『月の女主』

  序


 色彩の渦をはらんだ闇が地上より帰還した。

 死と安寧の王、偉大なる冥府の支配者、灰色の神ジェスは、己が獲物を冷たい石畳の上に降ろした。

 伏せた細身の肉体は震え、立ち上がることすらかなわぬ。石畳に乱れ散る腰ほどの髪は金とも銀ともつかぬ中に無数の色彩を滑らせ、一時ひとときとして同じ色であることはない。月の女主おんなあるじには似合いの色だ。ジェスとしても不満はない。

「名は?」

 答えはない。既に失われたかもしれぬ。そもそも必要のないものであり、ジェスもさほどの興味はない。

「これよりはミュラス﹅﹅﹅﹅を名乗れ」



(略)



 少女の名は既にない。しかしそれではいかにも不便である。

 死の王のげんに従って、ミュラス、と仮置きしよう。ミュラスは恐る恐る宮殿の廊下を進んでいった。

 曲がりくねった廊下はゆったりとした下り坂になっていて、少しずつ地下へと沈んでいくような感覚が足元から常にまとわりついてくる。

 周囲は不気味なほど静まり返っていて、ここまでの道すがら、すれ違うただ一人の人さえいない。

 下りきった先には大広間が広がっていた。ミュラスから向かって奥側の壁にはいくつもの銀の扉が並んでいて、近づいてみれば、それぞれに古式の数字と植物の浅浮き彫りが装飾として刻まれている。

 そのうちの一つが静かに開いた。ミュラスは反射的に半歩下がり、傍の円柱にその身の半ばを隠した。

 扉の内より出てきたのは背の高い女だった。高く結い上げた漆黒の長い髪に黒衣。顔を灰色の覆い布で隠していて、そこから時折薄い唇の朱が覗く。その程度の露出からでも端々からひとかたならぬ造形の美を感じさせる。

「ようこそ、ジェスの宮殿へ。新しい方」

 声をかけられ、ミュラスはそっと柱の陰から歩み出た。

「あなたは」

五人目﹅﹅﹅です。五、とお呼びください」

 抑制のきた声音が、朱の唇からこぼれ落ちる。

「あなたと同じ、ミュラス﹅﹅﹅﹅です」

「やめて!」

 ミュラス、正確には三十七人目のミュラス、おのが名を失った少女は金切り声を上げた。

「私は違う、私は……私は……ああ」

 地上にあった頃の名も、その記憶すら曖昧になり始めている。死者のように。ここは死者の国であった。

「諦めるのが肝心です。我らは死の王ジェスの唯一人の后ミュラスの一人﹅﹅﹅と相成りました。もはや地上との縁は切れたのです」

「なぜ私なの。私たちなの」

「人によります。私はこの指先と爪を以て選ばれました」

 かたは指先を開くようにしてミュラスに差し出した。形の良い指と美しく磨かれた爪だった。咲き誇る花のよう。常のミュラスなら、嬉々として似合う色をあつらえただろう。だが今は無理だ。そして、おそらく美貌を誇るだろう女性の、指爪のみを取り上げるその奇妙な贅沢さに引っかかりを覚えた。

 ――では、自分はどの部位を以て選ばれたのだろう、とぼんやり自問し、それは口の端をついて出た。「では、私は、なにが」

「分かりません。ジェス様でなければ。ただ、気に入られた部位の被っている者はおりません。ひとたび上位の者が連れてこられたら、その時点で下位に甘んじた者はお払い箱となります」

下位の方はどうなるの」

 五の方は直接の返答を避けた。「ここは死者の国ですから」

 安易な解放にはならないのだろう。ミュラスは手の震えを抑えようと腰元の髪を束ねるように握りしめた。地上にありし頃よりの手癖だった。



(『月の女主』。死の王ジェスに拐われ名を失った女たちがミュラスとして扱われる中、三十七人目のミュラスとして連れてこられた少女がジェスを打倒し己の名を取り戻すまでの物語。上下巻。)

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