辛卯 四

 窓は閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。男に指摘され、翔も自分の部屋に面する壁の窓を睨めた。

 周りには街灯が少なく、家も二階部分は殆ど夜に隠されてしまっている。見えるわけないじゃない、と萌黄が呟いたが、翔は男に頷き返した。男の方が正しい。少なくとも、今の自分には。

 部屋が二階にあると、施錠の有無など頓着しなくなる。だから家の前に来るまで不安ではあった。翔は二人を玄関脇に隠し、ちょっと待ってて、と言って自分は塀の上に飛びあがった。そのまま塀を伝って家の周りをぐるりと一巡する。家の窓の数と位置は、さすがに把握している。そこから漏れてくる光や、見える室内の様子から、両親のいる位置と状況とを確認した。父親はリビングでテレビ。母親は風呂上がりで、髪を乾かしている。二人とも一階。動くなら今のうちだ。

 塀を伝い、家の、自分の部屋に通じる窓がある一面の前に立つ。両足を曲げ、軽く弾みをつけて跳び上がると、二階建ての家の屋根のへりを掴んで、自分の部屋の窓の前にぶら下がった。ゆっくりゆっくりと、音を立てずに窓を開ける。下からは、テレビの音と、ドライヤーの唸り声。二人とも、階上の様子にはまったく気を払っていない。

 翔は飛び降り、音もなく着地した。そうして萌黄と男のところに戻る。姿を隠す気が全くない男と、家の塀に寄りかかるようにして待っている萌黄。翔は萌黄に頷きかけると、萌黄が何か言い出す前に、先の如く萌黄を抱え上げて塀に登り、駆ける勢いのままに飛び上がって、開け放った二階の窓から部屋の中に入り込んだ。

 とん、と柔らかな足音を立ててフローリングの床に降り、萌黄を降ろす。暗闇の中でもはっきりと分かる青ざめた顔で、何か言いたげにぱくぱく口を開く萌黄。

「隠れておいて――」

 無言でそう告げると、翔は窓から飛び降り、地面に着地した。

「……」

 家の二階に飛び上がり、鍵を開け、女の子を連れ込む――。

 自分のことが嫌になる。非常識の扉を開いてばかりいる、自分に――。

 これじゃあ、萌黄が嫌うのも無理はないか。

 つんを胸を刺すものがあった。心を重くする痛み。あの狂人に蹴り飛ばされた痛みよりも、執拗に胸をちくちくする、この痛みの方が耐え難かった。

 塀から地面に降りる。男の方は振り返らずに、ドアのカギを開けて家に入った。

 何食わぬ顔で、帰宅を告げる。遅かったな――と父。母親もドライヤーを終えて、リビングに入ってきた。

「お帰り。その様子じゃ――何もなかったみたいね」

「変な勘繰り入れるなよ。ちょっとコンビニ寄って、帰ってきたけだって」

 そうかいそうかい、と笑う母。父は何も言わずに、テレビに視線を戻す。自然な成り行きで、二階へと上がれそうだ。

 それじゃ、と言って翔は二階へ上がった。風呂どうする? と洗面所から母が訊く。寝る前に入るからお湯抜かないで、とだけ言って、翔は部屋のドアを開けた。

 閉めたドアに凭れ、ほっと一息。ベッドの影から、萌黄がおずおず顔を覗かせる。翔はふっと笑って、電気を点けた。ベッドの傍らに座り込んだまま、目だけ動かして周りを見ている。

「翔の家――っていうか、男の家って、初めて入ったかも」

 変なモノなかったよな、と慌てて部屋の中を見回すが、そもそも物が少ない。汚れた服も家を出る前に全部降ろしておいたはずだ。

「ゆっくりしてて。ここからでも一階の物音は聞こえてるから、両親が近づけば、すぐに分かる。それより――本当に、家に連絡しなくて大丈夫?」

 萌黄は頷いた。どこで話をするか決める際、真っ先に萌黄が自分の家を提供しようとしたのだった。家に誰もいないから――らしい。しかし萌黄はそれで良いだろうが、翔の両親が心配するだろう。翔が一度家に帰ってから再び抜け出すことも考えたが、その間、男と萌黄を一緒にしたくはなかったし、男も反対した。一時でも散り散りになれば、例の男が再び襲いに来るかもしれないから――と。考えた末、取り敢えず翔の部屋に三人で忍び入ることになった。男曰く。部屋が二階にあるということも、好都合らしいのである。

