辛卯 二

「出かけてくるわ」

 さらっと言い残して家を出るつもりが、背後にかかる母親の声。興味半分、猜疑半分といった表情である。

「こんな時間に? どこへ?」

 ひらひら手を振って、散歩とだけ答えた。急に思いついてぶらつきたくなった、という風を装うことが肝心だ。変な勘ぐりをされては堪らない。

「散歩って……大丈夫なの?」

「何が?」

「だって、もう九時よ。あんた、変な輩に絡まれてんじゃないの?」

「そんなわけないじゃん。金だってせびられてないよ。ほら、見て財布。五百円しか入ってない」

 そこはもっと入れとけよ――とツッコむ母親。訝しげな色は、だいぶ薄れている。

 それにさ――と、もう一押し。

「夜の九時が遅いなんて、今時どころか二十年前の高校生にだって通用しないぜ。塾行ってる奴なんて、もっと遅くなるんだからさ」

「塾――へえ、塾ねえ」

 夜になると勘が冴えるのは、母親からの遺伝なのかも知れない。ニヤリと笑って、

「分かった分かった。足止めして悪かった。お詫びにほら、これあげるから、さっさと行っといで」

 グイっと突きつけられた千円札。顔がじんわり赤くなるのを感じつつも、どうも、と言ってポケットに捩じ込み、飛び出すように玄関を出た。時計を見ると八時五十五分。待ち合わせの場所までは、歩けば二十分、普通に走れば十分くらいだろう。

 ――まあ、今なら五分くらいだろう。

 靴紐を締め直して、走り出す。夜風が心地よい。左右の家並みが次々と後ろへ流れてゆき、軒下の灯りと街灯が、止め処もない流星の如く瞳を突いた。



「おっ――来た来た」

 待つこと十五分。二階建てのビルの下から、疲れた顔をして萌黄が出てきた。

 向かいの家の壁から背中を離して手を振る。萌黄はすぐに気づいて、少しだけ微笑んだ。

「ほんとに、来たんだ」

 呼び出しといてそれかい、と顔を顰める翔。冗談だよ、と萌黄は笑い声をあげた。

「やっぱ頼りになるね。ありがとう。助かるよ」

 そいつはどうも、と翔は肩を竦めた。そうして、二人並んで歩き出す。

「だいぶ、疲れてるみたいだな」

 横目で萌黄を見ながら、翔は言った。並んで歩こうとしても、どうしても萌黄の方が半歩遅れる。夕暮れの下校時とは比較にならないほど、足取りが重い。

 そりゃそうだ、と萌黄は深く深く息を吐いた。

「翔も、この時間まで勉強漬けになってみたら分かるよ。もうげっそり。頭ン中パンクしそう。今だったら、道の上でも寝れるよ」

「寝るな」

「寝ないよ。ああ――お腹すいたなあ」

「飯は?」

「食べてるわけないじゃん。――ああ、でもヤバいな。今日うち、ご飯ないかも」

 ないか、とだけ相槌を打つ。それ以上は踏み込まない。萌黄は歩きつつ鞄から財布を出し、

「一応、お金はもらってるから何か買って帰ろうかな」

「おっしゃ、じゃあ飯行こうぜ」

「え? でも、翔、もうご飯食べたんでしょ」

「別腹別腹。甘いもんなら入る」

「別腹って、男にもあんの?」

「ないの?」

「いや――知らないよ。でもさ、食べるったって、この辺ではちょっとヤダなあ」

「何でよ」

「いや、だってこんな時間に、男子と二人って……見られたらさ、嫌じゃん?」

「何だ、その古風な考え方」

「人目を気にするのに古いも新しいもないでしょ」

 そんなもんかね――と翔は肩を竦める。と、萌黄は一歩足を踏み出して、翔の、それほど大きくない身体で身を隠すようにして、

「それにさ、ちょっと嫌な感じがすんの。ほら、あれ――翔にも見える?」

 おずおずといった様子で傍目からは見えないよう、小さく一点を指差す萌黄。塾のある建物と、その真横の家の塀との間に、黒い影が蹲っている。よく見ると、人のようだった。汚らしいコートを着た、中年とも老人とも判断がつかぬ男で、地面に胡座をかき、胡乱な眼差しで、こっちの方を見ている。

 なに、あれ――と翔は訊いた。萌黄は、見えるんだ、と嬉しそうに言った。

「いや、見えるに決まってんじゃん。なに、あの汚らしいおっさん」

「わたしに分かるわけないじゃん。ちょっと前から、あそこにいることに気づいたの。ああやって地面に座って、こっちの方を見てくるのよ」

 物騒と言っていたのもあながち建前ではなかったということか、と翔は腕を組む。ね、不気味でしょう、と萌黄は言った。翔は相手を睨みながら、

「塾の先生に行ったら良いじゃん。警察かなんか呼んで、対処してくれんだろ?」

 それがね……と萌黄はそこで言い淀んで、続きを紡ぐことを躊躇う様子を見せた。翔はじっと萌黄の顔を見る。萌黄はおっとりしているように見えて、実際は極端なほど、人目を気にする。周りからマイナスに思われそうなことは、貝のように口を閉ざして語らない。しかし、今このタイミングでの緘黙はどういうことだろう。あの男の何が、萌黄の口を閉ざすのだろう。考えても、分かりそうになかった。

