『シュノフローラワ②咲き乱れる神々の花』


  一章 胎動


(変な夢だったな……)

 花邑はなむらみゆきは昨夜見た夢のことを考えていた。

 写真でしか見たことのないような大きな月が、端から欠けていく――あれは月蝕なのだろうか。

 数週間前に部分蝕があったとクラスメイトから聞いている。あいにくの雨だったとも。恐らくそれに引きずられて見た夢なのだろう。

「おはよう、みゆき」

「えあ、お、おはよう」

 考え事で足が教室前で止まっていた。友人の聡子に慌てて挨拶を返す。

「どした? 何かぼーっとして」

「う、ううん何でもない」

「ならいいんだけど」

「浅倉、ちょっといいか」

「あ、はーい。……じゃ、またね」

 部活の顧問に呼ばれた聡子は行ってしまった。

 残されたみゆきは、軽く息を吸って教室に入った。

 ――奇妙な感覚があった。

 辺り一帯を覆う膜のようなものが剥がれ、そこから覗き見られるような。似たようなことが前にもあった――前にも――

「花邑」

 喧騒の中、クラスメイトの天城あまぎ翔真しょうまがみゆきを呼んだ。

 瞬間、いつもの風景が戻ってくる。

 まるで呼びかけが抑えとなったように。

(まただ)

 天城翔真は普段と何ら変わりない。いつものように何を考えているか分からない。

 似たようなことは前にもあった。

 みゆきは努めて平静に応えた。

「なに? 天城」

 あの事件のことを忘れたかのように。



 一週間前のことだ。

 音楽教師の砂山さやま可南子かなこが放課後の音楽室で突然みゆきに襲いかかってきた。人の形が弾け飛び、巨大な蜘蛛の姿を取り――みゆきが覚えているのはそこまでで、意識を取り戻した時には既に何事もなくなっていた。砂山という存在自体、最初からなかったかのように、影も形もなくなっていた。

 ただの夢だった。そう思おうにも、みゆきは砂山のことを覚えている。巨大蜘蛛から助けてくれたのが誰だったかも。「忘れろ」と言われたことも。



(あの時)

 記憶に残っている最後の瞬間。巨大蜘蛛がみゆきにのしかかってきた、あの時。

 天城は迫りくる蜘蛛の脚を切り裂き、それから、

(それから)

 ミュラス﹅﹅﹅﹅、と呼んだ。


(略)


「シュノワ神話のミュラスねえ」

 高柳は角度のずれた眼鏡を直しながら復唱する。

「なんでまたそんな」

「うん、色々」

 みゆきは言葉を濁した。説明はし難い。「ちょっと興味があって」

「昔先輩が部誌に書いてたなあ。色々やるよね文芸部。ちょっと待っててね」

 部室の端の本棚から古いコピー誌を二冊、引っ張り出してくる。そのまま二人は部室中央のテーブルについた。

「ミュラスって、存在として、話としてシュノワ神話の中でも孤立してるんだよね。死の王ジェスにさらわれたっていうエピソードだけで存在が立ってる。まあジェスも珍しく浮気エピソードとかない神だし、関係性が小さくまとまってるところある」


(略)


 屋上の鍵は開いていた。

 強風の中、翔真は慎重に歩を進め、外側から鍵をかけた。

 人はいない。誰も。

「人にすとは愚かなことね、ジェス。まああなたは昔からそうだったけれど」

 セーラー服の少女が語りかけてきた。腰ほどまである艷やかな黒髪が風に煽られ舞う様は死界の多頭龍ドゥーンを思わせる。恐らく年下の、小柄であどけなさすら感じられる顔立ちと声に、表情と口調が噛み合っていない。

 翔真――灰色の神ジェスは、蜘蛛の時とはまた異なった緊張の中、答えた。

「お前こそ人の真似事に耐えられるとは思えなかったが」

「ふふ」

 少女はわざとらしくその場でくるりと回った。

「あなたたちとは別のルートを踏んでるから心配は無用よ。それにしても、人は色々と拘束が多いわね。あなたと揃いの髪色、とでも思えばいいのかしら。もしかしたら、姉弟のように見えるかもしれないわね」

「……ラグラス」

 翔真は低くうなった。

 ラグラス。灰色の神ジェスの兄弟神のうちの一人。暴風と噂の神であり、ジェスと同じく神々の饗宴からは距離を置いている。

「ミュラスに術をかけているのね、灰色の神。あの色彩の渦みたいな存在感が見事にかき消されている。これなら、よほど注意深い神でないとミュラスだとは気づかないでしょうね。もっとも、先の蜘蛛バーラの襲撃で察しの良い連中は勘づいたかもしれないけど」

「…………」

「あの娘、神代じんだいの記憶がないのね。相変わらずの察しの良さがどう出るか」

「何が目的だ」

「別に。ただの物味遊山ものみゆざんだから何だっていいのよ。私はね﹅﹅﹅

 ラグラスは紅い唇の端をつり上げた。

「気をつけなさい。ベルテが来ているわ」

 ベルテの名に翔真の表情が険しくなる。



(略)


「……あなた、やっぱり肝心なことは覚えてないのね」

 図星を突かれて翔真は沈黙した。少なくともラグラスに隠し立てすることはできない、という予想は翔真にもあった。

 ラグラスの口調から、先程まであったどこかふざけた含みが消える。

「ねえ、なぜミュラスを死者の国に連れて行ったの? 私たちはあなたが彼女を妃にしたことすら驚いたわ」

 答えは沈黙。

「覚えていないのね。あなたも、ミュラスも」



(『シュノフローラワ②咲き乱れる神々の花』。シュノワ神話の神々が現代日本に蘇るファンタジー小説。少女小説レーベルから刊行された。主人公はジェスとミュラスが人間に転生した姿で、主神バルドーがヴィランを務める。その他独自設定が多い。全18巻)

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