 そうか、と翔は頷き、それ以上深くは詮索しなかった。いつものことだ。

 それじゃあ、と窓に手をかけて男を呼ぼうとすると、服の端を萌黄に引っ張られた。ん? と振り返ってしゃがみ込み、萌黄と頭の高さを同じくする。

 若干の沈黙があった。翔には一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。心臓の早鐘が、無音の室内に響き渡っていないか、心配だった。

 翔――漸く、萌黄が言った。躊躇いがちに、ぽつりぽつりと。

「あの、さっきは、酷いこと言って……ごめんね」

「ひどいこと?」

 すぐには見当がつかなかったが、やがて、ああ――と思い至った。

「あたし、あたし、翔に助けてもらったのに、その――動揺してて、翔のことを怖がって、あんなことを言って……。翔はずっと、あたしを守ってくれたのに、それなのに――」

 真っ直ぐ翔を見つめる右の瞳から、ぽろりと一滴零れ落ちた。

 考えるよりも先に身体が動いた。萌黄の肩に両手を置く。置いてから、しまった! と思ったが、萌黄は身体を震わせる様子も、嫌がる素振りも見せなかった。

 何か言うべきなのだろう。何も思いつかない。萌黄の中にある動揺、混乱、後悔、自責……それらを和らげるための言葉。

 ここで萌黄の心に寄り添えたら――自分にそんな器があったなら。翔は唇を噛んだ。

 さっきの戦闘よりも、よっぽど判断に困る。夜を駆け、夜を支配している――はずが、目の前の相手一人どうすることもできない。

 萌黄もこっちを見ている。何か、言葉を待っているのだろう。何か言わねばならない。何か――。

 風の気配がした。

 自分の瞳が水を擦ったように、大きく膨らむのを感じた。身を翻し萌黄の前に立ち、窓を睨める。

「――何だ、随分とのんびりしてるな」

 窓の縁には、男が立っていた。自分たちを襲った方じゃなくて、自分たちを救った方だ。男は窓の縁に腰を下ろして、そこから下界を眺め、

「高見台とまではいかないが、視界が開けているのは好都合だ。野郎の性質上、地面に近い方が危険だからな。ここからなら……仮に奴が近づいて来ても、すぐに分かる」

「――合図があるまで来ないでって言ったのに」

 安心した途端に零れだす愚痴。遅いからだよ、と男は嗤う。

「妙齢の男女が電気も点けずに何やってんだか」

「何をそんな――ッ」

「違いますよ――ッ」

 小声ながら激しく否む翔。その後ろで、まったく同じ反応を見せる萌黄。二人の目が交差して、寸時の間を置いて――。

 やれやれと言った風に、二人同時に笑った。声を潜めて。

 一頻り笑って、萌黄が背中を突く。振り返るよりも先に、声がした。

「翔――ありがとう」

 肩を竦めてみせる。それで十分だ。誰かを救う言葉なんて、そんな大層なものは知らなくても、気持ちが伝わるタイミングは逃さない。たぶん、それで良いのだ。

 男は窓から降りて靴を脱ぎ、ベッドの上にどっかり座って二人を見る。

「その様子だったら、まァ大丈夫そうだな。そんじゃ、説明してやる。お前さんら二人が、何に巻き込まれちまったのか。だが気ィ付けろ――。相当に深い、この世の暗部を覗き見するんだ。さっきまでの吃驚なんてブッ飛んじまうほどのショックだ。全てを知ったら、もう戻れなくなる。それでも知るしかない。今から話すのは、そういう話だ」

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