 やがて翔は指をパチンと鳴らして、

「じゃあさ、とりあえずここからは離れて、萌黄の家の近くのコンビニ行こ。そこまでは腹減ったの我慢できるだろ? それとも、今すぐ何か食わないと、ぶっ倒れそう?」

 そこまで追い詰められちゃいないよ、と口を尖らせつつも、急に足が早くなる萌黄。とにかくこの場から早く離れたいのと、とにかく腹が減っているのだろう。

 胸が不思議な動悸に踊っている感じがあった。萌黄を追い越さぬよう、後に続く翔。数歩ほど歩いてから、ふと背後を振り返ってみた。影に塗りつぶされて判然としないが、件の男はまだ、そこに座っているようだった。その姿を冴やかに見捉えずとも、こちらを射抜くような鋭い視線が、痛いほどに伝わってくるのである。


 塾から萌黄の家までの道途に公園がある。すべり台とブランコ、砂場しかない小さなものだが、ぶらりと立ち寄るには最適だった。

 ブランコに座って、コンビニで買ったおにぎりを食べる萌黄。よっぽど空腹だったのだろう。萌黄は既におにぎりを二つ胃の中に収め、今三個目に取り掛かっているのだった。健啖家ってのは、こういうのを言うんだろうと思いつつ、翔はパンを齧る。

 三つ目を片付けて、ペットボトルのお茶を半分ほど一気に飲んでから、萌黄はふっと深く息を吐いた。満足か、と問う翔に対して、首を横に振り、

「まだ、おかず食べてないから。でも、ちょっとは落ち着いたかな」

 声と顔色にも多少なりとも元気が戻っている様子だった。そうして、翔の持っているパンを指さして、

「やっぱ、お腹すいてなかったんでしょ。ごめんね、付き合わせた?」

 違うよ、と翔は言下に否定し、それまでちまちま啄んでいたパンの頭を、ガブッと咥える。

「萌黄の喰いっぷりに引いてただけだよ」

 頭使ってるからね――と言って、自分の蟀谷を指差す萌黄。

「無理に付き合わなくて良いよ。夜に間食すると、お腹出るよ」

「それ――お前は頭使ってないから栄養要らんだろ、ってことか」

 違うの? と眼を丸くする萌黄。違うよ、と翔は鼻を膨らませる。

「えっ? だって家帰って、何するの? ご飯食べてだらだらするだけでしょ」

 やらないといけないこと、たくさんあるんだよ――と翔は渋い顔。

「昼間寝てた分の勉強もしないといけないし、今日も宿題多かったし……。いや、自業自得だとは分かってるんだけどさ、やっぱ先生に教えてもらいながらする勉強の方が、何百倍も捗るわけよ。ほんとに――居眠りなんてするもんじゃないね」

 どの口が言うんだ、と萌黄。翔の言うことを、まったく信用していない。

「昼間の授業の補填なんて――そんな良い子ちゃんなら、初めっから授業中に寝たりしないよ。宿題、ほんとうに全部やったの?」

「やったよ? ――ああ、数学と英語に関しては、テキストの次のところも埋めといた。最近そうなんだよ。明日、起きられなかった時の保険、って感じかな」

「英語なら、あたしも塾で予習してるよ。言ってることがほんとか、テストしてあげる」

 それから数分に渡っての問答があった。萌黄が鞄からテキストを出して、予習範囲の設問と同じ問題を訊き、翔がそれに答える。萌黄の流暢な英文に対して、翔のそれはいかにもたどたどしかったが、答えとしては十二分のものであるらしく、萌黄が指摘、訂正することはなかった。

 萌黄が驚き半分、呆れ半分で翔の顔を見ると、翔はニヤリと笑って、逆に萌黄に英語で問うた。萌黄は口を閉ざし、それを誤魔化すかのようにペットボトルの残りを一気にあおった。どうやら翔の予習した範囲の方が、萌黄の先を行っているようだ。

 萌黄は鞄にテキストを戻し、ジッパーを閉めた。若干の沈黙。やがて深く深く、溜息を吐いて、萌黄が言った。

「翔――ほんとに、ほんとに、病院行ったほうが良いよ。このままじゃ、翔の不利になる」

「不利って?」

「翔が怠けているように見えるってこと。あたしだってそう思ってたし、先生だって最近の翔の授業態度が崩れているように見えてると思うよ」

「まあ――崩れているのは間違いないからなあ」

 他人事のようにごちる翔に、萌黄は顔を近づける。自分とは違う香りが鼻をかすめ、翔の心臓がびくんと跳ねた。

「でも、それは怠けじゃないよ。怠けなんだったら、夜になってから勉強の補填なんてしないもん。翔――本当は、昼間に起きて勉強したいんでしょう?」

「そりゃ――その方が楽だからな。先生に教えてもらったほうが捗るし」

「起きたくても起きられない。勉強したくても寝てしまう――それは怠けじゃないよ。きっと、翔の身体か心の問題だよ。やっぱり、何かあるよ。お母さんたちには心配かけるかも知れないけど、診てもらった方が良い」

