辛卯 三
呼吸のペースが乱れた。整えるため、翔は足を止めた。
どこをどう走ったかは分からない。地面に敷かれた道を走っていたかどうかすら、記憶にない。逃走本能のままに塀に飛び上がり、屋根の上を駆け、家々を飛び越え――そうして行きついた先は、三方を塀で囲まれた袋小路だった。
「……」
粗く息を継ぎながら、翔は周囲に視線を走らせる。行き止まりだからと言って、窮地に陥っているわけではない。目の前の塀を駆けあがれば、まだ走り出せる。問題は他のところにあった。
――いつまで逃げれば、追っ手を撒けるのか。
自分の頭が追い付けないほどの速度で、ここまで来たはずなのだ。風邪を纏うどころか、風そのものになって夜を駆けた。それにも拘わらず、背中にはねっとりとした視線を感じる。どこに行こうと、相手があの不気味な姿を闇の中に溶かして拡散させ、ありとあらゆるところに監視の眼を向けているような……そんな感覚が消えず、腹の底をゾッとさせるのである。
「翔……」
抱きかかえたままの萌黄が呟く。蚊の鳴くような小さな、力のない声だった。
大丈夫かと訊こうとして、すぐに止める。大丈夫なわけがない。ここまで腕の中で揺さぶられっぱなしだったのだから。休まなければいけないのは、萌黄も同じなのだ。
ごめん、と小さく誤って、萌黄をゆっくり下ろす。地面に足が付いたその瞬間、萌黄は崩れ落ちるように座り込んだ。慌てて駆け寄ろうとする翔を手で制し、更には身体を引き摺って、翔と距離を取ろうとする。萌黄のその様子に、翔は立ち竦まずを得なかった。
萌黄――名を呼ぼうとしても、声が出なかった。舌が上の歯の後に引っ付いたようになっていて、喋ろうにも喋れないのだ。
萌黄は振り乱れた髪を掻き分け、翔を見上げた。その瞳の中に翔は、最前から自分が抱いていたそれと同じ色を見る。
恐怖。
「萌黄……」
今度は声が出た。萌黄は暫くの間、いやいやをするように首を横に振っていたが、やがて翔を責めるような口調で言った。
「翔……ほんとうに、どうしちゃったの?」
「どうしたって――」
言葉に詰まる。だってそうでしょう、と、萌黄は引き攣った笑みすらを浮かべた。
「あたし……死ぬと思った。翔、何をしたか、分かってる――? あたしを、あたしを抱えたまま塀を乗り越えたんだよ? 屋根を走ったんだよ? 家を飛び越えたんだよ? ほとんど空を飛んだんだよ?」
「……」
「普通の人間に、そんなことできると思う? あたしを抱えたままで、あんなに、速く走るなんて……人間に……そんなの――そんなの、できるわけないじゃない!」
辺りを憚るような囁き声ではあった、それでも萌黄は激高した。それが彼女の、精いっぱいの抵抗であるらしかった。
翔は返す言葉がなかった。答えなんて、返せるはずがなかった。何の自覚もないのだ。翔の中にあったのは、逃げるという衝動のみだった。それ一つが、萌黄をここまで怯えさせるのだ。
さっきの男と自分――どちらのほうが萌黄にとって脅威なのか。考えてみるまでもない。
自分のやったことが、彼女の常識を砕いた。世界理を瓦解させたのだ。
客観的に見れば――そうなるくらいのことを、自分はやったのだ。
わけがわからないよ、と萌黄は震える声で言った。
「あの変な人も分からないし、翔のことも分からないよ。ほんとうに――どうしたの? あたしたち、どうなっちゃうの?」
感情の氾濫を堪えるかのように、萌黄は両腕の中に顔を埋め、呻き声のようなものを漏らした。
「萌黄――」
