアノの音色を聞いてすごいと言った

でもわたしの目を見てわたしを褒めてくれたのは旗疋さんが初めてだった

その瞬間から旗疋さんはわたしの特別になってしまった

旗疋さんは突出したものを何も持っていない、ごく普通の女の子

でもわたしは、明るくて誰にも気さくな彼女にどうやって近づいたらいいか、まったくわからなかった

それからずっと、わたしは彼女のことを見つめてきた

彼女に焦がれ、もう一度彼女の視線を浴びたかった

歪んだ初恋は覚めることもなく、わたしとともに成長した

彼女に近づく男が現れると、わたしはそれを彼女から引き離した

わたしが声をかけると男は簡単にわたしに鞍替えした

旗疋さんの良くない噂を流すと、みんなは信じた

ほら、こんな奴ら、旗疋さんには絶対に相応しくない


そんなことを何年も続けてきた罰なのだろう

わたしは病に倒れた

わたしは何をやっているんだろう

今頃旗疋さんは大学で適当な男に引っかかって、気安さに付け込まれているに違いない

こんな病気で旗疋さんの元に駆け付けられない自分が悔しい

情ない

残り少ない命をそんな後悔に費やし、病院のベッドで一日を終える日々が繰り返された


でもそれもようやく終わりの時が来た

わたしに繋がれた機械がけたたましく鳴り響き、看護師たちがわたしの周りを慌ただしく駆け回った

点滴が追加される

心臓に頑張ってもらう薬だよ

前に投与されたとき上田さんはそう言っていた

でももうわたしの心臓にはそれで奮い立つ力は残っていないみたいだ

苦しい

今日に限って上田さんはいない

最後のお礼が言いたかった

でもわたしのものは欲しければ何でもあげるって遺言に遺したから、それで勘弁して

上田さんへの手紙も書いたから

医師もやってきてますます騒々しくなった

わたしは厳かに死ぬことも許してもらえないのか

最期にもう一度、旗疋さんの顔が見たかった

今頃はどんな姿になっているだろう

天に昇るとき彼女の上を舞って、振り返る彼女を見れたらいいのに

こんなになっても虫のいいことばかり考えている

わたしが天国に行けるわけがない


さよなら、わたしが好きだった人

ありえないかもしれないけど、あなたが落ちてくるのを地獄で待ってる

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