 きっぱり明言する萌黄。対して翔は、そうだなあ――と、どこまでも煮えきらない返答だった。

「困ってるのも確かなんだけど――心身の不調って言われても、全然ピンとこないんだよな。何でこうなったのか、自分では全然心当たりないし」

「いつからだっけ、そうなったの。さっきは詳しいこと聞けなかったけど」

「自覚があるのは、一ヶ月くらいか前からだよ。その時は、梅雨のせいだと思った。雨で自律神経が乱れるって、よくあるんだろ。でも今は、梅雨明けしちゃってるしなあ」

 分からないなあ、と頭の後ろで腕を組む。ブランコの上で、仰け反り気味の態勢。そのまま引っくり返りそうになるのを、絶妙なバランスで保っている。

「萌黄に言われて、今更ながら不安になったよ――。何でこんなに、昼に弱くなったんだろうなあ」

「そりゃァ――てめえがウサギだからよ」

 ドスのきいた声が耳に届いた瞬間に立ち上がっていた。

 萌黄を背で守るように立つ。何の意識もないのに背が低く屈まり、腰を据えた粘り強い構えを見せた。目は声のした方をきっと見据えており、灯りが乏しい中であっても、相手の姿を冴やかに映していた。

 中肉中背の髭面。年は三十代半ば。見てくれはあまり気にしないらしく、だぶっとしたズボンに、汚れシミの目立つTシャツ、その上から薄手のパーカー。服に邪魔され、体格は把握しがたい。黒い髪は伸び気味で脂ぎっている。無精髭に覆われた口元をヒン曲げて冷笑を浮かべている。

 相手に関するこれら視覚情報が一瞬のうちに頭の中を通り過ぎていった。相手の全貌を把握するまでに一秒もかかっていない。自分自身の知覚に、翔は驚きを隠せなかった。

 何もかもが、見え過ぎる。

 相手の不気味な笑み、そこに込められた害意まで、手に取るように、はっきりと。

「なんだ、どうしたァ。何――企んでやがる」

 ゆらりゆらりと身体を揺らしつつ、男が近づいてくる。

 翔は相手の目を真っ直ぐ睨めつつ、萌黄を背にじりじりと後ずさった。

「翔――あれ何」

 小声で萌黄が聞く。翔は答えない。少しでも気を緩めたら、眼力を和らげたら――その瞬間に、食らいつかれそうだった。目一杯の眼力で相手を牽制しつつ、考えた。

 答えはすぐに見えた。自分たちが今置かれている状況を考えれば、選択肢はそんなに多くない。

 逃げるしかない。

 脳よりも先に全身が、相手の害意を受けて危険信号を発している。

 相手の目的や意図なんて、どうでも良い。とにかく逃げる。相手との距離がまだ、十分にあるうちに――。

 ヒヒッと声が漏れた。不気味な笑い声――存外それは無意識に自分が発していたのかも知れなかった。

「翔――怖い」

 小さく萌黄が呟く。その声が鼓膜を震わせた瞬間、翔の身体が躍動した。

 素早く踵を返して男に背を向ける。眼前に手を突き出し、萌黄を抱き上げた。

 えっ……と萌黄が小さく呟いた時には、男との間隙を数十メートルにまで空けていた。

 翔は奔った。風を纏い、地面を蹴り、夜に飛んだ。

 轟々と唸り声を上げる世界。繰り出すスピードに周囲の方がついていけず、何もかもが後ろに流れていく。

 戸惑いと混乱。狙われているという現状にではない。人一人を掲げていながら、何の重みも感じず、高速で肢を動かしていながら、まるでもどかしさを感じることがない、この身体……。自分のものであるはずが、まるで実感がないことへの困惑。しかしその中で確かに感じる、一抹の高揚感――。

 左腕に、ぎゅっとしがみつかれる感触があった。見下ろすと、萌黄が目を閉じ、身体を強張らせて、身体を寄せていた。その様を見て、身体の中に滾る熱があった。

 絶対に、追いつかれない。絶対に――逃げてみせる。

 後ろを振り返る必要はない。毒々しい殺意の眼差しが、背中にまとわりつく。それを振り払うまで、脱兎の如く走り抜くしかないのだ。翔は大きく息を吸って、地面を蹴った。もはやどこを走っているのか、どこを飛び越えているのか、自分でも分からない。自分の足が向く先こそが道――そんな気がした。

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