翔は立ったままだった。一歩だけ、足を踏み出した。萌黄は首を横に激しく振って後ずさろうとするも、背中は塀にぴったり付いていた。その様子を見て、翔の身体に針で刺したような痛みが走る。がくりと項垂れ、ゆっくり膝を突いた。
謝ろうとした。が、言葉は出なかった。
否――もはや言葉を出すことはできなかった。
ぞわりと視線を感じた。膝を突いたまま体の向きを変え、萌黄を背中に守るようにして、前方を睨んだ。
袋小路に至る道は、五メートル先で十字路になっている。その十字路の右側から、件の男が顔を覗かせているのだ。
「……翔?」
萌黄の震え声。萌黄にはまだ、相手の姿は見えていない。
「動かないで」
やっとそれだけが言えた。萌黄が小さく悲鳴を上げる。背中に触れる手も震えていた。が、その手の感触に翔は安堵した。萌黄は自分を怖がっている。悔やみようのない事実。ただ少なくとも今は――十字路の影に潜む男よりも、自分のことを信じてくれている。
ゆっくりと立ち上がる。そうして相手に向かって一歩踏み出す。それに応えるように、向こうも姿を現した。変わらず汚れた格好。ゾッとするような冷笑。特に変化は見られない。疲労した様子もないし、怒りを感じているようでもない。
その佇まいが、翔に、嫌というほど思い知らせるものがあった。
やっぱり追ってくる。
やっぱり逃げきれない。
全身の毛が逆立った。このまままた、萌黄を担いで塀を超えることはできるだろう。だが、追いかけっこは無限に続き、いつかは捕まる。そうとしか思えない。
どうすれば良い? 翔は自問を繰り返した。男の狙いはどちらにあるのだろう。男が発した言葉――兎が何とか言っていた。獲物ということだろうか。兎だと言われたのは自分だ。獲物はこっちか。ならば萌黄は――見逃してくれるだろうか。
もう一度逃げを試み、十分に引き離したところで萌黄を警察なり何なりに送り届け、自分だけ逃げて可能な限り距離を取る。そうすれば少なくとも、萌黄の安全だけは保障されるだろう。
頭に迸る電光石火。相手を睨んで牽制しつつ、その挙止動作に気を配り、逃げ出すチャンスを探る。男は緩慢な足取りで、二歩三歩と距離を詰めてくる。いざとなればすぐ逃げだせるように、翔は身体を低くし、両足に粘り強く力を蓄える。
男の足取りが軽快になる。独特なステップ。身体の極端な上下。それが見る見るうちに激しくなって――
男の姿が消えた。同時に、自分のすぐ脇を風が通り抜けたように思った。
今度もまた、考えるよりも先に身体が動いた。
萌黄を抱え、地面を蹴って飛び退った。体勢を崩し、背中でザザザと地面を擦る。二人がいた空間には萌黄の鞄だけが残され、それが翔の見ている前でざっくり避けた。
「痛ッ――」
萌黄が唸る。翔は起き上がって膝立ちになり、萌黄を支え起こす。その間も相手の気配を探る。視認までにそう時間は要らなかった。消えたと思った男は、目にも止まらぬ速さで翔たちとの間合いを詰め、今は、袋小路の塀の上に立っているのである。
「糞ッ――」
翔は唸った。自分と同じ、否、自分以上の速力を備えているようだ。これでは絶対に逃げられない。あまりにも一方的、そして圧倒的。
しかし相手の男は、翔が見切って躱したことが意外であり、不満でもあるようだった。茶化すように口笛を吹いた後、忌々しそうに、
「手前――なかなかすばしこいじゃねえか。さすが、兎なだけあるな」
と、またよく分からないことを言う。見開かれた目は相変わらず冷たく、爬虫類のそれのように、まったく感情を読ませない。
「さっきの一撃で片す気だったのによ。ちょこまかと、面倒くせヱ野郎だ」
「お前――何だ! 何が目的だ!」
堪らず叫んだ。その声は空しく夜に響くばかりで、男の冷笑に即座に掻き消えた。
「手前は知らねえで良い。知らねえまま、俺の手にかかって死ぬんだ。それが手前のカルマって奴よ。可哀そうだが、まア心配することはねえ。そこの女もろとも、仲良くあの世に送ってやらア」
「――」
翔は言葉を逸した。口を開けば、咆哮となって迸り出たかも知れなかった。激しい熱が体中を駆け巡り、さっきとは違うものが全身の毛を逆立たせた。
深々と息を吐き、身体の中を荒れ狂う激情を双眸に宿し、相手を見上げる。男は、ほう――と趣を感じたかのような声を上げ、
「中々の殺気だ。股の毛も生えてねえくせに、大人ぶりやがる」
やはり愚弄するような態度を崩さない。
翔は背を低く屈めた態勢を変えず、窄めた口から長く長く息を吐いている。背中で震えているであろう萌黄のことは脳裏をよぎらず、身も心も、ただの一念に支配されていた。
排除するしかない。
目の前の、この狂った男を。
どんな成行があってここまで来たのか、最早そんなことはどうでも良かった。目の前に敵がいて、そいつが命を狙ってくる。生き延びるためには、相手を排除するしかない――。
これも本能という奴だろうか。翔の心理は、ありとあらゆる日常的思考から切り離され、相手の言動に感応して生まれた答えそれ一つだけを捉えていた。
男がニヤリと笑って、右手を真横に伸ばす。その手にあるもの――三日月のように曲がる三枚の刃。街灯を受けて、ぎらぎらと輝いている。
鎌だろうか。しかし柄を持っているようには見えない。むしろその三枚の刃は、歪に広げた手の指の、真ん中三本から直接伸びているような――。つまり、あの刃は、鎌でなくて、爪――。
考え至れたのはそこまでだった。男の姿が消えた。そしてハッとした時には、右手を振り上げた男が眼前に迫ったのだ。
咄嗟に腕を背後に薙ぎ、萌黄を突き飛ばした。少しでも男と自分から距離を置くために。それは一応、成功したようだった。だが、自分自身の護身は、何をどうやっても間に合わない。
まずいと思ったその瞬間、時間が急激に凝縮して、密度を強めたような感覚を覚えた。男の動きも、自分の動きも、酷くゆっくりかつ緩慢に見えた。男が嬉々として持ち上げた左足が、自分の腹に食い入る。翔の身体は男の左足に踏みつけられて背中から地面に激突して跳ね返り、男がさらに強く踏みつけて、地面に釘付けにした。
そこで漸く、時間が本調子に戻った。
「が――ッ」
苦痛に呻く翔。逃げようにも腹を踏みつけられていて逃げられぬ。男はべとりと舌を出して、翔の苦痛を味わうように唇を舐めている。振り上げた指の先には、鎌のように肥大した刃が三本。やはり、あれは爪なのだと翔は目を見開いた。
「終わりだ、クソ餓鬼」
男の声が聞こえるよりも先に、夜が切れる音がした。思わず翔は目を瞑る。萌黄が何か叫んだようだったが、聞こえなかった。
激しい音と共に火花が顔に振りかかったように思った。男が吠える声と、鉄の焼けるような臭い。と、急に腹の痛みが消えた。
何が起こったかは分からない。が、何をすべきかは本能が教えてくれる。
咄嗟に腕で地面を蹴って飛び退り、態勢を整える。そこで初めて視界が開けた。
「え――」
混乱に次ぐ混乱で、翔の頭は今ほとんど働いていない。ただそこにある事実を、捉えるだけである。
目の前には、男の背中があった。鉄の爪を持つ狂人ではない。もっと汚らしいなりをした、殆どボロ雑巾も同様の見てくれの男である。その男が翔の前に立ちはだかり、手にしたバールのようなもので、相手の攻撃を跳ね返したらしいのであった。
「何が――どうなって」
愕然として呟く翔の視界に、萌黄の姿が写り込んだ。翔が突き飛ばした状態のまま、地面にへたり込んで、こっちを見ている。その視線は翔ではなく、翔の前に立つ男に向けられていた。そして萌黄も翔同様の動揺と困惑を浮かべている。
「あなたが――何故」
思い出すのは、翔よりも萌黄の方が速かった。萌黄の呟きを聞いて、翔にも漸く記憶が呼び覚まされた。
塾の傍にいた汚らしい男――。影に隠れるようにして、こっちを見ていた男――。それが今、ここにいる。
「手前――なにモンだコラ」
痛みに顔を歪めながら、鉄爪の男が牙を剥く。もはや翔のことは眼中になく、新たに現れた男ばかりを意識しているようだった。故に翔は、地面を蹴って一足で萌黄の傍に行き、彼女を背中にして膝を突くことができた。
謎の闖入者はフンと鼻を鳴らして、バールで掌を叩きつつ言った。
「ただの通りすがりだ。弱ェからって一方的に甚振りやがって、気に食わねえな」
その見てくれからは想像が付かぬほど、艶張のある声。喋るだけで相手を圧倒してしまいそうである。
ンだとコラ! ――相手が吠えた。が、一歩も前に踏み出そうとはしない。声だけで抑えつけられている。爪を閃かそうとするが、肩が強張っており、動きがぎこちない。あんなに恐ろしかったのに、酷く小さく見えた。
狂人と変人の睨み合い。それも長くは続かなかった。
チッと舌打ちの音。興が削がれたぜ――とぼやきながら、相手は右手でガシガシ頭を掻きむしった。あの三枚の刃は、いつ納めたのか影も形もない。
「まァ急ぐこたァねえやな。手前の面は割れてるし、どこにいても見つけられる――手前等は、もう死んだも同然だ。二人仲良く、墓穴に入れてやるからよ」
漫画か何かの悪役のような捨て台詞を吐き、じゃあなと背を向ける。次の瞬間にはその姿が闇に溶け、風とともに掻き消えた。
「……」
後に残された三人。地面に座り込んだままの翔と萌黄。錆だらけのバールをカランと転がして、やれやれと嘆息する、謎の男。
「あ、あの――」
腹の痛みに呻きつつ、翔は立ち上がる。男は答えず、鉄爪の男が消えた方を見ていた。翔は男に一歩踏み寄ろうとして身体をぐらつかせ、萌黄に支えられて、どうにか安定を取り戻す。男はふふんと鼻で嗤って、
「情けねえ。何てザマだ。その様子じゃあ、ここで助けても明日には死ぬな」
「何を――何を言ってるんですか」
萌黄が言う。怒気を含ませて入るが、明らかに虚勢だと分かるほどに声に力がない。
男はようやく二人に視線を映した。翔も相手の眼を見返す。男の眼は夜を湛えているかのように淀みがない。黒目がかなり大きいのだ。その瞳の中に、萌黄に支えられた無様な己が見え、思わず眼を伏せた。さっきまで自分の中に滾っていた威勢、それらの一切を後悔したくなるほど、みっともない姿だった。
痛むか、と男が感情のない声で訊く。翔は首を横に振って両足に力を込め、背を伸ばす。萌黄の支えがなくても、立てるところは見せねばならない。この男を、これ以上失望させてはならない。そんな気がしたのだ。
「あなたはいったい……誰なんですか。あの男は――何なんですか」
男を睨みつけながら問うた。さっきまでのような眼力はなく、ともすれば気力が挫けそうだった。蹴られた腹はまだ痛く、全身の節々が悲鳴を上げている。
男は空を仰いだ。夜の空気を目いっぱいに吸って、吐き出す。
「教えてやろう。だが――場所は変えたほうが良い」
そう言って振り返らずに歩き出した。翔と萌黄は顔を見合わせ、おずおずと、男の後に続いた。
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